ヘルペス脳炎疑い

 一晩ひたすら祈り続けた。息子は大丈夫と信じる気持ちもあった。

感じたことのない空間の中に居続けながら祈った。


いつまでも動かないように見えた時計の針は確実に動いていた。

いつまでも黒い空は、少しずつ明るくなる。


カーテンの向こう側が明るくなるにつれて、大丈夫という気持ちが大きくなった。


そばに置いた携帯が鳴ることはなかった。


 朝7時過ぎに、担任の先生が部屋に来られた。

息子のリュックサックが寮の2階の階段にあったと持って来てくださった。

息子の部屋は1階。2階より上へに行くことはないと以前から聞いていた。やっぱり息子らしくない行動。リュックの中に財布があった。保険証があったから安心。先生からは、金額確認してと言われたが、私は、寮に盗る子はいない、息子の様子がおかしいと先生に伝えてくれた寮の子たちを信じていると話した。実際、何も無くなっていないし、保険証さえあれば良かった。


 病院の午前中の診療開始時間に合わせて、病院へ向かった。病院まで初日は歩いて行った。1時間半。外来の待合室で午前中を過ごした。

 もし、電話が来てもすぐに上に行ける。

息子と同じ敷地にいるだけでも気持ちが楽だった。


 待っている間、祖父母やご先祖様、神様、仏様に祈った。

周りが受診の人たちで行き来する。テレビがついている。いろんな音が聞こえる。

椅子に座って、じっとしていても常に周りは動いている。でも、時計の針の動きが止まっているように感じる。ここでも感じたことのない不思議な感覚があった。


やっと面会時間になった。14時。

面会者名簿に記名し、面会者のシールを上半身の見えるところに貼り病棟へ行ける。エレベーターを待つのがじれったくて、階段で走って5階へ行った。


ナースステーション隣の観察室を身を乗り出して覗くと、

昨日息子が寝ていたベッドの位置に、顔に白い布が掛けられた方がいた。

(なんで!!!)

おもわず口に手を当てて、声を出さないようにした。涙が出そうになった。


ナースステーションにいる看護師さんを呼ぶと

「〇〇君ですよね?部屋移りましたから。」

心臓が一気に落ち着いた。涙も引っ込んだ。

「夜中に2回部屋を移ってもらったんです。意識戻りましたから。」


4人部屋に移っていた。4人それぞれにカーテンをしていて誰がいるかわからない。

ここだと言われ、声を掛けながらカーテンを開けると息子はベッドに座っていた。

「なんでいんの?」私の顔を見て驚く息子。

「昨日から来てたよ。昨日、声掛けたら目クリクリして驚いてたよ。」

「うそ!・・・覚えてない・・・。昨日来たの?」


昨日のことは、記憶は途切れ途切れと話していた。

今は、しっかりと会話が成り立つ。目もしっかりとしていて、表情はいつもの息子。

 

息子に聞くと、おとといの夜中あたりから気持ち悪くてトイレに行きたいけれど歩けなくなっていた。歩いてもすぐ転ぶ。起きても力が入りにくくて何度も転んだと。


「トイレの左側の壁が穴開いてた。転んでぶつけたの?」頬を触りながら言うと


「穴?!壁に穴あいてたの??知らないよ!」驚く息子。


「ここ擦り傷あるの。たぶん、そこで擦りむいたと思うよ。」

左頬を触らせて自分で確認させると、擦り傷に驚いていた。

トイレに行くだけでかなりの時間がかかったと。

もしかすると、息子の感じる時間は実際はその何倍もかかっていたのかもしれない。

部屋の散らかし様も、全く記憶になく、いつも通りにしていたと。

引き出しの物を出していないと。部屋中にありとあらゆるものが出ていたと話しても、自分は記憶がないから信じていなかった。


「よく、朝のバスに乗れたね。」と話すと

「バスに乗った?オレが?夜中のトイレに行くまで転んだ事しか覚えてない。バスに乗ったんだ・・・」


フラフラになりながらバスに乗って、隣の子が様子がおかしいって先生に言ってくれて、ここの外来に来て、入院になった。と昨日、先生から聞いた受診までの流れを伝えると、バスの隣の子や、学校についてからの先生とのやり取りの一部を断片的に、うっすらと覚えている程度でほとんどは記憶がない様子だった。


