第97話 手帳の中の世界3


 それは真剣に問うた声であったが、母は笑って、「伝説だと言ったでしょう。使い方なんてありませんよ」と笑いながら一蹴いっしゅうした。


 そう答えるさまは、佐和さわには呪いから逃れて急に自由になった笑い方に見えて、ますます寒々さむざむしい思いを抱く。


 年端としはも行かぬ少女には、これが本物であるようにおもえた。


 ——きっと、お姉様もそう感じている。


 佐和はどこか嫌な予感がして、明後日あさってに控えた姉の慶事をうれいたのだった。





 昨夜の事を思い出しながら、畳の上に転がった宝珠ほうじゅを見て、佐和は言った。


「お姉様、逃げましょう」


「え?」


「意に染まぬ結婚など、やめましょう」


 妹の悲壮ひそうな声に、ゆるゆると首を振ると、かなめは黒い宝珠をつまみ上げた。握りしめてもただ冷たい感触が返ってくるばかりだ。


「私は、何もできない。ここから逃げ出して、どうすれば良いのかさえ思い至らない愚か者です」


「お姉様! 榑松くれまつさんはどうするのです? お二人は、想いあっておられるのでしょう?」


 榑松くれまつの名を聞いて、要はいっそう顔を白くした。父の書生だった榑松孝之は要との仲を怪しんだ父によって十日ほど前に家から追い出されていた。


 今となっては孝之たかゆきが要の事をどう思っていたかなどわからない。ただ要は時折交わす言葉の端々に暖かいものを感じ、見かける度に自分の胸が躍るのを感じて一人彼の事を恋していたにすぎない。


 それでも、伝わるものはあったと要は思う。言葉に出したことはなかったが、あの折に触れて会話して見つめ合うひとときに、お互いの気持ちは通じていたのだと信じている。


「あの方は——」


 なぜ、何も言わずいなくなったのだろう?


 いや、あと少し期が熟せば、きっと彼の方も想いを伝えてくれたはずだ。


「ねえ、逃げましょうよ、お姉様」


 佐和の声にはっとして我に返ると、要は妹の顔をまじまじと見た。まだあどけない少女の佐和は自分とは違ってきらきらしている。


 ——私が逃げたら、縁談の話はそのまま佐和が受けることになるかもしれない。


 だからそれは出来ない。


「——ありがとう、佐和。もう、大丈夫だから」




 つづく

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