塩対応な我が家のメイドは、僕の初恋相手。

ミソネタ・ドザえもん

我が家のメイドは塩対応

 三月末、母を見送った成田空港からの帰り道は、まもなく春を迎えるというのに、肌寒い。本当にこれから春はやってくるのだろうか。そんな疑問を感じつつ、母からもらった潤沢な生活費を早速ファストフードに使った。


「ただいま」


 ご飯を食べて家に帰って、返事のない家に少し寂しい気持ちになっていた。

 これからしばらく、父も、母もいないこの一軒家で暮らすことに、僕は早速ホームシックのような寂しさを覚えたのだ。

 父が会社の都合でアメリカ転勤が決まったのは、随分と前だった。何度かアメリカと日本を行ったり来たりしながら、父は家を決めて、来年度からのアメリカ支社での仕事の準備を進めた。そんな父がホームシックにかかり、僕を放って母をアメリカに招いたのは、中学卒業式間近の合格発表やなんやらで僕は最も落ち着かない時期だった。

 そんな状況だったから、僕は、アメリカに行きたい盛りの母の説得に応じてしまい、これから少なくとも一年は、この家で一人暮らしをする羽目になった。


 中々寝付けない夜。強風でカタカタと揺れる窓を見ながら、飛行機に乗る母は大丈夫かと少し心配になった。

 まもなく、春休みが終わり、新天地での高校生活がスタートする。


 それに向けて僕の気持ちは……逸るどころか、滅入る一方だった。

 母は煩わしい人だった。母の言いつけ通り風呂掃除をしなければヒステリックに叫び、買い物をしないと怒鳴りだす。

 だから、そんな母がいない生活も、最初は良いかもと思った。


 だけど、母が旅立つ直前、僕はこれからご飯の支度も、洗濯も、掃除も、全部一人でこなさないといけないと気付くと、煩わしさはどこへやら、残ったのは危機感と話相手のいない寂しさだけだった。

 不安な気持ちで一杯だった。


 これから僕は、この家で一人、野垂れ死ぬことなく生きていくことが出来るだろうか。


 成田空港からの帰りの電車で、母からのSMSが届いていたが、それを開く気にはならなかった。多分、飛行機から空港の様子でも写真に撮っただとか、その程度のことだと思ったし、これからのことを考えると母への返事さえ億劫だった。


「父さん。母さん」


 泣きそうな気持ちを必死に堪え、真っ暗な部屋で、僕は一人、目を瞑った。

 

 翌朝僕を目覚めさせたのは、スマホのアラームでもなく、母からの連絡でもなく、家のチャイムを鳴らす音だった。

 どうやら来客のようだ。

 宗教の勧誘とかだろうか。そう思って、億劫に感じながらも、他に来訪対応する人がいない事実を思い出し、玄関へと向かった。


 足取りは、とても軽快とは言えなかった。一夜明けても、気持ちは晴れ渡ることはなかった。


 重たい足取り。

 階段を下り、廊下を歩き。


 居留守を使おうかと逡巡し。


 なんとか、扉の前までやってきた。


「はい」


 そして、僕は再会する。


「おはようございます」


 玄関の扉を開けると、目の前にいたのは一人の少女だった。丁寧な挨拶で、深々と少女は僕に向けて頭を下げた。


 僕は、突然のことにただ思考を停止させるのだった。


「今日からお世話になります。高城栞子です」


 そして、少女の名前を聞いて……顔を見て、記憶が蘇った。


「……栞子ちゃん?」


 その名前を忘れたことは、誇張抜きで一度もなかった。一度足りとてなかった。


 僕が……僕達がまだ保育園の時、彼女と僕は出会っている。




 彼女は、僕の初恋相手だった。




 物心つく前の記憶を覚えている人は限り少ない。それは、記憶というものが遠ざかれば遠ざかる程思い出すのに時間がかかるから。

 でも、僕は未だにあの日のことを鮮明に覚えている。それほど、僕はあの時の……僅か五歳の時の記憶を美化し、まるで色彩豊かな巨匠の絵画のように大切に保管しているのだ。


 あの頃の僕は、人生の絶頂期を迎えていた。今では内向的と言われるこの性格も、小さい頃には落ち着いた性格と捉えられ、大人びた人と見られ、好印象と繋がったのだ。女の子からは度々呼び出され、そうしておままごとに付き合ったり、両の手を引っ張られたり、今では考えられないような時間を過ごしてきた。