 夕方、私が来て話したことは覚えておらず、

でも、夜中に2回部屋が変わったことは覚えていた。

部屋移動の辺りからは、意識がはっきりと戻ったのだろう。

以後、意識はしっかりとして、聞いていた「様子がおかしい」という状態はなかった。


 連日検査が続いた。CT、MRI、髄液検査、血液検査。

病院嫌いの息子には「地獄の日々」


 髄液検査をした日から数日は、立位になると激しい頭痛が続いた。

痛みを伝えても初日は痛み止めをもらえず、トイレに起きると激しい頭痛に

数時間苦しんだ。尿器を借りてきて、起きずに尿器を使うように話すと

「嫌だ!」

「さぁ、どうする??トイレに歩けば、あの頭痛が1時間以上続くよ。

 これ(尿器)使えば、寝たまま使えるから、頭痛はないよ。さぁ、どうする??」


 頑なに尿器を拒否するが、まず、1回使ってみなさいと、

「布団の中で見えないようにする。ただ、こぼさないように当て方とか、支える場所とか教えるから。できるところは自分でやってごらん。できないところ手伝うから。」と、ほぼ強制的に使わせてみた。


 頭痛なく排尿できることが「こんなに楽なの?!」と、息子は感激して

その日は尿器を使った。

痛みがないっていいねぇとニコニコしている息子がかわいかった。


頭痛を訴えて2日目にやっと痛み止めをもらえた。

尿器も使わずに済んだ。今になってみると、なぜすぐに痛み止めをもらえなかったのだろうか?痛み止めをくださいと言えばよかった・・・と思うが、その時は気づいていない。


 起きても頭痛が無くなった頃、シャワー許可が出た。

転ばないように椅子を使って座ってシャワーすること、母付き添い必須で許可が出た。椅子に座った息子の脱いだ服を、私はうしろで受け取った。

腰を見ると、絆創膏があり剥がした。髄液検査の針の跡がかなりあった。

思わず数えてしまった。

12か所。

12回も針を刺されたのかと思うと

シャワーを浴びる息子の後ろ姿を脱衣所から見て、初めて涙が出た。

「痛かったでしょ?」と聞くと

「検査より、そのあとトイレに起きた時の頭痛の方がひどかった。」と笑う息子。

暗い帰り道、それを思い出しては泣いて帰った。


私は、息子と面会時間めいっぱいおしゃべりをしていた。

息子と同じくらいの子どもを持つ看護師さんは、

「仲がいいですよね。うちなんて、全然しゃべってくれないの。

 いつ来ても、いつも話しててうらやましい。」


昔から、よくしゃべってくれる息子。私にはおしゃべりは当たり前すぎて

うらやましいのかぁと思った。しゃべらないなんて、私も息子も無理だろうなぁ。

話せる子でよかったなぁとちょっぴりうれしくなった。


入院5日を過ぎる頃。午後7時すこし前。

面会時間終了の院内放送が鳴り、帰る準備をしていたら

目に涙をためた息子が「・・・オレも帰りたい・・・」と涙をポロポロ流した。


4人部屋で他の3名は高齢の方。夜中に大きな声を出して怖いこと。

夜間出入りする足音が、スタッフか患者か、わからず怖いこと。

周囲に聞こえないようこそっと言ってくれた。

話しながら泣いていた。


その姿を見て、私も一緒に泣いてしまった。

「よくなってきてるはずだから。先生に早く退院させてって頼んでみよう。

 心配な時には、ナースコールを押して怖い事を伝えていいよ。」

そう言って頭をなでた。部屋を変えてもらう?と聞いたが大丈夫と。

「じいさんたちもかわいそうだから。」と

帰り道、寮に着くまで泣いて帰った。この日は涙が止まらなかった。


 生きててよかった。

最近見たことのない息子の涙を見てつらいという気持ちもあったけれど

こんな風に痛い、怖いと言える状態になっているのは、生きているということ。

生きてることに安心した安堵の涙。


おじいちゃん、おばあちゃんありがとうございました。

神様、仏様、守ってくださったみなさまありがとうございました。

心の中で、小声でつぶやきながら、泣いて帰った。


部屋に入ると私の靴下に血がにじんでいた。


 自転車を借りていたけれど、坂道が多くて半分以上は引いて歩くようになるから

自転車を使わなくなった。私は車で通勤し、建物の中で移動するだけの仕事。動きっぱなしだけれど、長距離を歩くことに慣れていない私の足。動きっぱなしと長距離歩くことの違いをこんな形で知った。


 足の爪の数か所は内出血で紫色、足の所々に血豆ができていた。

痛みがないと言ったらうそになるけれど、気にならなかった。


息子が生きていればそれでいい。

なにが起きても、息子の命とは比べ物にならない。


寮の夕食は、私の名前を書いて取っておいてくれていた。

泣いて帰った時には、いつも

(お母さんがんばれ。いっぱい食べてね。)と

調理担当のおばちゃんの手書きのメモが入っていた。

泣いている私がおばちゃんに見えているのかと、メモを読んでまた泣いた。

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