第3話『挟撃』
既に陽の落ちた北部モノレール駅前では、治安維持委員の工作車両が慌ただしく動き回っていた。
周囲に散乱した瓦礫をブルドーザーが押しのけていき、噴水跡に穿たれた陥没痕では埋め立て作業が進められている。
先ほどまで玩具のように転がっていたタクシーやバスの残骸は既に撤去され、その下敷きになった遺体も回収されていた。今は放水車から放たれる清水がアスファルトの路面から血糊や肉片を洗い流している最中だ。
比較的被害の少ない駅前ロータリーの片隅には臨時指揮所と記載されたテントが設営されている。その前に、一人の少女が立っていた。
「つまらん任務だ、なぜ我々がこんな雑用を……」
小学校高学年、あるいは低学年にすら見えるほど幼い体躯を持つ彼女は、銀縁の片眼鏡に覆われた目元を憎々し気に細めながらつぶやいた。
彼女の服装はかなり個性的なものだった。
上着として纏っている国防色のジャケットは治安維持委員の儀礼用軍服ではあるが、そのサイズは明らかに彼女の体型に合っていない。ぶかぶかの袖口を垂れさがらせた様は、子供が父親の服を着て遊んでいるかのような風情だ。
おまけに下着を着ていないようで、大きく開け放たれた胸元からは肌が露わになっている。かろうじて隠すべき部分は隠されていたが、風でも吹けばどうなってしまうか分からない。
到底常識的ではないと言えるファッションだったが、彼女のそんな姿を咎める者はいなかった。それどころか、道路の方から駆け寄ってきた男子生徒は、彼女に陸軍式の敬礼を示して見せた。
「六田口委員長、生徒会長が到着しました」
「すぐにお通ししろ」
男子生徒に命令を発すると、その少女……
しばらくすると駅前通りのほうから10数人ほどの生徒たちが歩いてきた。生徒会、各委員の委員長たち……恋にとっては同僚にして学園の僅かな予算を奪い合うライバルたちでもある。
その中心に立つ黒いセーラー服の少女を見つけた恋は、姿勢を正して敬礼して見せた。
「黒森会長、ご足労頂きありがとうございます!」
「お疲れ様、復旧工事の進捗はどう?」
猿梨学園生徒会長・黒森歩は恋の前に立った。
上着のみならずインナーとして着こんだタートルネックや靴下、果ては肩にかかったセミロングの髪色まで黒という黒ずくめのいでたちだが、その姿に威圧感は薄い。
むしろそのたおやかな佇まいと憂いを帯びた美しい容貌からは、被災者に祈りを捧げる修道女のような雰囲気すら漂っている。
しかし、彼女が人口10万を超えるこの猿梨市の最高権力者であることは紛れもない事実だった。
恋は敬礼を保ち、若干緊張した面持ちのまま言葉を続ける。
「順調であります! 我が工兵部隊の能力を以てすれば、明朝にはモノレールの運航再開も可能かと」
その報告に歩は僅かな微笑みを浮かべた。
「頼もしいわ、休日とはいえ運行停止が続いては市民への負担が大きいもの。流石は六田口さんの統率力ね」
「はっ、光栄であります! 」
労いの言葉を授かった恋は、再び恐縮した声色で姿勢を正した。
現況報告が終わると、他の委員たちは被害現場を視察しに向かい、テントの前には恋と歩だけが残された。緊張が解けたのだろう。恋は憮然とした表情で風紀委員長のほうを睨みつける。
青島というその委員長は、学園の風紀を一任されたにしては頭の低い男だった。今も保健委員長と会話しながら頭を下げている最中だ。
「しかし、いったい何をやっておるのですか、風紀の連中は」
やがて彼女は、告げ口するかのような口調で歩に語り掛けた。
「報告によると奴らは避難誘導もロクに果たせず、おまけに件の怪獣は民間人に撃退されたとのことですよ。そんな情けない連中に銃後を任せていては、”菩提”の連中とは満足に戦えません」
一気に不満をまくし立てた恋に対し、歩も眉を潜めて同意して見せる。
「確かに、今回の件は彼らの責任が大きい。青島委員長の更迭を含め、制裁は避けられないでしょうね」
「当然です」
相変わらず苦々しい面持ちだが、自分の主張が認められた為だろう、その語気には明らかに喜色が浮かんでいた。
