第100話 手帳の中の世界6



「きゃあああああ!!」


 佐和さわはそれが自分の悲鳴だと気づかなかった。目の前の惨事が現実のものとは思えず、自分の悲鳴さえ「うるさい」と思ったほどだ。


「あ……ああ……」


 白刃はくじん孝之たかゆきの首をっ切り、かなめの胸をつらぬいたのだった。


 ——孝之さん、孝之さん。


 要は自分の膝に乗る取れかかった孝之の首に涙を溢れされせる。


 ——私、最期に孝之さんに会えて幸せでした。


 慌てた父親が薙刀なぎなたを引き抜き、一気に要の身体から血が溢れ出す。支えを失って、要はその場に崩れ落ちた。


 誰かが騒いでいるのも、どこか別の世界のように響く。


 目の前の畳の上に、アレが転がっている。


 ——蒔絵まきえのような宝珠。


『このたまを使って、生き返ったそうです』


 母の声が蘇る。


 震える血まみれの手でそれを掴むと、要はそれを口元へ運ぶ。使い方など知らない彼女は本能のままそれを身の内に入れたのだ。


 ——私が生き返ったら、もう一つの珠を貴方に。


 ——ねえ、孝之さん。


 ——……孝之……さん。


 ——……。




『なんてことを!』

『人殺しめ!』

『警官を呼べ!』

『全て台無しだ!』

『近寄るな!』

『この話は無かったことにさせてもらう!』


 佐和の耳に轟々ごうごうと人でなし達の声が響き渡る。


 ——この人達は、何を言っているの?


 ——何故なぜ誰もお姉様達のことを考えないの?




「お、お待ちを沼田さんッ」


 父の情け無い声で、佐和はハッとした。気を失いそうな自分を踏みとどまらせる。


 見れば父は沼田の上着に取りすがって引き止めようとしていた。


「汚い手で触らんでもらおう」


 沼田はすげなく手を振り払うと、さも汚らしい物でも見るような目で佐和達を見た。


「こんな家に縁づかんで良かったわい」


 髭面ひげづらの顔でそう言い放つとさっさと部屋を出ていく。


「お待ちを!」


 それを追って出て行く父親のなんと醜いことか。


 ——お姉様。


 むごたらしい現場で、佐和はなんとか要の手を取った。既に事切れたその手は重くだらりとした物体と化している。


「お姉様ッ!」


 ——もっと早く榑松くれまつさんを探してきていれば!


 ——咄嗟とっさに二人を押し入れに隠してやれば!


 後から後から悔やみきれない思いと涙が溢れてくる。


 そこへ廊下に人が来る気配を感じて、佐和は顔を上げた。


 このような悲劇の場を女中達に見せるわけにはいかない。佐和は立ち上がって障子に近づいた。廊下に顔を出すと、やはり女中達が青い顔してやってくる所であった。


 それと——。中庭の向こうの廊下にはまだ沼田と父が歩いていた。何か知らぬが沼田をかき口説いているようだった。


 佐和が後ろ手に障子を閉めて口を開きかけたその時——。


 バリッ!


 障子が破られる大きな音がして、中から黒い獣の様な影が飛び出した。


 四つ足のそれは目にも止まらぬ速さで宙を舞うと、中庭を飛び越えて向いにいた父と沼田とを一撃に引き裂いた。


「ぎゃあああああ!」


 もはや誰の悲鳴かもわからない。逃げ惑う女達と飛び散る肉塊。父と沼田だった物は壁や廊下を赤く染めて転がった。


 黒い影は二人を引き裂くと中庭から屋根の上に跳躍し、そのまま屋根の上を駆けて姿を消してしまったのだった。


 さすがの佐和もその場にへたり込む。


 がくがくと震える手が、現実のものではない様で、彼女は未だ悪夢の中にいるのかと思ったほどだ。


 ——今のは、今の黒い影は。


 かなめ


 ——確かめなくては。


 震えながら、佐和は大きく破られた障子戸の穴から姉の部屋を覗き込んだ。


 そこには、榑松孝之の死体が一つ転がっているばかりであった。




 つづく

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