 幼気な少女達に好かれる時間を送りながら、さりとて僕はそういう子達には目も暮れず、一人の少女に付きまとった。


 それが、件の栞子ちゃんだった。 

 僕が彼女に付きまとった理由。それは最初は、ただ都合が良かったから。

 彼女は優しい子だった。僕がゲームをしたいと言えば好きでもない格闘ゲームに付き合ってくれたし、僕が漫画を貸して欲しいと言えば、快く漫画を貸してくれたのだ。

 僕の周りにかつて付きまとった人は、とにかく僕を振り回した。おままごとに付き合えだの、あの子と遊ばずあたしと遊べだの。そんな厄介ごとに巻き込まれ、挙句泣かれて先生に怒られるだなんてことを繰り返す内に、僕は我儘勝手な人と遊ぶのが嫌になっていたのだ。

 今になって思えば、栞子ちゃんから見た僕がまさしくその我儘勝手な人だったわけだが、そうだったからこそ僕の今の体たらくぶりがあるかと思うと、それは実に理にかなった理由だと思わされた。


 僕が栞子ちゃんへの気持ちを好意に変えていったのは、彼女と出会って保育園卒業間近の夏のことだった。

 その時の僕は、星にハマっていた。人類が何千年とかけても辿り着くことが未だ出来てない無数の世界。それが光り輝いていると知って、ロマンを感じない男などいなかった。児童用の星座の本を見たり、テレビの教材を見たり、日に日に僕はその世界にのめり込んでいっていた。