「なに、今度大型怪獣が出てきたときは我々に任せてください。実力の差をご照覧しますよ」
片眼鏡の鎖をじゃらりと揺らしながら豪語する恋だが、歩の表情は晴れなかった。
「本当に大丈夫かしら、ガルムベロス部隊の再編には時間がかかると聞いているけれど」
「それは、そうですが……! 」
恋は親に叱られた子供のごとく視線を逸らす。先程までの得意顔はどこへやら、狼狽した様子で言葉を続けた。
「怪獣ごとき通常部隊で十分。最悪の場合でも特科の火力を投入すれば負ける要素はありません! 」
「ならいいのだけど。前のようなことは繰り返さないでほしいわ」
「あれは地下という特異な状況故です。地上で相対すればあのような失態は……」
歩は苦しげな恋の弁解に耳を傾けながら、噴水跡の陥没痕の方を眺めていた。
「……地下、か」
彼女の口から誰に向けられたものとも知れぬ呟きが漏れる。
怪獣によって作られた穴は未だ塞がらず、トラックから流し込まれた大量の土砂が奈落の底へ消えていく様子が見える。
歩の視線は、その奈落の先にあるものを見据えているようだった。
◆◆◆
途中まですべてがうまくいっていた……キョウはそう考えていた。
中等部、特に3年生において転部・転科をする者はあまり多くない。しかも新学期が始まって間もない時期となれば、なお珍しいと言えるだろう。
だからキョウは極力、フレンドリーな態度でクラスに馴染もうと考えていた。自己紹介は事前に考えていた通りハキハキとこなしたし、隣の席の生徒には気さくに挨拶をし、掃除や雑用などは積極的に声を上げて手伝った。
そのおかげで、授業が終わり放課後の時間になるまで、彼は模範的な生徒に見えていたはずだ。
そう、終業のチャイムが鳴るまでは。
「失礼しまーす、キョウくんいますかー?」
ホームルーム終了直後、間延びした少女の声が響き渡ると同時に、喧騒に包まれていた教室内は静寂に包まれた。
「どうして伝奇部がここに!?」「キョウって誰だよ」
密かなざわめきが響き始める中、その少女……鎌口紗絵は目ざとくキョウの姿を見つけ、歩み寄ってきた。
「あっ、いたいた。もー、居るんなら返事してよー」
先週知り合ったばかりだというのに、彼女の態度はいたって馴れ馴れしい。キョウは若干の苛立ちを感じながら彼女に相対した。
「いたいた、じゃねぇよ。お前、どうして俺のクラスを知ってるんだ」
「ふふーん、伝奇部の情報網を甘く見てもらっては困りますな。新入部員のクラスを把握するなんて部長として当然のことだよ」
彼女が新入部員、という言葉を口にした瞬間、再び教室内をどよめきが走る。
「嘘だろ、伝奇部がうちのクラスに?」「ええ、じゃあアイツもヤバイやつなのか?」 「マジメそうな人だと思ってたのに……」
微かに聞こえる噂話には明らかに刺々しい言葉が混じっていた。どうやら彼女は北部エリアでは有名な存在だったらしい……恐らく悪い意味で。
このままではまずい。そう判断したキョウは慌てて鞄を胸に抱えると、素早く立ちあがって教室の外へと歩き始めた。
「あっ、どこ行く気!? コラ逃げるなー!!」
背後からは紗絵の非難が響いてきたが、キョウはそれを無視して足を進める。
彼女と一緒に居ては評判が悪くなるばかりだ。クラスメイトへの弁明は後にして、今は一刻も早く教室を逃げ出す必要があった……もう手遅れかもしれないが。
◆◆◆
数分後、二人は北部モノレール駅前繁華街から少し離れた通りを歩いていた。
部室を案内するという話のはずが、紗絵はどんどん裏さびれた路地裏の方へ入っていく。キョウは思わず声を上げて彼女を呼び止めた。
「部室に行くんじゃなかったのか? だったら校舎の部室棟じゃ……」
「あっちにも一応部室はあるんだけどね。銃の保管とか色々面倒だから、メインの機能はこっちに移してあるんだ」
そう言いながら紗絵が指差した先には一件の建造物が佇んでいる。それは学園の正規施設にはとても見えない、ありふれた商業用ビルだ。
