第2話『伝奇部へようこそ!』(後編)

 キョウが駆け付けたとき、北部モノレール駅前ロータリーは、公園の中よりも深刻な大混乱に陥っていた。

 土煙ではっきりしない視界の中、その場を離れようとしたタクシーが人々を轢き倒しながら暴走し、それをかわそうとしたバスは縁石に乗り上げて横転。轟音を立てながら人々を押し潰した。

 学生や市民たちは悲鳴を上げながら散り散りに逃げ惑っている。しかし、何処へ逃げるべきかも分かっていないようだ。

 当然だろう、彼らは公園の騒動の後にここへ避難してきたはずだ。怪獣は知ってか知らずか最悪の場所を襲撃地点に選んだことになる。


 更に駅へ近づくと、ロータリー中央の小さな広場が混乱の中心だと分かった。

 キョウが先程この駅を降りた際、そこには小さな池と噴水があったはずだが、既にそれらは存在していなかった。

 何故なら池があったはずの場所には直径2メートルほどの穴が開き、糜爛したかのように赤く染まった不気味な首が伸びていたからだ。


「うわぁ、なにあのトゲトゲ……」

 遅れてやってきた紗絵が呆れたような声を出した。

 彼女の言葉通り、怪物の頭部から背中には無数の短い棘が乱立し、野球ボールほどもある眼球の上には3対の長い棘が角のように生えていた。

 その姿からキョウは、かつて図鑑で観た爬虫類を連想する。乾燥した砂漠に生息する小さなトカゲの一種で、全身から生えた棘で夜露を集めて水分にしているというものだ。しかし、眼前にいる怪物は、穴から出ている上半身だけでも頭頂3メートルほどの巨大生物に見えた。これではトカゲどころか恐竜だ。


「おい伝奇部さんよ、あんなデカいバケモノ倒せるのか?」

 キョウは真っ先に芽生えた疑問を口に出す。

「うーん、手持ちの武器じゃ無理かな……っていうか、あんなの部活動の範疇じゃないよ」

「だよなぁ」とキョウは頷く。怪物の巨体に対しては、自身の拳銃はおろか紗絵の持っているアサルトライフルすら頼りなく見えた。

「こりゃもう、治安維持委員に任せるしか無いな、俺たちも避難しようぜ」

「……でもさ、あいつ地上に出ちゃいそうだよ? 」

 紗絵はそう言いながら穴の縁を指さした。

 彼女の言う通り怪物は身体を捩ってもがきつつ、首の下からついでのように生えた腕で穴を掘り広げようとしていた。

 周囲のアスファルトは鋭い爪にある程度耐えているものの、穴の周囲には大きなヒビが入りつつある。身体を出せるようになるまでは時間の問題に思えた。

 キョウの額に冷や汗が流れる。このままでは避難しても、その避難場所が襲撃されかねない。

 

 その時、二人の背後から数人の男女が駆け寄る足音が聞こえた。

「おい、お前たち! そこで何してる!?」

 振り返ると、声の主はキョウより若干年上に見える女子生徒だった。服装は紗絵とほぼ同じだが、スクールベストは紺色でスカートは若干長い。 髪型はショートボブで、規則正しく切り揃えられた前髪の下から意志の強そうな目が睨みつけている。彼女の肩には風紀の腕章が巻かれていた。ようやくやってきたのか、という安堵と苛立ちがキョウの胸に宿る。

「この駅のシェルターはもうダメだ。すぐに北校舎へ避難しろ!」

 彼女は指揮官なのか、容姿の割に男っぽい口調で雰囲気で二人に指示した。周りでは部下らしき数名の男子生徒も逃げ惑う人々の避難を手伝っている。人々は恐慌に駆られたままだが、混乱は少しばかり収まったように思えた。

 しかし、キョウは彼らの様子に不安を覚える。

「待ってくれ。あの怪獣、地上へ上がろうとしてる! ここで食い止めないと北校舎もやられるぞ」

「そんな事は分かっている。奴は我々が駆除するから黙って指示に従え!」

「だが……!」

 向けられた鋭い視線に、キョウは「そんなこと出来るのか」という言葉を発し損ねる。彼女が持っている武器は警棒と9ミリ口径のオートマチック拳銃に過ぎなかった。これでは先程のメギムシすら倒せるか疑わしい。


「石和さん達も逃げた方が良いんじゃない? そんな武器で駆除なんて無理だよ」

 一方、傍らに立っていた紗絵は、迷わずそう断言した。彼女の顔を見た瞬間、石和と呼ばれた女性風紀委員の表情が露骨に険しくなる。

「伝奇部か……! お前たちが役立たずだからこんな事態になってるんだ。余計な口を挟むな!」

「えー、私たち公園の怪獣駆除したんだよ!? いくらなんでも酷くない?」

 紗絵は不平の言葉を発すると、告げ口するかのようにキョウへ耳打ちする。

「だいたいこの人たち、怪獣出るといっつもうち任せなんだよ。おかげで伝奇部っぽいこと全然出来ないんだから……」

「知らねーよ。だいたい伝奇部っぽいことってなんだよ……」

 キョウはあくまで第三者の姿勢を保ちたかったが、石和はそう見做してくれなかったらしく、彼にも鋭い視線を投げかけている。サボタージュ扱いされたのが相当頭にきたのか、単に紗絵の言動が気に食わないのか、たたでさえ険の強い表情は更に険しくなり、眉間には深い皺が刻まれている。

「ナメた口を……だったらお前らの言う通り、”仕事”をしてやるよ!」

 彼女はそう吐き捨てると振り返り、自分の部下たちに号令を発した。

「おい、避難誘導は一時中止だ! 先にあのバケモノを始末するぞ!!」

 彼らは統率の取れた様子で避難民から離れて石和の周囲に隊列を組み、各々携えた銃を怪物に向けた。

 だが、その手に携えた銃火器は散弾銃や狩猟用のライフル程度だった。やはり紗絵のアサルトライフルより強力な武器を持っている様子はない。

「ほんとに戦う気なのか!? いくらなんでもムリだって!」

「民間人は黙っていろ! いくら巨大だろうと頸動脈を撃ち抜かれて無事では済むまい。総員、怪物の喉に狙いを定めろ……撃ち方始め!」

 彼女はキョウの制止を無視して射撃命令を下した。

 鋭い銃声が連続で響き、赤い血肉が怪物の喉元で爆ぜる。怪物は短い犬の吠え声のような声を発し、軽く仰け反ったように見えた。 キョウは効かないだろう、と予測する。大型の熊すらライフル弾の直撃に耐えることがあるという。まして相手は熊より遥かに大きい怪物だ。倒せるとは到底思えなかった。

 しかし、意外にも怪物は腕の動きを止めて咳き込んだ。その口元からは赤黒い体液が漏れている。少なくとも表皮は貫通できたようだ。

「いいぞ効いている! 追撃しろ!!」

 効果ありと判断したのか、石和自身も命令しながら手にした拳銃を発砲する。

 連続して叩き込まれた銃弾によって怪物の喉は引き裂かれ、傷口から血液が噴き出した。やがて、怪物は頭をのけぞらせながら苦痛に満ちた悲鳴を発すると、うなだれるように頭を大地に伏せた。