『健司君。星を見に行こうよ』


 栞子ちゃんが僕にそんな提案をしてくれたのは、丁度まさしくその時だった。


 それは、栞子ちゃんが親の都合で転校していくことになる一か月前のことだった。

 僕はこれまで、栞子ちゃんを誘う時に我儘勝手を突き通してきた。しかし、いざ栞子ちゃんにそんな誘いをされると、すぐにうんと同意することが出来なかった。

 星を見に行く。つまり、夜出歩く。そのことに僕は、僅かながらの恐怖を抱いていたのだ。悪漢と出会うかも。親にバレて怒られるかも。


『じゃあ、あたしが健司君の家まで行くよ』


 当時の僕達の家の距離は、三軒隣と近かった。ただ、六歳児が深夜近い時刻に出歩くだなんて、そんなこと普通の神経ならば許されるはずがなかった。

 ただ僕は、それならば、と栞子ちゃんの願いを聞き入れた。その晩、十時くらいに彼女は一人、僕の家の前に現れた。


 夏だというのに、少し肌寒い夜だった。

 当時の僕の寝室は一階にあった。事前に寝室の傍らにサンダルを用意しておき、風に打ちつけられたかくらいに優しく窓が叩かれた時、サンダルを履いて窓から飛び出た。


 こんばんは、と薄着の栞子ちゃんに挨拶し、僕達は地面に腰を下ろして空を見上げた。


 夜、いつもなら寝る時間に見上げた空は、どこまでも果たしなく広がっていて、ただ美しかった。

 そんな思いを味わわせてくれた栞子ちゃんに、僕は感謝の念を抱いたのだ。


 そして、それが好意に変わったのは、栞子ちゃんが翌日熱を出して保育園を休んだことが理由だった。

 保育園にいる間、僕はずっと泣いていた。栞子ちゃんがその日熱を出した理由は、どう考えても夜風に長時間当たったせいだった。

 つまり、僕のせいだったのだ。


 子供ながらに自責の念に駆られていた。

 だから僕は、母に彼女の見舞いに行きたいと駄々をこねて、彼女と会った。気だるそうにベッドに横たわる彼女は、優しく僕にこう言った。


『昨日のことは、二人だけの秘密だよ?』


 僕のせいで熱まで出したというのに。

 彼女は僕を責めるどころか、僕を庇ったのだ。


 その彼女の優しさに触れて、僕は彼女に恋をした。


 それから一週間後のことだった。


 彼女が、引っ越しをすることを教えてくれたのは。


『また会おうね』


 彼女との別れの日。

 車に乗り込む彼女を呼び止めて母に買ってもらった花束を渡した時、栞子ちゃんは僕に微笑んでそう言った。


 でも、あの日以来、僕達は一度も出会うことはなかった。




 そんな彼女との突然の再会は、僕にとってあまりに予想外な形で巡って来た。


「どうして」


 言いたいことは色々あった。

 でも僕は、突然の再会にまともな思考が働いていなかった。


「……奥様から、連絡は受けていませんか?」


 そんな僕に、栞子ちゃんは困った様子で尋ねてきた。


「連絡……?」


 母さんから、連絡……?

 そう言えば、成田空港からの帰りの電車の中、母さんからSMSに連絡が合ったことを思い出した。画像付きだったし、離陸前に飛行機からの空港の写真でも撮って送ってきたのだろうと思って目を通していなかった。

 一度後ろを向き、ポケットに入れていたスマホを操作し、僕は絶句した。


『あんたの一人暮らし不安だから、メイドさん雇っておいたから。あとよろしく。その子の写真、送っておく』


 添付された画像を開くと、今丁度目の前にいる少女の。栞子ちゃんの写真が送られていた。


「事情、おわかりいただけましたか?」


 僕は何も言えなかった。事情はわかった。でも、理解は出来なかった。

 しかしそんな僕のことを気にせず、栞子ちゃんは淡々と頭をもう一度下げた。


「今日から住み込みであなたのお世話をさせて頂きます高城栞子です。よろしくお願いします」


 栞子ちゃんは再び、丁寧にお辞儀をした。

 わからないことが多すぎて、未だに思考はまとまらない。

 でもまもなく、僕は栞子ちゃんの一言が引っかかった。


「……今、住み込みでって言った?」


「言いました」


 さらりと栞子ちゃんは同意した。

 住み込み。つまりは、泊まり込みで僕の世話をする。


「はあっ!?」


 思わず、近所の目も気にせず、僕は大声をあげていた。


「健司さん。近所の目もある中で大声を上げないでください。はしたないです」


「あ、はい」


 ナイフのように鋭利な栞子ちゃんの言葉が胸に刺さった。

 先ほどから思っていたが、栞子ちゃんはかつてと比べて随分と変わって見えた。言葉遣いが丁寧になり、それでいて少し言葉にも棘があるように感じた。


「一先ず、お家に入れてくれませんか? 仕事もありますので」


 仕事、という言葉に気圧され、僕は栞子ちゃんを家に招き入れてしまった。


「お邪魔します」


 そう言って靴を脱いで、我が家に足を踏み入れた少女を見ながら、僕は正気に戻った。


「えっ、まさか本当に住み込みで働く気?」


「はい。仕事ですので」


 キョトンと首を傾げた栞子ちゃんを見ていたら、僕が間違っているような気がしてくる。しかし、ブンブンと首を横に振って我に返った。


「君、僕と同い年じゃないか。高校生にもなってない人がバイトなんて出来ないよ」


「大丈夫です。これはバイトではないので」


「え?」


「奥様とは、口約束で今回の仕事を受諾させて頂きました」


「口約束って……そんな危なっかしい」


「信頼に足る人ですので」


 とんでもないことを淡々と語る栞子ちゃんに、気付けば言葉がつっかえ始めていた。


 ただ、しばらく僕は考えた。

 このまま、栞子ちゃんが住み込みで……一緒に暮らすことも、悪くないのではないか、と。


 ……いや。


「帰ってくれない? 自分の身の回りのことくらい、自分で出来るから」


 あの時から、僕は随分と情けなくなった。そんな姿を彼女に見せたくなかった。

 

「駄目です。仕事ですので」


「そんなの、口約束なんだから適当でいいじゃないか。仕事したって報告すればいいんだ」


「出来ません。奥様との約束として、健司さんの顔を毎日撮って送るように指示されています」


「何、その羞恥プレイ」


 思わず頬が染まった。


「奥様も、あなたがそんなことを言うの、予見していたのではないでしょうか」


 淡々と、栞子ちゃんはそれらしいことを言った。

 ……ただ、確かに。日頃の自堕落で唯我独尊の僕の態度を見れば、母さんがそれくらいのことを考え抜いてもおかしくはなかった。


「それに、もう無理です。既にお金を振り込んでもらっていますので。一年分」


「一年分っ!???」


 一年って、これから一年は、毎日彼女と同居しないといけないのか?


