94『例えこの夜が明けないとしても』
──マイクを握ってステージに立つ彼女の姿はあまりにいつも通りで。だからこそ、唐突に訪れたその瞬間は、私の…私たちの目に、とても異質なものとして映った。
『あかり…?』
『あかりちゃん?』
喉を一度触ってから、こてん、と首を傾げる。普段なら可愛らしく感じるであろうその仕草は、今見せている全てが抜け落ちたような表情と相まって、私たちにそれ以上の言葉を失わせた。
何度か歌おうと、声を出そうとする様子を見せて、それから彼女は諦めたように俯き、次の瞬間には力無く座り込んでしまった。マイクが手から零れ落ちて雑音を響かせる。
どうやら私は、重大な何かを見落としてしまっていたらしかった。
◇
これは心的なものからくる症状だと、お医者さんは言った。
心因性失声症、と言うらしい。
身体ではなく、「心」の問題で引き起こされる病気。心と身体はとても密接な関係にあって、心が受けた傷が、身体にも影響を及ぼしてしまうことがあるのだと。
「過度の緊張や、日常的に受けるプレッシャーも原因として…」
こうなってしまった理由について、オレは何一つとして説明することを拒んだ。もし仮にそうしたとしても到底信じてはもらえないだろうし、何よりママに、この世界の自分の子供じゃないだなんて思われてしまったらどうすればいいか分からなかったから。…オレは結局、どこまでも臆病な人間だった。だから本当のところは、オレが声を失った理由がお医者さんが説明している通りだとは限らないのかもしれない。だって、本当に追い詰められて、声を失ってしまうくらいショックを受けるのは、オレなんかじゃなくて本当の
それなのに、オレは勝手に奪って勝手に傷ついて、声が出せなくなってしまった。それともまだこの身体のどこかには彼女が眠っていて、それでこうなってしまったんだろうか。そうならいいな、それなら身体を返してあげられるかもしれない。でもきっとそうじゃない。なんとなくだが、確信を持ってそう思えた。きっと、もう彼女はここにはいない。男のオレと入れ替わっているのか…もしも…もしも消えて、しまって、いたら…。
そんなことを考えていると、いきなりママに抱きしめられて、それから目の辺りを優しく拭かれた。いつの間にか涙が出ていたらしい。これもやっぱり変な話だと思う。別に、泣いてしまうほど心が痛いわけじゃないのに。…もう、痛くなくなったのに。
念の為に後日、さらに大きな病院でより精密な検査を行うべきだと勧められて、オレ達は病院を後にすることにした。診察室を出る時に、声を出せない代わりにぺこりと頭を下げる。もう夜も遅いのに、オレを診てくれたお医者さんはとても親切で優しい人だった。
それに忙しいだろうに、病院へはママだけでなく
謝るべきなのはオレの方のはずなのに、神無月さん、それに社長さんが何度も謝ってくれて、それから話をして。ママから「元気になるまでゆっくり休もう」と言われたから、とりあえずオレは頷いた。ママはたぶん、いろいろな言葉を飲み込んでいるようだった。
声が出ない以上、もう活動は続けられない。みんなが楽しみに待っていたクリスマス配信もぶち壊した。いろいろな人に迷惑をかけている。あの後も配信を続けた
家へと送ってもらう車の中でふと窓ガラスを見てみれば、そこには静かに涙を流す、オレが泣かせてしまった彼女の姿が映っていた。
◇
配信を終えスマホを見ると、診察を終えてとりあえず家には帰ったと、ひかるのお母様…ひなたさんから連絡が来ていた。診察中、ひかるはずっとぼーっと虚空を眺めながら、時折涙を流していたらしい。そして家に帰ってからは、すぐ自分の部屋に閉じこもってしまったとも。
…今も鮮明に思い出せる、ひかるが声を失ってしまった瞬間。
私には何もできなかった。きっと、何か前兆があったのだと思う。緊張しているのだと思って話しかけたあの時、あかりなら大丈夫。いつも通りにやればいいと言ったあの時。もっと注意深く、彼女の様子を見ていれば、あるいは。けれど、私は結局それが見抜けなかった。