一階には喫茶店が入っていた形跡があるが、今はテナント募集中になっている。外壁は古ぼけていてお世辞にも綺麗とは言えない、むしろ少し不気味な印象を纏っていた。
「ほら、遠慮せず入って入って」
紗絵はそう言いながら、喫茶店の脇にある薄暗い廊下へ進んでいく。キョウも慌てて後を追う。エレベーターで3階に昇ると、かつて中小企業のオフィススペースだったであろう空間が広がっていた。
エントランスにはまだ受付机が残っており、社名札らしきパネルの上へ覆い被せるようにして「猿梨学園伝奇部」という木札が取り付けられていた。
紗絵は懐からカードキーを取り出して開錠するとドアを大きく開いて見せる。
「ここが伝奇部部室だよ、すごいでしょー」
キョウは「はぁ」と言葉を漏らす。そこは手狭い中小企業の事務所と言った感じで、特に凄さは感じられない。
かつてサラリーマンたちが働いていたであろう使用者を失ったオフィス机がいくつか設置されている。そのうちの一つに双葉が腰かけていた。彼女は相変わらずタッチパッドを手にしており、画面を見ながら何やら思案しているようだった。
「双葉ちゃんただいまー、キョウくん連れてきたよ!」
「おかえりなさい。準備は先に済ませておいたわ」
彼女は液晶画面から目を離さずに応えた。
「武器はこの中から選んで。どうせあそこじゃ長物は振り回せないし、牽制用で十分じゃないかしら」
机の上には先日紗絵が使っていたアサルトライフルとブルパップ式の
まさか爆弾か、という想像にキョウは身構える。平時なら一笑に伏すべき邪推だが、この女どもがどれほどの危険人物なのか、まだ判断できない。
「そうだね、じゃあ私はこれでいっかな」
紗絵はPDWを指差すと、片手で散弾銃を掴んでキョウのほうに押し付けた。
「キョウ君はこっちかなぁ? 使い方はわかるよね?」
「一応分かるが……いや、ちょっと待て、そんな事よりどういう状況なのか説明してくれよ!? 」
キョウは思わずツッコミを入れる。
「ああ、ごめんごめん。こないだ怪獣が出現したとき、下水道にセンサー仕掛けてるって話したよね?アレがさ……」
紗絵は苦笑しながら説明を始める。しかし、説明して欲しい部分はそこでは無かった。
「そうではなく! 」
キョウはこみ上げる苛立ちをこらえながら指摘した。
「入って早々武器を押し付けられても困るんだよ。部に入るのは良いとしてもその前に色々手続きが必要だろ! だいたい俺はまだ入部届出してないぞ!?」
「入部届? そんなの、もう双葉ちゃんが済ませちゃったよ」
「んなわけないだろ。まだ提出書類だって書いてないし俺の学籍番号とか押印とか……」
「あなたの学籍なら既に調査済みよ、これでしょ」
双葉はそう言うと机にタブレットを置いた。液晶画面には学籍管理用ポータルサイトが表示されており、そこにはキョウの学籍番号、本籍地を始めとする個人情報の数々が表示されている。
キョウは背筋に冷や汗が走るのを感じた。彼女にポータルサイトのパスワードを教えた覚えはない。
「双葉ちゃんこういうの得意だからさ、めんどくさい手続きとか全部やってくれるんだ。便利でしょー?」
「便利とかそういう問題じゃないだろ!なに学校をハッキングしてるんだ!」
非難の矛先は双葉の方にも向いたが、彼女の表情は至って涼しげだった。
「仕方ないでしょう。生徒会のやつら仕事が遅すぎるもの。多少手を入れてやらないと学園の運営が成り立たないわ」
「そうそう、別に私腹を肥やしてるわけじゃなし。お手伝いしてあげてるだけだもんね」
紗絵ものほほんとした声で同意する。その態度にキョウは何を言っても無駄だ、という確信を抱きつつあった。大体、彼女らには”貸し”がある。これ以上揉めたらどんな難癖をつけられるか分からない。
「……まぁいいや。下水道がどうこう言ってたけど、それとこの銃に何の関係があるんだ」
気を取り直して尋ねると、双葉が代わりに応えた。
「先日、北部モノレール駅前に現れた大型怪獣……暫定認識名称”レミューバ”が地下から現れ、そして逃げた事は貴方も知っているでしょう?」