「安心してください。土日は、夕飯を作った後は、家に帰らせて頂きます。家庭の都合がありまして」


「そっか」


 それは良かった。

 ……いや良くない。少しでも自由時間があるんだ良かったと思ったけど、それ以外の時間は一緒って全然良くない。


「君、なんでそんな仕事受けたんだ。同じ年頃の男と二人で生活だなんて、手を出されたらどうするのさ」


 僕は、モラル的な方向で彼女の行いを責めることにした。


「手を出すって、例えばどのようなことでしょうか?」


 そんな僕に、彼女は答えにくい質問をしてきた。


「……そりゃあ、襲われるとか、とにかくハレンチなことだよ」


 まともに栞子ちゃんの目は見れなかった。ただただ恥ずかしかった。




「……あたしは、そういうことをするのは、好きな人と決めていますので」




 ……それを僕に言った意味は。


「そっか」


 つまるところ、彼女の気持ちは僕なんかには向いていない、という意味だった。




「それでは早速、仕事に移らせて頂きます」


 淡々とした態度を崩さず、栞子ちゃんは会釈をして我が家内を闊歩しだした。


 僕はショックのあまり、反論する気力を失くしていた。


「奥様から、家に入ったらまずは室内の清掃をお願いされています。海外転勤の準備で手一杯で、全然掃除が出来ていなかったから、と」


 パタパタ、と栞子ちゃんが廊下を歩き、掃除機を見つけて、階段を昇って二階に上がった。

 彼女が向かった先は、二階の一番奥の部屋。恐らく、手っ取り早く一番奥の部屋から片付けようと思ったのだろう。


「あーっ、ちょっと待ったー!」


 反論する気力を失くしていた僕だったが、足音から彼女が入ろうとした部屋を察して大声を開けた。


 ガチャリ。


 栞子ちゃんが開けた部屋は、脱いだ衣服が床に散らばり、机の上にはプリント類が散乱し、見るも無残な景色が広がっていた。


 まあ、僕の部屋なんだけど。


「……あなたの部屋ですか?」


 栞子ちゃんの顔色が少し変わった。口論では一切顔色を変えれなかったのに、ここで変わるだなんて生き恥もいいところだった。


「そうです」


「……何日、掃除をサボったのです?」


「……わかんない」


 首を横に振って、


「でも、掃除はしようとしたさ。したけど……散らばったそこを見たら、やる気が伴わなくてさ。それだけ。本当、それだけ」


 僕は、言い訳を始めた。


「失礼ですが……部屋の掃除とは、常日頃から整理をすれば取っ掛かりでやる気を失うことはないことですよ」


「……はい」


 正論すぎて、返す言葉もなかった。

 栞子ちゃんは、部屋には入らず階段の方へと向かった。どうやら、この部屋は自分で何とかしろってことらしい。まあ正直、その方がありがたい。早速彼女に自分のだらしないところを見せてしまったことに辟易としながら、僕は思っていた。