 アスファルトに大重量がのしかかり、肉の潰れる音がした。弾痕の穿たれた喉からは血液と、「ゴロゴロ」といううがいのような音を漏れている。その不気味な音は、断末魔のうめき声に聞えなくもなかった。


「嘘だろ、ホントに倒したのか……!?」

「いや、そんな感じじゃ無くない? なんだか酔っぱらって倒れたみたいな……」

 紗絵は修羅場にそぐわない俗っぽい言葉で怪物の様子を表現する。まだ怪物が戦闘能力を失っていないと判断しているのか、かなり警戒している様子だ。

 だが、石和はそう思わなかったようだ。

「それ見た事か。所詮図体がデカイだけの生き物だ、我々の敵ではない」

 彼女は空弾倉を几帳面にホルスターへしまうと、再装填を始めた。どうやら自らの手で怪物にトドメを刺すつもりらしい。その喜色に満ちた様子にキョウは危うさを覚える。

「まだ仕留めたとは限らないぞ、もう少し様子を見た方が……」

「民間人は黙っていろ! 避難しろと言っただろう!」

 彼女はキョウの言葉を傲慢に切り捨てると、怪物の下に悠々と歩み寄っていった。傷ついた怪物は口から血の泡を吐きながら、荒々しく呼気を漏らしている。石和は介錯するかのごとく、その額へ銃口を向けた。

「さぁトドメだ……我らの力を思い知……!」

 その言葉は言い終える前に、石和はまるで掻き消されたかのようにキョウの視線から消えた。一瞬その場を静寂が支配し、遅れてドスっという音が響く。

「うわ、汚っ……キョウくん下がって! 」

 紗絵の言葉を聞くまでもなく、反射的に後ずさっていた。

 石和が吹き飛ばされた方向に目を向けると、数メートル先の路上に彼女の身体が転がっていた。

 アスファルトに叩きつけられた際に骨折したのか、左腕はあり得ない方向へねじ曲がっている。身に纏った服は、黄色くねばついた粘液に塗れて地面にへばりついていた。

「……なに……が…ま……」

 口からは呻き声が漏れていたが、それはもう意味を為しているかも分からない。

 顔面の皮膚は半ば剥がれ落ち、じゅうじゅうと肉が焼けるような音を立てていた。

 一体、何が起こったのか……キョウは困惑しながらも、思わず彼女の無惨な姿から目を逸らそうとした。


 逸れた視線の先には、首をゆっくりと持ち上げながら、爛々と輝く眼球でキョウ達のいる方向を睨む怪物の顔があった。

 口元からは汚らしい液体が漏れ、口腔内には粘液に塗れた紫色の舌が見える。不揃いに並ぶ歯の形は、忌々しいまでに人間のそれに似ていた。

 ヤツの仕業だ、とキョウは遅れて察する。恐らく強酸性の胃液か唾液を含んだ未消化物を吐き出したのだろう。穴から出てくるまで何も出来ないと思っていたが、まさか飛び道具を持っているとは。事態を分析している間にも怪物は再びゴロゴロとうがいのような音を発し始めていた。それが何を意味するのか、今度こそキョウにも理解できた。


「逃げろ! またあのゲロを吐く気だ!」

 キョウは叫びながら身をかわそうとしたが、怪物が自分の方向を向いていない事に気付く。狙っている相手は……紗絵だ。

 彼がそれに気付いた瞬間、銃声が辺りに響いた。振り向くと、風紀の男子生徒たちが石和の仇討ちとばかりに銃撃を始めていた。銃弾の嵐が怪物を襲ったが、指揮官を欠いた彼らの攻撃は不揃いで、先ほどのように狙いも定まっていない。

 重篤なダメージを免れた怪物は視線を紗絵から彼らに移す。そして頭を仰け反らせ、喉元までせり上がっていた液体を吐き出そうとした。

 キョウは咄嗟に紗絵の近くに走り寄り、スクールベストの襟首を強引に引っ掴んだ。

「ええ!? こういうときは手を繋ぐもんじゃないの!?」

 彼女が混乱した声を上げたが、今や構っていられる状況ではなかった。

 ロータリー内に安全地帯は無く、駅舎や周囲のビルも駆け込める距離にはない。怪物の攻撃を凌げそうな遮蔽物は一つだけ……先ほど横転したまま放置されたバスしか無かった。

 彼が走り出すと同時に、怪物が液体を吐き出したと思しき、悍ましい音が耳に入った。途端に銃声が止み、男子生徒たちの悲鳴が響く。

 しかし、キョウは背後を確認することなく全力疾走を続ける。風紀委員たちが全滅すれば、次に狙われるのは自分たちだと分かっていたからだ。


◆◆◆

 

 二人がバスの影に駆け込むと同時に、吐き出された胃酸がバスの底面で弾ける音が聞こえた。頼もしい事にスチール製の車体は頑強な盾として機能したらしい。

「はぁ……はぁ……なんとか、間に合ったか……」

 キョウは、息も絶え絶えとなってバスの屋根に背中を預けた。足下には車体に押し潰された人の腕が転がり、血液と怪物の胃酸が放つ刺激臭が漂っていたが、贅沢は言っていられない。

「あはは、ありがとね……でもどうしよう。あいつじきに地上へ出てくるよ」

 一方、紗絵はあまり疲れた様子もなく、呑気に笑みを浮かべながら辺りを見回していた。

 彼女の言う通り、周囲には怪物が再び穴を掘り広げる音が響き始めた。やつが地上に上がればこの場所も死角ではなくなるはずだ。それどころかバスそのものが破壊される恐れもある。かといって、ここから付近のビル街へ逃げ込むにしても、見通しのいい場所を50メートル程度走る必要がある。その間、怪物が撒き散らす強酸性のゲロをかわし続ける自信は無かった。 