忘れるはずがない、とキョウは思う。あのトゲトゲの大型怪獣、やつのせいで自分はこんなところにいるのだから。
双葉は語りながらタブレット端末の画面をキョウたちの方に向ける。そこには北部モノレール駅付近の地図と、それに重なるように張り巡らされた青い線、そしていくつかの光点が映っていた。
「あの後、私たちが下水道に仕掛けたセンサーの一つが機能を停止した。奴が付近を通過した際に破壊されたんでしょうね」
その言葉と同時に光点の一つが赤く点滅した。どうやらそこが破壊されたセンサーの位置なのだろう。
「ついでにそのエリア付近で異臭が報告されてるの。たぶん下水道の外壁が壊されて臭いが漏れてるだろうから、センサーの交換ついでに被害状況も確認しに行こうってわけ」
紗絵が割り込むようにして言葉を続ける。平然とした口調だったが、キョウは彼女らのやろうとしている事があまりにも危険だという事を察し始めていた。
「要するに……まさか下水道に入れって言うつもりなのか……? 」
「うん、他に方法ないでしょ」
紗絵はのほほんとした態度のまま応える。その肩には既に先程まで机に置かれていたバックパックがかかっていた。察するにあれが"センサー"なのだろう。
「いや待てよ。下水道ってこないだ出てきた小型怪獣とかレミューバまで潜伏してる可能性があるんだろ? そんなところに生身で入って行けって言うのか!? 」
「大丈夫だよ、私も着いていくし武器もあるんだからさ」
彼女は再び散弾銃を掴んでキョウの方へと押し付けた。その表情からは全く緊張感も危機感も感じられない。反論の言葉が口から出掛けたが、横からは双葉も嘴を突っ込んでくる。
「まさか行きたくないとでもいうつもり?同情はするけど、反対できる立場じゃないのを忘れないで」
言葉の割にあくまで有無を言わさないと言った口調だ。どうあっても下水道行きを止める気はないらしい。
キョウは早くも目の前が暗闇に覆われていくのを感じた。
◆◆◆
下水道への入り口は駅から少し離れた場所にあった。一見、地下鉄の入り口にも見える建家は複数の南京錠で封印されていたが、紗絵が懐から取り出した鍵によって呆気なく開錠され、鎖もするすると解かれていった。
「なぁ、考え直さないか。絶対後悔するって」
「なに撚りを戻そうとする元カレみたいな事言ってるの。ぐずぐずしてると置いてっちゃうよ」
そう言うと紗絵は重々しい鋼鉄製の扉を開け、狭苦しい下り階段を下りて行った。
正直、置いていってほしいと思いながらも、キョウはやむなくその後を追う。
猿梨市民は地下に入る事を嫌う。
「地下には怪獣が出やすい」という切実な理由はあるものの、それだけでは説明のつかない点も多い。
不潔で薄暗い下水道のような場所ならともかく、安全なビルの地下倉庫や、住環境の整った対爆シェルターの類ですら猿梨市民は敬遠し、利用しない傾向がある。
しかし、紗絵にそうした「一般的な」考え方は通用しないらしい。苦虫を噛み潰したような表情のキョウをよそに、彼女はピクニックにでも向かうように鼻歌を唄いながら地下へ進んでいく。
階段を下りた先にはキョウが思っていたより広大な地下空間が広がっていた。
暗渠の高さは5m、横幅は10mほど。暗さのせいもあるが水面は黒々としてどれほどの深さがあるのかは伺い知れない。しかし、覚悟していたような悪臭は感じられなかった。
水路の両脇には人二人が並んで歩ける程度のキャットウォークが設置されている。キョウは少し足下に不安を感じながらもそこへ降り立った。
「下水道ってこんなふうになっているのか……思ったより臭くはないんだな」
「この辺りの水はきれいなものだよ。そもそも、猿梨市の上下水は地上のパイプで処理してるからね」
「じゃあ、ここを流れてる水は下水じゃないのか」
「うん。昔、この辺りには対核戦争用のジオフロント建設計画があったんだけど、工事の時に猿梨湖から染み出てくる地下水が邪魔になったの。だからそれを下流へ流す為の水路が必要になったんだ」
