第230話 ある夜の幻影

 —ピン、ポーン…………。


 静かな家の中に、思いのほか大きく玄関チャイムが鳴り響いて、片田量子かただりょうこは飛び跳ねた。


 あまりこの家を訪ねてくる人は多くない。


 夫は退職後の再雇用で、土曜日の夜は仕事に出ている。それに夫なら鍵を待っているからわざわざチャイムは押さない。


 荷物の配達も頼んでいない。


 用心のためにインターホンのカメラの映像を確認する。黒いキャップの子どもが映っていて、量子は再び驚いた。


 ——子ども?


 他には誰もいないようである。


 量子は最近痛み始めた右膝をかばいながら、部屋を出た。


「はい、どなたかしら?」


 子どもの訪問に、量子は気を許して——むしろ少し楽しげにドアを開けた。


 冷たい風が流れ込む。


 子どもが顔を上げた。


 黒いキャップを取りながら、その子はじっと量子を見つめる。


「……!」


 ——ユウタ! 


 量子はユウタを抱きしめた。


 ——ユウタ! ユウタ!


「——会いに来てくれたの?」


 ようやく絞り出した声は震えた泣き声になっていた。


 ギュッと抱きしめられたままのユウタも、おずおずと手を伸ばして量子の背に触れる。


 お互い、溢れる涙もそのままにお互いの存在を確かめ合う。


 ユウタは一言だけつぶやいた。


「お母さん」


 いなくなった時のままの姿で帰って来たユウタを、量子はさらに抱きしめる。


 何年も何年も探した。探すのを諦められなかった。そう、今でも心のどこかで帰ってくるのではないかと思っていた——このボロボロの心が今満たされていく。


 ところが不意にその抱きしめた身体が軽くなった。


 量子が驚いて腕の中を見ると、黄金色の光の粒子がユウタの身体から立ち昇っている。


「ユ、ユウタ?」


 淡く輝く我が子は、穏やかに微笑んでいる。


「待って! 行かないで!」


 量子の叫びも虚しく、腕の中にいたユウタは消えていく。


 ——お母さん。


 ユウタは最後のつぶやきとともに黄金色の光となって消えた。





 つづく

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