 二人が話していると、プロペラ音と共にノニエンくんが舞い降りてきた。どうやら上空から様子を伺っていたらしい。

「どうするつもりなの紗絵、そこからじゃ脱出ルートも指示できないわよ」

「私だってこんなところ来るつもりなかったんだけどね、キョウくんに無理やり攫われちゃったから……」

 紗絵はそう言いながら身体を抱きしめるように手を組み、イタズラっぽい視線をキョウに向けた。

 頭にカッと血が上るのを感じる。平時なら他愛もない冗談かもしれないが、今の彼にそんな余裕はなかった。

「人聞きの悪い事を言うな! 今はそんなこと言っている場合じゃないだろ! 」

 湧き上がる苛立ちを堪えながら言い返す。そんなキョウの様子に双葉も同情の色が混じった声音で語り掛けた。

「貴方も災難ね、だから紗絵には関わらない方が良いって言ったでしょう」

「ああ、全くだ……それより治安維持委員は何やってるんだ? あんなのが出たんだぞ、そろそろ出撃する気になっただろ? 」

「残念だけど六田口委員長が渋ってるようね。こうなったらテコでも動かないわよ、彼女」

 キョウの口から思わず「はぁ?」というため息が漏れた。どうして生徒会の動きを知っているのか、という疑問も浮かんだが、それよりも燻っていた苛立ちが再燃した。

「あの疫病神のサル女め……どうしてこう、いつもいつも……! 」

「来ないものを待ってても仕方ないわ。今こちらで救援を呼んだから、到着するまでしばらく時間を稼いでくれない?」

 双葉の声は冷淡なままだったが、「救援」という希望に満ちた言葉は思いがけずキョウの怒りを掻き消した。紗絵にも何か心当たりがあるのか、その表情がぱっと明るくなる。

「さっすが双葉ちゃん、気が利くぅ! だったらキョウ君、もうちょっと頑張ろうよ! 」

「だが、時間を稼ぐと言ってもな……そんなこと出来るのか?」

 冷静さを取り戻したキョウは、手にした拳銃を見ながら自分たちが置かれた状況の厳しさを再確認した。

 まず第一に残弾が殆どない。キョウの拳銃は公園でマガジンを一つ使いきったので、残弾はいま装填された7発のみ。紗絵のポーチにも予備マガジンはないようだ。

 そして第二に、たとえ銃弾が有り余るほどあっても拳銃やアサルトライフル程度では怪物に対する有効な攻撃手段にはなりそうになかった。紗絵には「鎌口セイバー」もあるが、流石にあの巨体を相手にチャンバラを挑む気はないだろう。

「どうする。こんな手札じゃ打つ手にも限りがあるぞ」

 キョウは重苦しい現実を実感しながら問いかける。一方、紗絵は少し目を閉じて思案していたが、すぐに顔を上げて策を提示してみせた。

「うーん、とりあえず今出来る事は目潰しくらいかな。暴れるかもしれないけどゲロの狙いが定まらなくなれば、脅威性も随分薄れると思うよ」

 確かに、とキョウは頷く。

いくら怪物の表皮が頑丈でも眼球までは固くあるまい。上手くいけば眼窩を貫通して脳にまで銃弾が達するかもしれない。流石は怪獣退治の専門家か、とキョウは少し彼女の事を見直した。

「じゃ、決まりだね。まずキョウ君が右側の目を狙って撃ってみて。奴がそっちに気を惹かれたら、その隙に私が左の目を狙撃するから」

 紗絵はバスの車両後部側を指差しながら歩き出そうとした。しかし、双葉が「待ちなさい」とそれを引き留める。

「つまり彼を囮にして狙撃するってことじゃない。下手したら、また風紀に怒られる羽目になるわよ」

 彼女の指摘を受け、紗絵は大げさに頭を抱えてみせる。

「だって、この状況で他に奴を陽動する方法なんかある? 私、狙撃は苦手だから動き止まって無いと当てられないし」

 あまりに邪悪な目論見を聞かされ、キョウは怒りを通り越して呆れた視線を彼女に向けた。しかし、彼女から悪びれた様子は全く感じられない。どうやら本気で囮にするつもりだったらしい。

 以前死んだという生徒も同じような目に遭ったのだろうかという考えが脳裏に浮かぶ。ただ彼女に従っていては命がいくつあっても足りないようだ。ならば、とキョウは自らも策を示した。

「だったら、このドローンも囮に使ったらどうだ? 鼻先で飛び回ったら奴も興味を持つと思うが」

「他人の物だと思って気楽に言ってくれるわね、これ一機いくらすると思ってるの?」

 キョウの提案に対して、双葉は凄く嫌そうな声を発した。想定外の難色を示され、彼の口調に焦りの色が混じる。

「おいおい、俺はともかく友達の命が助かるなら安いもんだろ……」

「いくら友達でも他人の命をお金で計れないわよ。高いにしても安いにしてもね」

「もし奴に壊されたら半分くらいは修理費払ってやるよ。ここ最近、金を使う機会が無かったから貯金貯まってるし」

 キョウは思わず妥協策を示す。すると紗絵が間に割り込んできた。

「えっ、キョウくん自分で払うなんて太っ腹じゃん! だったら言う通りにして良いんじゃない? 」

 彼女はとても嬉しそうな声音で提案に同意する。表情も何故か楽し気だ。

「そんな安請け合いして、知らないわよ……」

 双葉はまだ不満があるような雰囲気だが、状況が状況だけに割り切ったのか、提案を呑んだようだ。すぐに口調を変えて二人に指示を飛ばした。


「じゃ、今から怪物の前を飛ばしてみるわ。その隙に攻撃を開始しなさい」

 若干の不安を感じつつも、キョウも作戦の再確認を試みる。

「まず俺が撃ち始めるんだったな。十分に惹きつけたと判断したら奴の目を狙撃してくれ……頼んだぞ、ホントに」

 彼の懇願に、紗絵は親指を立てて応じて見せた。

「任せてよ! じゃ、みんな頑張ろうね!」

 彼女は皆に檄を飛ばすと、そそくさとバス前部側へ歩いて行った。その足取りは遠足に向かう子供のように軽やかだった。

 一方のキョウも車両後部側へと向かうと、車体の影から怪物の様子を覗き見る。

 まずい事に怪物の身体はもう殆ど地上へ出つつあった。穴につかえているのは腰の部分らしく、うつぶせの状態になりながら半ば退化した小さな前脚を振り回している。このままではいつ地上に這い出てもおかしくない。

 キョウが焦りを感じる中、ドローンは一直線に怪物の方へ飛んでいき、やがて怪物の眼前でUFOのようなジグザグ飛行を開始した。 音もなく飛んできた飛行物体に驚いたのか、怪物は手の動きを止める。狙い通り怪物の興味はドローンに集中し、その動きを眼で追い始めた。キョウはその隙に身を乗り出すと、怪物の顔面目掛けて引金を弾いた。


 陽動とはいえ、片方だけでも目を潰せればそれに越したことはない。キョウは可能な限り正確に、一発撃つたびにひと呼吸を置きながら次弾を発射していく。

 銃撃に気付いた怪物はすぐさまキョウの方を睨みつけ、喉元から不気味な音を発し始めた。

 しかし、キョウは落ち着いて銃撃を続ける。最初の二発は怪物の強固な表皮に覆われた頬や瞼に当たって弾き返されたが、三発目は眼球の白目部分を、そして四発目が遂に黒目部分を直撃し、辺りに体液の飛沫を撒き散らした。

 流石に苦痛を感じたのか、怪物は大きく頭を仰け反らせて悲鳴を上げる。しかし、すぐにキョウの方へ向き直ると口を大きく開けた。どうやら片目を奪われても戦意は全く薄れていないようだ。

「今だ! 撃て!!」

 頃合いと判断したキョウは、叫びながらバスの陰に身体を引っ込めた。次の瞬間、強烈な刺激臭を発する胃液がバスの窓に降りかかる。作戦通り、液体はキョウの隠れたバス後部側へ集中的に吐きつけられていた。