紗絵はそう言いながら手にした懐中電灯を点けると、仄暗い水路の奥へ進み始めた。キョウも何が潜んでいるとも知れぬ水面を横目に見ながら歩き出す。
「結局、怪獣のせいでジオフロント化はおじゃんになって学園都市化計画に移ったんだけど、一部の施設はそのまま残されたんだって」
「土地もろとも流用したって事か。そんなところに住まされる俺たちの身にもなって欲しいな」
「私はそうは思わないなぁ、探検する場所が多くて楽しいもの」
まるで小学生男子のような事を言いながら紗絵は奥へと進んでいく。そんな感覚を抱けるのは彼女が異常なせいなのか、自分が臆病過ぎるせいなのか、今のキョウには分からなかった。
入り口から100メートルほど進んだ頃、紗絵が突然足を止めた。見ると、足下のコンクリート壁面から、人の頭ほどもある真っ白いダルマのような物体が生えていた。
キャットウォークを通りすぎるのに支障はない大きさではあるが、あまりに場違いな存在にキョウは不気味さを覚える。
「珍しいね、これはハゼフスベ。ちょっと危ないキノコの仲間だね」
「危ない? 毒でもあるのか」
「ううん。だけど胞子を飛ばすのに可燃性ガスを使ってるらしくて、火を点けたら爆発しちゃうの」
紗絵はそう言うと、ブレザーの背中にくっついていた”鎌口セイバー”を手に取った。ブン、という不気味な音と共に、セイバーから光が伸びる。
「おい、何考えてるんだ! 可燃性ならそんなもの出しちゃまずいだろ! 」
「大丈夫だよ、これ熱は出てないから」
彼女はそう言いながら腰を下ろし、床に沿ってセイバーの光刃を這わせる。根を断たれた菌類は、ずれ落ちるようにしてキャットウォークの金網に転がった。
僅かに胞子と思しき粉塵が舞う。紗絵の言う通り、ハゼフスベは焼けた様子も爆発する様子もなく、鋭いナイフで断ち切られたような断面を晒している。
「処置完了っと。あとは勝手に朽ち果ててくれるでしょ」
「これ爆発するんだろ? 水の中にでも捨てておいた方が良いんじゃ……」
キョウは手を伸ばそうとしたが、紗絵はそれを制する。
「触らない方が良いよ、胞子が舞っちゃったら余計めんどくさい事になるから。どうせこの辺りは湿気てるし火の気も無いから、大丈夫だってば」
彼女はそう言うと、立ち上がって先へ進み始めた。
キョウもそれに従い、金網の上に転がったハゼフスベをかわしながら彼女を追った。
◆◆◆
水路の中には、時折細い横道やパイプから水が流れ込んでくる部分があった。どうやらこの水路には本流と支流にあたる部分があり、キョウたちは今本流を歩いているらしい。
水路の中にも生態系があるらしく、横道から突然大ネズミの死体が流れてきて、水路へどぼんと落下した事もあった。浮かび上がってきた死体には無数の虫の様なものが集っていた。横長い六角形の甲殻、そして串のように伸びた触覚が目に付く。
「何だアレ、気味が悪いな」
「ドクガザミだね。あんまり凶暴じゃないけど甲羅に神経毒を持ってるから刺されたら人間でも危ないよ」
質問されたのが嬉しかったのか、紗絵が得意気に解説する。
「要するに蟹のバケモノか、こないだ倒したナガグモとかもここにはいるのか? 」
「それもいるけど、ここで見かける怪獣の中で危ないのと言えばグモガニか犬モドキかなぁ。キョウくん見た事ある? 」
キョウは首を横に降る。
「いや、犬モドキは噂で聞いたことあるけど……グモガニは知らないな」
「ナガグモを更に大きくして凶暴にした感じだよ。鋏だけで人間の首をちょん切れちゃうようなやつ」
指でチョキチョキと鋏を作って見せる紗絵。可愛らしい仕草だが今のキョウには冗談じゃないといった感想しか湧かなかった。
「……遭わない事を祈りたいな」
「気が合うねぇ、私もおっきな蟹とか蜘蛛とか大嫌い」
ならこんなところに連れて来るな、と言い掛けた瞬間に紗絵が足を止めた。そこには人一人がなんとか通れるくらいの横道が開いていた。
「センサー設置箇所はこの奥だよ、だいたいここらが駅の真下みたいだね」
その言葉にふと頭上を見上げたものの、天井には配管と垂れ下がった菌類しか見えなかった。
◆◆◆