ひかるがああなるその瞬間まで、私はこの状況を、この未来を、まったく想像できなかった。おそらく私は浮かれていた。そして決めつけていた。あかりなら、ひかるなら、きっと大丈夫だと。
ぎゅっと、握りしめた手のひらから走る痛みが、私を冷静にしてくれた。今は、そんなことを考えている場合じゃない。もう配信は終わった。今の時刻から見てひなたさんからメッセージをもらってからもう二時間以上が経ってしまっている。…すぐにひかるの元へ行かないと。今から伺うには非常識な時間なのは百も承知だが、ひなたさんへその旨を伝えると、すぐに「待っています」と返信が来た。
「あいつのせいだ…
「ちょっと落ち着きなって…」
すぐスタジオから出るために荷物を纏めていると、ふとそんな声が聞こえてきた。
「星奈」
「
いつもの星奈からは想像もできないほどに、今の彼女の表情は鋭かった。私は努めて穏やかに、まずはひなたさんから共有された情報を星奈に、そして周りにいる三期生全員に聞こえるよう伝える。たぶん心の奥底では、彼女もすぐにでもひかるの元へ行くべきだと思っているはずだと、そう思って。
「…分かった。じゃあみんなはひかるちゃんの所に行って。私は永遠遥歌に話を聞いてくるから」
星奈は頑なだった。気持ちは痛いほどに理解できる。明確な原因があって、それをどうにかすればひかるが、全てが元に戻るとそう思っているのだろう。ひかるに似て、純粋なところがある星奈らしい。けれど、今回の件はそんな簡単なものではないと、彼女も本当は気が付いているはずだった。本心を覆い隠しているだけだと。自分を誤魔化しているだけなのだと。
だから。
「ひかるの傍にいると誓って、そして一度は見守るべきだと手を引こうと思った。それから、星奈のおかげでもう一度、次は本心から好きだって、そう言葉にすることができた」
だから、私は取り繕うのをやめて、本心を話すことにした。
「いきなり、何…?」
「私は…私は、ひかるを分かってあげられていなかった」
ひかるが病院へ行くという話になった時、ついていかなかったのは配信があったからというだけじゃない。果たして私にその資格があるのか、自信がなかったからだ。星奈と違って、ひかるを安心させてあげるために配信を続けたわけじゃない。それを口実に使っただけ。それなのに配信にも集中できず、周りに気を遣わせてしまった。
本心では…こうして配信を終えてもなお、ひかるの元へ行くべきなのか迷っていた。
「私は、ひかるの元へ行くべきじゃないかもしれない」
「…それ、本気で言ってるの?」
「私には、もうそんな資格…っ!?」
言い切る前に、胸元を掴まれる。状況を見守っていた
「次に、ひかるちゃんを自分が傷つくのを避けるための理由に使ったら許さないからね」
「
「っ……ごめん…」
掴んでいた私の胸元から手を離して、星奈は大きく息を吐いてから「私、現実逃避してた…」と言った。
「あきらも、みんなもごめん…」
「別に。まぁ気持ちは分かるし」
「手が出たのは良くないが、そうだな。私も、気持ちは理解できるつもりだ」
「星奈さんが正直になれたみたいでよかったです。正直すっごく怖かったですけど…」
「ほんっとうにごめんね…」
ピロン、と全員同時にスマホの通知音が鳴る。三期生のグループメッセージ。それを見て、全員が顔を見合わせて頷いた。…やっぱり、私たちの心を一つにするのは彼女らしい。そこに表示されていたメッセージは、たったの三文字だけ。それでも。
「行こう」
「うん。…さっきはごめん。それと…ありがと、莉緒」
──それでも、私たちにはその三文字だけで十分すぎるほどだった。
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