 その機を逃さず、紗絵が素早く身を出してアサルトライフルを連射した。猛烈な銃声ともに怪物の悲鳴が響き渡る。それと同時に胃液はあらぬ方向へと逸れていった。


「やったか?」

 キョウはそう呟きながら、バスの影から怪物の状況を覗き見る。 

 そこにはキョウの期待していた通りの光景……怪物がもがき苦しみ、戦闘不能に陥っている姿があった。

 怪物は慟哭するかのように両眼から血液を垂れ流している。紗絵のライフルで射抜かれたと思しき左目に至っては、眼球が潰れるだけに留まらず周囲の肉が抉れ、眼窩から飛び出た残骸がだらりと頬に垂れている。

 口元からは胃液が未だに溢れているが、その狙いは定まっていない。攻撃の意図で吐き出しているというよりは苦痛の為に意図せず漏れ出しているだけのようだ。

 これならもう満足に暴れることは出来ないだろう。致命傷は与えられなかったが、十分すぎる成果だ。

 キョウは達成感を胸に抱きつつ、紗絵の方に駆け寄った。

「やったな! ここまですれば十分だろ。あとは風紀か治安維持委員に任せれば……」

 しかし、紗絵はまだライフルを構えたままだった。それどころか意外と深刻そうな顔をして怪物を見つめている。

「ううん、ちょっとダメだったみたいだね……」

「ダメだった? 一体それはどういう……」

 紗絵の言葉に困惑したキョウは、そう言いながら怪物の方を振り向き……恐ろしい現実を目の当たりにした。


◆◆◆

 

 さきほど、確かに怪物の両眼球は潰れていたはずだ。しかし、キョウがマグナム弾を撃ち込んだはずの右目は、今まるで何もなかったかのごとく元通りになっていた。

 一方、神経節だけでぶら下がっていた左眼球の残骸は、まるでヨーヨーを巻き取るかの如く眼窩に戻ると、元の形へ再生してしまった。 怪物は新品同然となった両眼球をギョロギョロと動かし、点検でもするかのように周囲を見回している。

「何あれ……あんなの反則でしょ……」

 ノニエンくんからは双葉の困惑した声が漏れてきた。彼女たちにとっても全く想定外の事態だったようだ。

「ど、どうする? 目がダメなら何か、別の手は!?」

「いや無理だよあんなの……逃げるしかないよ!」

 紗絵が言い終わるか言い終わらないかのタイミングで地面に巨大なヒビが走り、土砂が崩れ落ちる音が響いた。怪物の足下から砂煙が舞い上がり、駅前の風景を覆い隠していく。しかし、怪物の頭はその粉塵より高く持ち上がり、キョウたちを見下ろす程の高さとなった。同時に怪物の足音らしき振動が二人を襲う。

「あ、もう出てきちゃったみたいだね……」

 紗絵は間の抜けた声でそう呟いた。

「二人とも、早く逃げて! 」

 双葉の鋭い声が発せられると同時に、二人は踵を返して駆け出していた。


 背後からは重い足音と瓦礫が引きずられる音が響き、そのたびに足下を振動が襲った。どうやら怪物は逃げる二人を追跡し始めたようだ。

 一方、二人はノニエンくんに先導されるような形で走っていた。双葉は彼らを公園の方へ誘導するつもりらしい。

「もう一度奴の気を惹いてみるわ。二人はその隙に植え込みにでも隠れてやりすごして。もう救援も着くはずよ」

 こんな状況でありながら、彼女の声は冷静だった。

 キョウは公園に着くまであのゲロを吐かれずに済むだろうか、と不安を感じたものの、他に選択肢は無かった。怪物が自由の身になった今、ただ障害物へ隠れてもそれごと踏み潰される可能性が高い。何とか見失ってくれることを祈るだけだ。


 二人は横転したバスの横を通り過ぎ、駅と公園の間にある大通りへと到達する。

 目的地への公園まではあとわずかだが、意外にも足音は背後から遠ざかっていった。吐瀉物を吐きだすときの不快なゴロゴロ音も聞こえない。

 奴は追跡を諦めたのか、それとも俺たち以外の獲物を見つけたのか。キョウの心に僅かな期待が過る。

 しかし、次の瞬間。想定外の衝撃と砂煙が二人を襲った。キョウは激しい振動によろめきながらも、かろうじてその場に踏みとどまる。顔を上げると、砂煙の向こうに、鱗で覆われた怪物の下腹部が聳え立っていた。

 「うそっ、ジャンプしてきたの!?」

 紗絵が悲鳴を上げる。怪物の脚は胴体に比べて短く貧弱そうだが、想像以上の跳躍力を持っていたらしい。

 怪物は腰を捻らせて背を向けた。棘に覆われた背中の下にはしなやかな尻尾が躍っている。それは鋭い風切り音を立てながら二人の方へ迫っていた。

「まずい、伏せろ!」

 キョウは叫びながら、隣に立っていた紗絵を庇うようにして路面へ押し倒す。

 直後、鞭のような一撃が二人のすぐ傍に叩きつけられた。凄まじい衝撃にアスファルトが抉られて周囲に瓦礫が飛散する。


 激しい衝撃がキョウの頭部を襲った。

 どうやら瓦礫のひとつが頭を直撃したらしい。激しい痛みと共に脚が力を失い、膝ががくりと折れる。

 必死に体勢を維持しようとしたが、身体はそれに従おうとはしない。かろうじて上半身は起こせていたが、脚の力は完全に萎えていた。

 キョウの意識は急激に薄れていったが、同時に激しい焦燥感に襲われていた。ただでさえ怪獣が目の前で大暴れしているというのに、こんなところで倒れては助かる見込みはない。

「ちょっとキョウくん! 大丈夫!?」

 紗絵の声ががんがんと頭に響いた。既に身体を起こした彼女は、血で濡れたキョウの頭を抱いてゆすっている。

「俺の……ことは……良い……早く逃げろ……」

 キョウはそう言おうとしたが、口からは呼気が漏れるばかりで言葉にならない。

 なまじ意識が残っている事が彼には恨めしく感じられた。せめて気絶していれば、二人が立たされている絶望的な状況を直視せずにいられたからだ。


 怪物は既にこちらへ向き直って二人を見下ろしている。

 口元からは涎が漏れ出し荒く息を吐いているが、それが怒りによるものなのか食欲によるものなのかは分からない。何にせよ二人に強い殺意を抱いている事は確かだ。

 近くの路面には、キョウと同じように瓦礫の直撃を受けてしまったのか、球形のボディが真っ二つに砕けたノニエンくんの残骸が転がっていた。

 もう双葉からの支援は期待できない。そして、彼女が言っていた「救援」がやってくる気配も感じられなかった。

 このままでは確実に死ぬ、自分も、そして紗絵も。

「逃げろ、お前だけでも……」

 キョウは必死に声を発しようとしたが、叶わない。そして紗絵は逃げ出す素振りすら見せなかった。

 彼女はキョウの頭を胸に抱いたまま”鎌口セイバー”を手に取り、怪物へ見せつけるように光刃を展開してみせた。 もうヤケになっているのか、それともまだ勝てるつもりでいるのか、その表情には薄い笑みすら浮かんでいる。

