第100話 手帳の中の世界6
「きゃあああああ!!」
「あ……ああ……」
——孝之さん、孝之さん。
要は自分の膝に乗る取れかかった孝之の首に涙を溢れされせる。
——私、最期に孝之さんに会えて幸せでした。
慌てた父親が
誰かが騒いでいるのも、どこか別の世界のように響く。
目の前の畳の上に、アレが転がっている。
——
『この
母の声が蘇る。
震える血まみれの手でそれを掴むと、要はそれを口元へ運ぶ。使い方など知らない彼女は本能のままそれを身の内に入れたのだ。
——私が生き返ったら、もう一つの珠を貴方に。
——ねえ、孝之さん。
——……孝之……さん。
——……。
『なんてことを!』
『人殺しめ!』
『警官を呼べ!』
『全て台無しだ!』
『近寄るな!』
『この話は無かったことにさせてもらう!』
佐和の耳に
——この人達は、何を言っているの?
——
「お、お待ちを沼田さんッ」
父の情け無い声で、佐和はハッとした。気を失いそうな自分を踏みとどまらせる。
見れば父は沼田の上着に取り
「汚い手で触らんでもらおう」
沼田はすげなく手を振り払うと、さも汚らしい物でも見るような目で佐和達を見た。
「こんな家に縁づかんで良かったわい」
「お待ちを!」
それを追って出て行く父親のなんと醜いことか。
——お姉様。
「お姉様ッ!」
——もっと早く
——
後から後から悔やみきれない思いと涙が溢れてくる。
そこへ廊下に人が来る気配を感じて、佐和は顔を上げた。
このような悲劇の場を女中達に見せるわけにはいかない。佐和は立ち上がって障子に近づいた。廊下に顔を出すと、やはり女中達が青い顔してやってくる所であった。
それと——。中庭の向こうの廊下にはまだ沼田と父が歩いていた。何か知らぬが沼田をかき口説いているようだった。
佐和が後ろ手に障子を閉めて口を開きかけたその時——。
バリッ!
障子が破られる大きな音がして、中から黒い獣の様な影が飛び出した。
四つ足のそれは目にも止まらぬ速さで宙を舞うと、中庭を飛び越えて向いにいた父と沼田とを一撃に引き裂いた。
「ぎゃあああああ!」
もはや誰の悲鳴かもわからない。逃げ惑う女達と飛び散る肉塊。父と沼田だった物は壁や廊下を赤く染めて転がった。
黒い影は二人を引き裂くと中庭から屋根の上に跳躍し、そのまま屋根の上を駆けて姿を消してしまったのだった。
さすがの佐和もその場にへたり込む。
がくがくと震える手が、現実のものではない様で、彼女は未だ悪夢の中にいるのかと思ったほどだ。
——今のは、今の黒い影は。
——確かめなくては。
震えながら、佐和は大きく破られた障子戸の穴から姉の部屋を覗き込んだ。
そこには、榑松孝之の死体が一つ転がっているばかりであった。
つづく
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