「すみません」


「何?」


「ゴミ袋はどこですか?」


 しかし、階段を降りようとする栞子ちゃんに、僕は尋ねられた。


「……なんで?」


「その部屋を掃除するからです」


「自分でやれってことじゃなかったの?」


「何を言うんですか。掃除をすることが、お世話係のあたしの仕事です」


 淡々と、栞子ちゃんは言った。


「ただ、私物を捨てていいか判断に迷うので、一緒に掃除を手伝ってくれると幸いです」


 一階からゴミ袋を手にし、栞子ちゃんの指示で衣類を入れる籠を手にし、僕達は僕の部屋の掃除を始めた。

 我ながら、荒れ果てた中々壮観な汚さの部屋だった。

 衣類は床に放っておいたものは洗濯籠に入れさせられ、プリント類は一枚一枚栞子ちゃんが目を通して捨てるかどうするかを判断していった。


 しばらく無言で掃除していた僕達は、


「……これは?」


「あーっ!!!」


 栞子ちゃんが僕の宝物箱を見つけたことで、また騒ぎ出すのだった。


「それは開けなくていいっ!」


「……すみません。もう開けちゃいました」


 そう言って、栞子ちゃんは僕の意思に反して宝物箱の中身を物色していった。


「見なくていいから」


「アルバム本が劣化などしていたら、買い替えないといけないでしょう」


「……まあ、確かに」


 丸めこまれた時、栞子ちゃんは宝物箱からアルバムを手にしていた。ペラペラとアルバムをめくりながら、栞子ちゃんは本の劣化具合を確認しているようだった。

 そして、アルバムの粘着力が落ちていたのか、本をめくっている拍子に、一枚の写真が滑り落ちた。


「……小さい頃の写真、ですね」


 滑り落ちた写真は、小さい頃の僕と、隣には少女が写っていた。手には焼きそば。確か、縁日に行った時の写真だ。

 そして僕と写る少女は、他でもない栞子ちゃんだった。


「……楽しかったよね」


 恥ずかしかった。

 今では好意を持たれていない相手のことを、未だに引き摺っていると思われそうで。ただ、残念ながら本当に引きずっているのだから、救えない。


「……そうですね」


 微妙な顔で、栞子ちゃんは言った。


「それにしても、本当、酷い部屋」


 しかしすぐに、気を取り直して僕の駄目出しをしてきた。


「……すみません」


 栞子ちゃんからの文句に、僕は謝罪することしか出来なかった。


 それからも僕達は、僕の部屋の掃除を続けた。捨てるものと残すものを決める単純作業を繰り返しながら、僕は栞子ちゃんのことを考えていた。

 以前の彼女は、いつだって笑顔だった。嬉しそうに、楽しそうに、こっちまで楽しくなる笑顔で、話してくれた。


 しかし、今は……塩対応で、淡々と、鉄仮面を貫いて。


 さっき写っていたアルバムの栞子ちゃんは、幻だったのではと思うくらいの変貌具合だった。


 それから僕は、侘しい感情は胸の内にしまい込んで、部屋の掃除に没頭した。栞子ちゃんからしたら今日はもっと掃除を進める気だったかもしれないのに、結局僕の部屋だけで手一杯になっていた。

 夕飯時、栞子ちゃんは僕に手料理を振舞った。


「う、美味い……」


 彼女の手料理は、お世辞抜きに母より美味しかった。

  

「……料理得意なんだ」


 ただ僕は、そのことを今日まで知れていなかったことに、凹んでいた。


「……家庭の事情です」


 家庭の事情、か。


「ねえ、どうしてウチなんかで住み込みのバイトしようと思ったの?」


 今更ながら、僕は彼女がウチに住み込むことを決めた理由が気になった。


「条件が良かったからです」


 少しは期待していた僕に、栞子ちゃんは脈なしの答えを返した。


「食費は払ってもらえますし、バイト代は奮発されますし、何より実家より高校が近いんです」


「へえ、高校は?」


「英有高校」


「ぶふっ」


 思わず、口に含んでいたご飯を噴き出した。


「何をしているのですか」


 向かいで食事をとっていた栞子ちゃんが、急いで布巾を台所から持ってきていた。


「英有高校って、僕と一緒の高校なのっ!?」


「はい。偶然とは怖いものです」


 僕が近場だからと選んだ高校に。本当、偶然って怖い。

 栞子ちゃんの振舞ってくれた料理に舌鼓を打って、風呂に入って、再び部屋の掃除を始めて、何とか終わらせる頃には時刻は夜十二時を回るくらいになっていた。

 