 だが、怪物は怯んだ様子もなく、大きな口を広げて二人に頭を近づけてきた。

 血でかすんだキョウの視界にも、二人をまとめて呑み込めるであろう口腔ははっきりと映っていた。汚らしく不揃いに生えた歯の数々もはっきりと見えている。

 万事休す。彼は思わず瞼を閉じて、これから訪れるであろう死から目を背けようとした。

 

 次の瞬間、キョウの身体に熱を帯びた液体が降りかかった。

 怪物の唾液か、それとも喰い千切られた紗絵の血液か、恐ろしい想像が心臓を締め付ける。

 しかし、まもなく来ると思っていた死は訪れなかった。代わりに怪物の悍ましい叫び声が響き、同時に重いものが倒れ込んだ衝撃が彼の身体を揺さぶった。

 目を開くと、怪物は地面に身を横たえ、苦痛の喘ぎ声を漏らしていた。

 怪物の左眼球には白い、湾曲した刃のような物体が突き刺さっている。しかし、眼球は先程のように再生していない。刃の刺さった辺りの肉全体が、まるで硫酸でもかけられたかのように白煙を上げながら腐り落ちていた。

「あのブレード……もしかして伊吹ちゃん……!?」

 返り血で顔を汚した紗絵が、呆然とした口調でつぶやく。

 キョウの脳裏に「誰だ、それは」という疑問が浮かんだが、それに応えるかの如く、背後からブーツの足音が悠然と近づいてきた。


「へぇ、なりそこないの割には育ってるね」

 足音の主はキョウたちの傍を通り抜けて怪物の前に歩み寄り、二人を省みることなく呟いた。

 そこに立っていたのは、栗色の髪を持つ一人の少女だった。

 ネイビーブルーに染められたデニム地の半袖ジャケットを身に纏い、下半身には同じ色のホットパンツ、適度に筋肉のついた脚にはロングブーツを履いている。 腰まで届く長髪は赤い髪ゴムで縛られて、猫の尻尾のように揺れている。顔は見えなかったが、声色と体格からは紗絵と同年代の女子であることが伺えた。

 もみあげの傍からは長い耳のようなものが飛び出ており、その鮮やかな肌色が目に付いた。本当に耳ならば常人とは思えない長さだが、それが作りものなのか本物なのか、今のキョウには判断できなかった。


「紗絵、何ぼうっとしてるの。危ないから早くどっか行きなよ」

 少女はそう警告したが、一応はセイバーを持っている紗絵に対して彼女は丸腰だ。

 にも関わらず、彼女は臆する事もなく怪物へ近づいていく。この女もマトモじゃないのかという疑念が浮かぶ。

「ちょっと待って! キョウくん……この男の子、私庇ってケガしちゃったの。早く病院へ運ばないと!」

「……キョウくん?」

 伊吹と呼ばれた少女は、オウム返しのように呟きながら二人の方を振り返る。

 彼女のその姿を見て、キョウは思わず息を呑んだ。猫科の動物を思わせる整った顔立ちの上には、少し不釣り合いなアンダーフレームの眼鏡が乗っている。 ジャケットの下には丈の短い黒シャツを着ているものの、その胸では紗絵にも劣らないサイズの膨らみが存在を主張していた。おまけに引き締まった腹部の白い肌や、形のいい臍は惜しげもなく露わになっている。春先の、そして学園都市の生徒としては非常識なほど扇情的な格好だ。

 しかし、キョウはその肢体にいやらしさは感じなかった。代わりに感じていたのは既視感、そして懐かしさだった。

 傷を負った頭の痛みすら上回る、その感情がどこから湧いてくるのか、彼自身にも理解出来なかった。

 一方、伊吹の表情は訝し気なものから、驚愕のそれに代わりつつあった。

「嘘、どうして……」

 震えるように微かに、彼女の口が動きかける。


 しかし、言葉の続きは凄まじい咆哮に断ち切られた。

 あまりの大音響に鼓膜が震え、耳を塞ぐことも叶わないキョウは意識が遠のく。

「うわ、あいつまだやる気みたいだよ!?」

 紗絵が驚きの声を発する。彼女の言う通り、怪物は既に苦悶から立ち直り、身体を起こしつつあった。

 左目は未だ再生出来ないらしく眼窩から血を垂れ流したままだが、その視線ははっきりとキョウたちの方向を見据えている。

 怒りが湧き出したのか、怪物は顔を上げるともう一度天に向けて咆哮した。

 だが、そんな状況にあっても、伊吹は不愉快そうに目を細めるだけで、まるで動じた様子はなかった。

「うるさいな……紗絵、その人早く連れて行って。そこに居たら戦えないよ」

 彼女は苛立った口調で指示した。

 一人で戦う気なのか、とキョウは困惑する。しかし、紗絵は特に疑問を呈する様子もないようだ。

「分かった! あとはお願いね!!」

 彼女はそう言うと、キョウの身体を抱きかかえ引きずりながら後ずさり始める。

 対照的に伊吹は、怪物の方へと走り始めていた。


 今や殺意の塊となった怪物は頭を下げ、大きく口を開いて彼女に襲い掛かった。頭突きするように叩きつけられた頭部がアスファルトの路面を粉砕し、下顎が土砂を攫ってこそぎ取る。

 しかし、伊吹はバックステップでその攻撃を回避し、返す刀で後ろ回し蹴りを繰り出した。

 キョウが「そんな攻撃が効くのか」と考える暇もなく、怪物の右頬肉が斬り裂かれ、血が溢れ出した。

 見ると、伊吹のブーツは返り血に塗れ、踵から腿の部分にかけて白い刃が突出しているのが見える。

 怪物の眼球に突き刺さっていたものと同じ、曲刀のような刃だ。蹴りと同時にあれで斬り裂いたのか、とキョウは分析する。だが、先ほどまで彼女のブーツにあんな刃は生えていただろうか。


 怪物は悲鳴を上げて後ずさると棘だらけの背を向け、再び鞭のように尻尾を振り回し始めた。

 縦振りの一撃が振り下ろされたが、伊吹は難なく横跳びでそれをかわす。更に繰り返し大地に尾が叩きつけられたが、完全に動きを見切ったのか伊吹はそれを最低限の動きでかわしてみせる。

 挑発的な行動に怒り狂った声を発した怪物は、身体を捻って斜めに薙ぎ払うような軌道で尻尾を振った。

 キョウは「あっ」と声を漏らしかける。あれではどう動いてもかわしようがない。

 しかし、伊吹の身体能力は怪物とキョウの想像を超えていた。彼女は一瞬身を屈め、そして垂直飛びで3mほどの高さまで飛び上がる。

 殺意の籠った尻尾の一撃は虚しく空を切り、何もない路面に突き刺さった。その間に着地した伊吹は怪物の尻尾の半ばまで駆け寄り、踏みつけるようにして踵に生えた刃を突き刺す。