「あーっ、ひどいことになってる!」
先を進んでいた紗絵が声を出した。濃厚な血の臭いと腐敗臭が鼻を突く。キョウも後を追って隘路を出ると、地下通路が若干広がり、もう1つの通路と合流するT字路のような空間に出た。
前方の外壁には幾つもヒビが走り、ぱっくりと縦穴が開いていた。亀裂は天井まで達しているようで、地上から漏れた陽光が差している。
コンクリートの床面には無数の瓦礫が転がっており、部室にあったのと同じ機械が潰れていた。あれが件のセンサーだろうか。
加えて縦穴の前には黒々とした血だまりが広がり、その中心に気味の悪い肉塊が転がっていた。
「ねえ、これレミューバの腕じゃない? 」
紗絵が肉塊を銃口で指す。彼女のいう通り、硫酸でもかけられたように蕩けているものの、その形状は先日見た怪物の腕に見えた。あの巨体から生えているときは細く頼りなく見えた腕だが、近づいて見てみると紗絵の身体ほどもあるサイズだ。
「なんで腕だけが……身体のほうはどこ行ったんだ? 」
「あの穴の奥じゃない? 腕だけ出してちょん切られちゃったとか」
神妙な顔で紗絵が応える。
「ちょん切るって、あんな巨大怪獣の腕を切れるやつなんかいるのかよ……?」
キョウはそう言いながら穴を覗き込んだ。光が差しているせいもあって明暗差が強調され、奥が上手く見通せない。
その時、キョウは暗闇の中にきらきらと光る物体を見た。
それは縦長の楕円形で青緑色の反射光を発しており、まるで大きめのトルコ石のようにも見えた。だが、それが爛々と輝く眼球だと気付いた時、彼は先ほど紗絵と交わした会話を思い出す。
彼の想像通り、暗闇の中から夥しい毛に覆われた蜘蛛のような脚が現れ、続いて鋭い鋏が顔を出した。それは二人の方を向きながら開閉し、悪趣味なカスタネットのような音を発している。
「グモガニだ! 」
思わずキョウは嫌悪感に満ちた叫びを発した。
次の瞬間、紗絵の持つPDWが火を噴き、超音速のフルメタルジャケット弾と鋭い銃声がキョウのすぐ傍を通り過ぎていった。緑褐色の甲殻の破片と体液が周囲に飛び散り、グモガニは盛りのついた猫のような悲鳴を上げながら崩れ落ちる。
「バカ野郎! いきなり撃つやつがあるか! 」
腰を抜かしかけたキョウは紗絵を怒鳴りつけたが、彼女は全く動じずに穴の奥を見据えたままだ。
「奥にもいるよ! キョウくんも撃って!」
その声に促されるようにしてキョウも引金を弾く。轟音と共に高威力の
重い反動にたたらを踏みながら次弾を発射すると、奥にいたもう一匹の頭部も穴だらけになる。更に紗絵の銃撃が突き刺さり、鋏を砕かれた個体も糸が切れたように絶命した。
「どうなってる! ここはグモガニの巣か!?」
「ううん、グモガニに群れる習性はないよ。多分、血の匂いに誘われて来たんだと思う」
苦手だという割に紗絵の様子は至って冷静だった。その様子にキョウも少し落ち着きを取り戻す。
「だったら出てきたのは偶然か、こいつで最後なら良いんだが」
しかし、その願いも空しく穴の奥から黒い何かが飛び出し、ショットガンの銃身を掴んだ。
それは他のグモガニとは比べ物にならないほど巨大な鋏だった。強い力で引っ張られたキョウは思わず銃把から手を放してしまう。鋼鉄製の銃身はぱきんとあっけない音を立てながら真っ二つにへし折れた。
「キョウくん下がって!」
紗絵の声と共に、PDWがけたたましい音を立てながら発砲される。しかし、ボディーアーマーすら貫通可能なはずの実包は甲殻に弾かれ火花を散らすばかりだった。
次の瞬間、瓦礫を吹き飛ばして鋏の持ち主である巨大グモガニが姿を現した。やはり全身の甲殻が黒いうえに鋏を除いた身体だけでもグランドピアノほどの大きさがある。おまけに頭部には鶏冠のような突起が形成されていた。
キョウは懐から大型拳銃を取り出して発砲したが、無駄だった。巨大な鋏は盾ともなって胴体狙いのマグナム弾を防いでしまう。他の個体が歩兵だとすれば、こいつはさながら装甲車といったところか。
「全然効いてねぇ……というかコイツ他の奴よりデカいぞ! どうなってる!? 」