「……これからはもう少し、部屋の整理を常日頃から心得てください」


 掃除終わりに、チクリと栞子ちゃんに苦言を呈された。


「うん。そうする」


 僕としても、彼女にあまりだらしない姿を見せるのは気が引けた。


「……じゃあ、僕もう寝るよ」


「そうですね。寝た方がいいです」


「君は寝ないの?」


「あたしは、奥様に日報を書くので」


「……そっか」


 そう言って部屋を出て行く栞子ちゃんを見送って、僕は本当に疲労が蓄積されていたので、そのまま寝ることにしたのだった。

 僕は、電気を消して、ベッドに飛び込んだ。


 枕に頭を沈めると、今日一日気を張っていた心も体と一緒に休まっていくような気がした。


「変わっちゃったな」


 ただ中途半端に疲労が回復したから、僕はまた栞子ちゃんのことを考えてしまっていた。

 あの日から、保育園の時から。


 今日再会した栞子ちゃんは、あまりの変貌具合だった。


 あの時の微笑みは無くなり、貼り付けられた鉄の仮面。あの仮面を通して、彼女の心は見えてこなかった。


「どうして母さんは、ウチに栞子ちゃんを寄越したのだろうか」


 普通に考えて、高校にこれから入るという彼女が、自ら進んで母にコンタクトを取ったとは考えづらい。

 であれば、母から栞子ちゃんに連絡をしたのだろう。


 それは一体、どうしてか……?




 考えるまでもなかった。




 彼女は……栞子ちゃんは変わった。

 かつてのような無邪気な笑みは消え去って。

 かつてのように僕に付き合ってくれなくなって。


『……あたしは、そういうことをするのは、好きな人と決めていますので』


 そして、僕のことなど眼中にない。


 そんな彼女の変貌は、多分おかしな話ではない。五、六歳の記憶を持ってきて、あの時のままでいてくれだなんて、そんなことはありはしない。

 人は、変わる生き物なのだ。


 かつての気持ちにいつまでも囚われ、縛られ、つまらなそうに生きる僕に……母は、言いたかったのだろう。




 いい加減、昔のことは忘れろ、と。




「アハハ」


 思わず、苦笑してしまった。

 あまりにも母の思った通りだったから。

 僕だって頭の片隅ではわかっていた。そんな童心の記憶を未だに大切にするだなんて、愚かなことだって。


 ……でも、僕は。


 あの日、栞子ちゃんと別れたことも。

 あの日、栞子ちゃんと一緒に公園で遊んだことも。


 あの日、栞子ちゃんと一緒に星を見たことも。




「……忘れるなんてこと、出来ないんだ」




 目を瞑ったのは、寝たいからではなかった。目を開けているのが、ただ億劫だったから。


 しばらくそうして、静けさの中、廊下を歩く音がした。

 栞子ちゃんだろう。日報を書き終わって、彼女も眠るのか。


 そう思ったが、足音が僕の部屋に近づいてくるのがわかった。


 ガラガラ


「……起きてますか?」


 控えめに開けられた扉。

 控えめな声。でも間違いない。栞子ちゃんの声だった。


「……寝ましたか?」


 静かな足音が、こちらに寄ってきた。

 僕は身構えていた。寝ている僕に、彼女は何をする気なのか。今日一日の文句でも伝えるのだろうか。


 パシャリ


 しかし、聞こえてきたのは愚痴ではなく、シャッター音。


「……ふう」


 そして、ため息。

 ……そう言えば。仕事の報告として、僕の顔を撮ることが母さんより義務付けられていることを、僕は思い出した。


 栞子ちゃん、どうやら仕事の一つを忘れていたらしい。少しうっかりなところは変わっていないらしい。

 少しだけ胸の奥がジーンと温かかった。




 チュッ




 そして、そんな感慨深い僕に、栞子ちゃんは、何かをしてきた。温かい何かが頬に触れた。温かく、そして柔らかい何かが。


 


 !!!?!??!?!?!?!??!?!??!?




 何が起きた。

 何が起きたっ!?


 一体僕は今……何を。


「……おやすみの」


 あの時から変わり、鉄仮面になったと思っていた栞子ちゃんの声が、少し震えていた。




「おやすみの、チューです」



 静かに、だけど足早に、栞子ちゃんは部屋を出て行った。

 パタンと扉が閉まる音を聞いて、僕はベッドから上半身を起こした。栞子ちゃんの何かが触れた頬を、指で優しくなぞっていた。


 停止する思考を無理やり動かした時、まるでアルバムから滑り落ちた写真のように、スルッと言葉が蘇った。




『……あたしは、そういうことをするのは、好きな人と決めていますので』




 僕は、頬を真っ赤に染めた。

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