 次の瞬間、彼女の足下から噴水のように血が噴き出した。同時に怪物は目を潰された時以上の悲鳴を上げる。 毒々しい赤の体液に塗れて大蛇の様な物体がのたうち始める。

 それが半ばから断ち切られた尻尾の断片だと気づくまでキョウは若干の時間を要した。尻尾の断面は丸太ほどの太さに見える。それを骨もろとも一瞬で断ち切ったというのか。

 怪物は苦痛の声を発しながら転倒、その場で転がって暴れ始めた。伊吹はその場を飛び退いて距離を置く。

 断ち切られた尻尾の切れ端は生き物のように這いまわり、まるで意志を持っているかのように伊吹に絡みつこうとしたが、彼女は動じることなくその先端を掴み、そして振り回すようにして怪物の顔面へと叩きつけた。

 頭蓋骨が砕けるほどの強烈な一撃に、怪物は短い悲鳴を上げる。二度、三度と振り下ろされた尻尾は強烈な鞭打となって怪物の頭部を痛めつけ、瞼に生えていた短い棘を削ぎ落とした。


 やがて頭への執拗な攻撃に抵抗する気力を失ったのか、怪物は大人しくなった。

 度重なる衝撃に左顔面は潰れ、元の形が思い出せないほどに歪んでいる。口からは血が溢れ、歯の欠片も零れ落ちていた。

 伊吹はもう必要ないとばかりに、尻尾の欠片を無造作に放り投げる。街路樹に叩きつけられたそれは残った体液を垂れ流しながら動きを止めた。伊吹はそれに一瞥をくれた後、すぐに怪物のほうへ視線を戻す。

「さ、そろそろ終わりにしようか」

 彼女がそう言いながら広げた右手の掌を握りしめると、上腕部の肉が裂け、白い骨のようなものが突出した。


「なんだ……アレは!?」

 キョウは心の中で驚きの言葉を漏らした。

 彼が見ている前でそれは脚から生えていたものと同じ形状、曲剣のような白い刃に姿を変えていく。

 それは武器などではなく、彼女の身体から生えた”器官”というべき代物だった。拳の上に長い刃が一本、それに続くように短めの刃が二本並んだ様子は、見ようによっては鋭い牙と歯のようにも見える。

 身体の内から突き出している為に、彼女の肌肉は痛々しく抉れ、指先から滴り落ちる血が路面を汚していた。しかし、彼女は苦痛を感じた様子もなく、静かに怪物の前へ歩み寄っていく。 

 傷ついた怪物は僅かに顔を上げ、かろうじて原形をとどめた右眼球で彼女を見つめた。

 その半開きになった口からは、激しい喘ぎが漏れている。怪物も伊吹の姿、そして能力に怯えているのだろうか、とキョウは考える。


 しかし、紗絵は瞬時にその真意を察した。

「伊吹ちゃん気を付けて! そいつゲロ吐いてくるよ!!」

 鋭い叫び声に伊吹は一瞬身構えたが、手遅れだった。彼女は既に怪物の眼前に立っている。

 怪物の口元が笑みを浮かべるように歪んだように見えた。

 次の瞬間、土石流の如く吐瀉物が放たれ、伊吹の姿は掻き消された。

 今度こそ、どうあがいてもかわせる状況ではない。あれほど酸を浴びせられたらどうなってしまうのか……石和の悲痛な最期、いやそれ以上に凄惨な光景がキョウの心に浮かぶ。


 しかし、彼の予想は再び覆された。

 胃液の奔流に断ち切られたかのように止まり、代わりに黒々とした鮮血が噴き出したのだ。同時に怪物の悲鳴が響き渡る。

 汚濁した霧が晴れると、中心から伊吹が姿を現した。

 彼女は右腕から生やした刃を身体の前に振り下ろし、中腰の姿勢で佇んでいる。そのしなやかな身体に胃液は一滴も降りかかっていない。

「すごーい! あのゲロ斬っちゃったんだ!」

 紗絵がスポーツ観戦でもしてるかのような歓声を上げた。

 物理的に考えてあり得ない事態だが、路面に残った胃液の痕跡は紗絵の言葉を証明するかのごとくV字状に広がっている。加えて怪物の胸には出来たばかりの傷口が縦に開き、そこから赤黒い体液が噴き出していた。どうやら吐瀉物どころか怪物の身体そのものを斬り裂いていたらしい。

 怪物は出血しながら立ち上がり、今度こそ怯えたような声を出して後ずさる。

 それに対して伊吹はファイティングポーズの姿勢で拳を構えると、右腕を振り上げて刃を掲げてみせた。

「さぁ、トドメだよ……!」

 そうつぶやいた彼女は、腰を落として跳躍の姿勢を取る。

 しかし、怪物はそれを予測していたのだろう。顔を横に振ると、胃液を周囲にばら撒くように吐き散らした。アスファルトを蝕む強酸性の液体が足下に広がり、伊吹は突撃の機会を失う。

 怪物はその隙を逃さない。中腰の姿勢を取ると、先程と同様の大ジャンプで後方へ飛び退いた。

「下らないマネを! 逃がすか!!」

 伊吹は苛立った声で叫んだが、相手はそんな言葉に従うはずもない。更に怪物は頭をキョウ達の居る方向へ向けて、口を開いた。次の瞬間、石和を吹き飛ばしたのと同じ、吐瀉物の塊が喉の奥から発射された。

「うわ、ヤバいかも……!」

 流石の紗絵も上ずった声を上げる。動けないキョウはもちろん、彼を引きずっている紗絵も逃げられる状況ではない。

 どう考えても回避できない死が迫ってくるのを見て、キョウは今度こそダメだという思いに駆られる。しかし、彼らの前に稲妻のような速度で伊吹が滑り込んできた。

「させるかっ!」

 彼女が刃の生えた右腕を振り上げると粘液の塊は斬り裂かれ、三人を避けるかのごとく側面へ散らばった。腐敗臭とビニールを焼いた時の臭いを混ぜ合わせたような化学臭が鼻をつく。しかし、液体自体の直撃は免れたようだ。

 霧のように滞留した飛沫が晴れたとき、既に怪物の姿は眼前になかった。

 代わりに二度、三度と重いものが落下するような響き、少し離れた場所で土煙が上がるのが見えた。


 どうやら怪物は、先程と同様の大ジャンプを繰り返して逃げていったらしい。

「あいつ、駅の方へ戻ったようだけど……まだ暴れるつもりかな」

 紗絵はまだ警戒した様子で土煙を睨みながら分析する。しかし、伊吹は首を横に振った。

「いや、出てきた穴から逃げるみたい。あの様子じゃ、しばらくは出てこないでしょ」

 伊吹は耳に手を当てながら断言した。どうやらその長い耳たぶは単なる飾りではなく、集音マイクのような機能も備えているようだ。 一方、先程まで腕から突き出ていた刃は消え去っていた。それどころか刃が突き出ていたはずの手首には傷一つ残っていない。