「たぶん新種! ちょっと今の装備じゃ無理かも!」
さすがの紗絵も焦った声を上げる。そして踵を返して走り出した。
「待てや!お前だけ逃げる気か!?」
「だから言ったじゃない! 私殺せないグモガニは嫌いなの! 逃げよう! 」
抗議の言葉に対し、紗絵は訳の分からない理屈を唱えながら逃げ続ける。キョウも慌てて後を追う。
黒いグモガニはそんな二人を猛然と追撃してきた。
◆◆◆
二人が横道から地下水道へ辿り着いた瞬間、グモガニも身体を横にして想像以上のスピードで潜り抜けてきた。
振り上げられた鋏がキョウに迫る。反射的に屈んで身を低くすると、頭の上で甲殻がバチリと閉じる音がした。もう少し回避が遅れていたら紗絵の話通り首をちょん切られていただろう。
「目を閉じて! あと耳も! 」
紗絵がミリタリーポーチから何かを取り出して投擲する。それは地面に転がった直後に凄まじい閃光と破裂音を発した。
スタングレネードか、と察したキョウはかろうじて耳と目を塞いでいた。すぐに振り向いてグモガニの様子を見たが、あまり怯んだ様子はない。光が目に入らなかったのか甲殻類の鈍感さなのか。
「ダメだ! 普通の手榴弾はないのか!? 」
「あってもこんなとこで使ったら二人ともミンチになっちゃうよ! 」
紗絵はそう言いながら既に走り始めていた。彼女のいう通り水路には遮蔽物もない。やはり、逃げの一手しかないだろうとキョウも判断して走り始める。
幸いにもグモガニは広い空間より閉所のほうが得意らしい。加えてキャットウォークの金網が脚に引っかかって邪魔なのか、追跡スピードが鈍っていた。
背後へ取り残されたグモガニの姿が少しずつ小さくなっていく。この調子なら地上への階段に辿り着く頃には大分引き離せているかも知れない。
しかし、ハゼフスベの生えていた場所まで辿り着いた時、紗絵が急に足を止めた。
「何してる!? 今のうちに距離を取っとかないと追い付かれるぞ! 」
「だってアレ……!」
彼女は驚いた様子で前を指差す。釣られてキョウも前を見ると、そこには信じられないものがいた。
◆◆◆
それはあのレミューバ……らしき存在だった。トゲだらけの背中は見えないが、首の長さに対して貧弱な下半身、潰れた左目や胸に残った傷跡は先日見たときのままに見えた。
異なる点はまず右腕が無いことだ。先ほど見た腕はやはり奴のものだったのかという考えが脳裏を過る。
しかし、もう一つの相違点はその体格が妙に小さいことだった。駅で見たときは体高5mはあったはずだが、目の前のそれは体高2m……大きめの人間ほどのサイズしかない。やはり別個体なのだろうか、とキョウは思う。
ただ、どちらにせよ口から涎を垂れ流して歩いてくるレミューバが脅威であることには変わりなかった。おまけに後方からはグモガニまで迫っているのだ。まさしく前門の虎、後門の狼だ。
「おいどうする!? どっちか倒さないと逃げ場がないぞ! 」
問いかけに対し、紗絵は無言でスタングレネードを取り出した。しかし彼女はそれを投げつける事なく、足下のハゼフスベを思い切り踏み潰した。胞子らしき粉末が舞い散り、視界が白く染まる。
キョウは何のつもりだと言いかけたが、息を吸った拍子に胞子を吸い込んでしまい、むせる。代わりに紗絵が掌を口に当てながら叫んだ。
「二匹とも引き付けてから吹っ飛ばすよ! 合図したら水の中に飛び込んで! 」
その言葉でキョウはようやく彼女の企みに気づく。それと同時にその危険性にも気づいたが、激しく咳き込んでいるせいで静止の言葉は放てない。
そんな事をしている間にも前後からは怪物たちが迫っている。懐中電灯の僅かな灯りに照らされてレミューバの薄汚い歯もグモガニの黒光りする鋏も強い殺意を浮かび上がらせていた。
紗絵は意を決した表情でスタングレネードを握り締める。
「行くよ! 3、2、1……ゼロ! 」
カウントダウンを終えると同時に彼女はグレネードを放り投げ、水路の方へ飛び込んだ。キョウも慌てて後を追う。