「だったら追撃は無理か、それじゃとりあえず一件落着かな……」

 紗絵は脱力した声で言った。緊張が緩んで力が緩まったのか、キョウの身体もわずかにずり落ちかける。

「あ、キョウくんを病院に運ばないと! 伊吹ちゃんお願い手伝って! 」

 彼女はキョウの身体を抱き直しながらそう言った。女の子の力で男一人を抱き上げ続けるのは流石に厳しいようだ。


 その様子に、伊吹は呆れたような表情で近づいてきた。

 「その人まだ生きてるの? さっきからぐったりしてるけど」

 死人扱いされかけたキョウは手を挙げて応えようとしたが、まだ身体は動かなかった。意識がはっきりしているだけあって不気味さを覚える。

「息はあるみたい。でも頭から血を流してるからヤバイかも 」

「ホントに大丈夫なのそれ……ちょっと顔見せて」

 彼女はそう言いながら二人の前に立つと、キョウの顎を掴んで持ち上げた。

 青いアンダーフレームの眼鏡が急に目の前へ近づいてきて、キョウは思わず息を呑む。

 彼の焦りとは裏腹に、伊吹は真剣そうな表情で、目を細めながらキョウの顔を見つめていた。

「この人、やっぱり……」

 何かを得心したのか、伊吹は小さな声で呟く。

 彼女がぱちりと瞬きをすると、薄く閉じていた瞼が釣られて開き、つぶらな瞳がキョウの視界一杯に広がる。

 次の瞬間、キョウは殴られたような衝撃を覚えた。

 後頭部の傷から来る痛みではない。むしろ、鋭い杭で心臓を貫かれたような、身体の内から来る衝撃だ。

 首ががくりと落ちると同時に、息苦しさが胸からこみ上げ、キョウの視界は真っ黒に染まっていく。

 どんなに激しく息を吸い込んでも肺に酸素が入っている気がしない。まるで唐突に深い海の底へ突き落されたかのような感覚だった。

「ちょっ、キョウ君、大丈夫……!?」

「どうしたの、しっかりして! 」

 異変を察したのだろう、紗絵と伊吹の焦った声が遠く響いている。

 しかしそれも、遠いこだまのようにぼんやりとしたものになりつつある。

 重くなった瞼が閉じ切り、視界も完全に失われていった。

 全ての感覚が消え去ったとき、最後に残ったものは、瞼の裏に焼き付いた伊吹の瞳の色だけだった。

 まるで翡翠のように鮮やかな深緑。それが脳裏を覆い尽くすと同時に、キョウの意識は溶け去っていった。

 

 ◆◆◆


 キョウは暗いトンネルの中を走っていた。

 足を踏み出すたびに、視界に広がる黄緑色の赤外線センサー画面にノイズが走る。

 口元のマスクからは常に酸素が供給されていたが、重々しいヘルメットに覆われた視界は理屈に合わない息苦しさを感じさせた。

 彼が身に纏っているのは最新鋭の強化外骨格だ。肉体を補助するカーボンナノチューブ製の人工筋肉繊維とアクチュエーターのパワーにより、彼は重厚な鎧で護られつつも疲れを感じずに走り続けることが出来た。

 だが、キョウ自身はその足取りに、言い知れぬ重さを感じていた。

 いかなる科学技術の加護も、背後に迫っている”それ”に比べればオモチャに過ぎない。未練がましく携えている対物ライフルにしてもそうだ。人体を引き裂くほどの威力を持つ徹甲弾も、自分を追っている”それ”には全く効果がないことが分かっていた。


 走り続けていると、地面に転がっていた何かが足に引っかかった。

 思いがけずバランスを崩し、キョウの身体はあえなく倒れる。ライフルが床に落ち、装填された実包が暴発して轟音を発した。

 転倒の衝撃は人工筋肉が吸収したものの、ヘルメットが外れて視界は闇に覆われる。 

 キョウは身を起こしながら、どこかへ転がっていったヘルメットを手探りで探そうと試みた。

 周囲に人工的な灯りは無い。コンクリート製の床面に自生した菌類の生体発光だけが仄かに周囲を照らし出している。

 その光が、先ほど蹴躓いた物体の正体も明かしてくれた……キョウと同じ、強化外骨格を纏った戦友の死骸だ。

 対戦車ロケットの直撃にも耐えるはずの胸部複合装甲には無惨な傷痕が走り、喉元を覆う強化繊維は引き裂かれている。裂け目からは湧き出るように体液が流れ出ていた。

 

 戦慄しながらも文字通りの暗中模索を続けたキョウだが、やがて死刑の宣告を告げるかのごとく重々しい足音が背後から響いてきた。彼は振り返ってその姿を視界に捉え、そして後悔した。その存在が、自分に確実な死を与える事を確信したからだ。

 その怪物は全身、血の赤に染まっていた。

 重度の火傷により失ったのか、あるいは生まれつき表皮を持たないのか、全身は赤い筋肉組織が剥き出しになっている。腹部に至っては肋骨が露出し、腸らしき肉紐が無数に垂れ下がっていた。

 四つの手足で這いずるように歩く姿は巨大なガマガエルのようだが、前脚には鋭く巨大な爪を備え、肩口からは鹿の角のように鋭い、威嚇的な突起物が生えている。

 しかし、何よりキョウが悍ましさを感じたのは、大きく開け広げられた口だ。

 その顎は文字通り肩まで裂け。口腔内には無数の白い乱杭歯が無秩序に乱立していた。

 顔が近づいてくると、それらの歯が喉の肉襞に合わせて開閉するのが見えた。もし、あの口に飲み込まれれば、一瞬で全身を噛み砕かれ、細かな肉片となって胃へ送られるだろう。

 巨大な口に比べ、小さく細い頭部は蛇の上顎を思わせる。顔の先端では緑のつぶらな瞳が光り、獲物の味を見定めるかの如く視線を伸ばしていた。

 鉄の匂いを含んだ呼気が生臭い呼気が顔に当たり、キョウは思わず瞼を閉じる。もう目を開けることは出来ないだろうという諦観が、彼の心を支配していた。


「……ねぇ」

 唐突に、消え去りそうなか細い声がキョウの耳に届いた。

「……ねぇ、キョウくん」

 驚いて目を見開くと、彼のすぐ傍に5歳ほどの幼い少女が立っていた。少女の肌は死人のように白く、肩まで伸びた栗色の髪からは水が滴っている。

 纏ったワンピースは濡れて肌にへばりつき、まるで深い海の底から上がってきたような印象を受ける。

 髪の短い、見ようによっては男の子のようにも見える中性的な顔には、半ば壊れた小さな眼鏡が乗っていた。彼女を怪物から逃がさねばという考えが脳裏を過ったが、怪物はまるで時間が止まったかのように動きを制止していた。

 心臓を掴まれたような恐怖がキョウの心を支配する。こんな場所に女の子が、ましてや”彼女”がいるはずはない。

 少女はキョウの眼前に歩み寄ると、冷えた両手で彼の頬を掴んだ。

「……どうして」

 少女は拙い、しかし明らかに怨嗟の籠った声を発する。

 キョウには眼前のグロテスクな怪物よりも、少女のほうが遥かに恐ろしく感じられた。

「いぶ……ちゃん……?」

 キョウはそう言いながら必死で彼女の手を振りほどこうとするも、まるで金縛りにあったかのように腕そのものが動かなくなっていた。唇も震えて、上手く言葉を紡ぐことが出来ない。ただし、それは戦慄から来る震えが原因かもしれなかった。