それと同時に破裂音が弾けた。薄暗い地下水道内が一瞬白い光に包まれ、遅れてハゼフスベから吹き出した可燃性ガスに着火し、夕焼けのごとく紅蓮の赤に染まる。
水面を舐めるように迫りくる炎の柱を目の当たりにし、キョウは慌てて水の中へ顔を突っ込んだ。
◆◆◆
「お待たせー! いやぁ大変だったねぇ今日は」
バスタオルを肩にかけ、学校指定の体操服とブルマに身を包んだ紗絵は、ほどいた髪からほわほわと湯気を立てながらシャワー室から出てきた。
部室棟と呼ばれる雑居ビルの4階は宿直用の居住スペースとなっており、シャワー室もそうした設備のひとつらしい。
「大変ってレベルじゃなかっただろ、ほんといい加減にしろよ……」
一方のキョウはまだ濡れた学生服のままで、足下には水溜まりが出来つつある。春とはいえまだ四月、おまけに冷たい地下水の中での水泳は相当に堪え、身体はまだ震えていた。
あの爆発のあと、壁面に打ち付けられてひっくり返っていた巨大グモガニは、鎌口セイバーの一太刀でトドメを刺された。
一方、小型レミューバの行方は杳として知れなかった。再度襲撃してくることはなかったが、死んだとも思えない。
「結局あいつは何だったんだ。まさかこないだのデカブツが小さくなったとも思えんが」
「そうとも限らないよ、特徴的には一致してたじゃない。なんせ怪獣だし、どんな能力を持ってるか分かんないよ」
紗絵はキョウの常識的な想定に懐疑を示す。仮に彼女が正しいとすれば、レミューバは再生能力だけではなく、縮小、巨大化能力まで持っていることになる。
キョウは恐ろしい想定に眉を潜めた。
「だとすれば奴の能力は人智を越えてるぞ、これ以上厄介な事にならなければ良いが……」
その言葉に対し、紗絵はにっこりと微笑んで見せる。
「でも、今日だってなんとかなったじゃない。いくら人智を超えてても傷をつけられるならいつかは殺せるはず。なんとかなるよ」
その呑気なのか殺伐としているのか分からない言葉に、キョウは思わず呆れてしまう。
「いい加減だな……伝奇部ってそんなもんで良いのか……?」
「大丈夫だって、そんなもんそんなもん」
そう言いながら紗絵はあははと笑いを漏らす。彼女のその笑顔を信じて良いのか、今のキョウにはやはり判断出来なかった。
そんな会話を交わしていると、エレベーターの方から双葉が姿を現した。彼女の手には何かが詰まったビニール袋が抱かれている。
「二人ともお疲れさま。これは貴方の着替えよ」
そう言って双葉はキョウにビニール袋を差し出してきた。どうやってサイズを調べたんだ、という言葉が口から出掛けたが、聞くだけ無駄だろうと思い直す。彼女にとっては健康診断の結果を調べる程度、難も無いのだろう。
キョウは気を取り直してビニール袋を掴み……そしてその中身を見て驚愕した。
袋の中に入っていたのは学生服でも体操服でもない。野戦用のボディアーマーだったからだ。いくら猿梨市と言えども、普段着に使うには厳しい代物だ。
「おいふざけるなよ! こんなもの着て帰れって言うのか!? せめて鎌口みたいな体操服をくれよ!」
不平の言葉を発するキョウだが、双葉の視線はあくまで冷ややかだった。
「貴方たちこそふざけないで、自分達が何をしに地下へ行ったのを覚えてないの? 」
「何ってそりゃ、センサーを設置しに……」
そこまで言ってあることに気付き、血の気が引くのを感じた。
「そういえば、あれ設置したっけか……?」
キョウは横目で紗絵のほうを見る。確かセンサー入りのバックパックは彼女が背負っていたはずだ。
彼女の足元には洗濯カゴがあり、脱衣場で脱いだ制服が詰まっている。その上にはさりげなく件のバックパックが置かれていた。
「貴女もそんな格好してる場合じゃないわよ。二人ともさっさと着替えて、また地下に行ってきなさい」
ぴしゃりと下された双葉の命令に、キョウも恨めしげな視線を紗絵に向ける。
紗絵は再び、あははと苦笑いを漏らした。
(END)
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