「やめて……くれ……」

 半狂乱となったキョウは必死に懇願したが、少女は無表情のまま彼を睨んでいた。

 言葉は無くとも徹底的な拒絶の意志が視線から伝わってくる。

 恐怖と罪悪感が胸の内から溢れ出し、息苦しさにキョウは悶えた。

 生きたいという気持ちも、少女から逃れたいという気持ちも萎え切り、ただ心の内が絶望感に支配されていく。

 そんな様子に見切りをつけたのか、少女はトドメを刺すかの如くキョウの耳元に口を近づけると、非難と憎悪に満ちた言葉を発した。

「どうして連れて行ってくれなかったの?」

 その言葉を引き金にしたかの如く、赤い怪物がキョウの身体を押し倒した。

 鋭い鉤爪がキョウの腕を抑えて捕え、熱と粘液を帯びた上半身が彼の身体に圧し掛かる。

「やめろ!やめろぉぉっ!!」

 必死の懇願も怪物には届くはずがなく、鋭い爪によって胸部の装甲版はあえなく破壊された。感情の伝わらない怪物の瞳がキョウの視界を過り、身を覆う鎧を噛み剥がしていく。

 傍らからは未だ少女が彼を見下ろしていた。

 目の前で人が生きたまま喰われようとしているのに、その表情は路上の虫けらを眺めるかのごとく無表情のままだ。

 彼の死を喜ぶわけでもなく、ただ冷酷な視線を投げかけ続けている。

 絶望と恐怖に意識が薄れゆく中、キョウは恐ろしい事実に気が付いてしまった。

 少女の割れたレンズの向こうから睨んでいる瞳が、怪物と同じ翡翠色であることに。


 ◆◆◆


 キョウが目を見開いた時、最初に目に入ったのは体育館の天井だった。

 悪夢の余韻で身体は強張っていたが、窓から差し込む夕陽を見て、まだ生きている事を自覚するとそれも緩んでいった。


 彼の傍らには二人の女子生徒が並んでパイプ椅子に腰かけている。

 片方は紗絵だ。ワイシャツとサマーセーターは怪物の血で汚れているが、外傷を負っている気配はない。

 どうやら居眠りをしているらしく、頭は不規則に揺れて、口元はだらしなく開いていた。

 もう一人の女子には見覚えがなかった。紗絵と同じ藍色のリボンで髪をツインテールにまとめ、少し大きめの眼鏡をかけているものの、体格は紗絵よりも一回り小さい、同年代だとすれば相当に小柄な体型の少女だ。

 少女はパイプ椅子に腰かけ、手にしたタブレット端末をじっと見つめている。

 何故かその姿はとても無機質なものに感じられた。まるで西洋人形にでも看護されているような気分だ。


「起きたのね」

 やがて視線に気が付いたのか、少女は落ち着いた声を発した。

 初めて会った相手だったが、その声を聴いて相手の名前に察しがついた。

「鈴村さん、だったか?」

 キョウの問いに、鈴村双葉は首肯した。ドローン越しに会話していた印象通り、冷静そうな雰囲気の少女だった。

「ええ、紗絵が世話になったわね、一応、礼を言っておくわ」

「いや、それほどの事はしてないよ……」

 それは謙遜ではなく、本音だった。少なくとも倒れて以降はずっと紗絵に守られていたことになる。世話になったのはこちらの方だ。

 先程の戦いを思い出すと負傷した後頭部がずきりと痛んだ。結局気絶したあと何があったのか覚えていない。

「あの怪獣はどうなったんだ?」

「奴なら逃げたきり行方不明よ。穴も既に治安維持委員が埋め立ててる。深手を負ってたみたいだし、もう地下で息絶えてるかもしれないわね」

「だといいんだがな……」

 先ほど見た怪物の異常な再生力が記憶に蘇る。そう簡単に死んでくれるようには思えなかった。双葉もそう楽観的な人物には見えなかったが、実際に怪物を目にした者とそうでない者の差なのだろうかという思いが脳裏を過ぎる。

「バケモノのことより自分の身体の心配をしたらどう? さっき医者が大した怪我はしていないと話していたけれど」

 彼女の言葉にふと周りを見ると、周囲は野戦病院の様相を呈していた。

 体育館内には大量の簡易ベッドが置かれ、重傷を負った多くの患者たちが保健委員や大人の医師の診察を受けていた。中には片腕が千切れて苦痛のうめき声を上げている者、そして一目で助からないだろうという重傷患者の姿も見える。

 キョウが毛布から右腕を出すと、トリアージ用と思しき黄色のタグが巻かれていた。そのまま先ほど負傷した頭を撫でる。内出血しているのか少し痛みを感じたが、深刻な外傷を負っている様子はなかった。

「俺は大丈夫そうだ。ここは手一杯みたいだし、これくらいの傷なら後で診察を受ければ十分だろう」

「そう、じゃあ紗絵を起こして行きましょうか。いつまでもこんなところで寝ていたら迷惑だわ」

 双葉はそう言いながら、紗絵の頬をつねった。

 彼女は一瞬びくりと反応したものの、すぐに眼を閉じてしまう。

「やめてぇ……もう少し休ませてよ……」

「バカ言わないの、それに貴女の王子様もお目覚めみたいよ」

「えっ、そうなの……?」

 紗絵は驚いたような表情で薄目を開いて、キョウの方を見た。

 誰が王子様だとツッコもうとしたが、幸い彼女にそんな余裕はなかったらしい。

「キョウくんおはよう……おやすみなさい……」

 そう言うと、紗絵は再び力尽きたように目を閉じようとする。

「いや、休むなら部室にしなさいよ。そう遠くないんだから……」

 双葉は彼女の頬をつまんだまま揺り動かす。

 キョウはそれを横目に見ながら起き上がり、布団から出た。

 幸い、脚にも力は戻っており、難なく立つことが出来た。ベッドから立ち上がった彼は周りを見回すと、先ほどから気になっていたことを口に出す。

「そういえばさっき助けてくれた……伊吹って人はどうしたんだ? さっきから姿が見えないが」

「あの娘なら、貴方を病院に届けたあとすぐ何処かに行ったわ。また怪獣狩りにでもいったんじゃないかしら」

「伊吹ちゃんは神出鬼没だからねぇ。普段どこで何やってるのか私たちにも分からないよ……」

 ようやく目が覚めたのか、双葉に続いて紗絵も疑問に答える。まだ眠気が残っているらしく、言葉の後には小さなあくびを漏らしている。

「そうか。一言くらいお礼を言っておきたかったんだけどな……」

「えー、それなら私にもお礼言ってくれるよね? 私が来てなかったらキョウ君、怪獣に食べられてたかもしれないんだし? 」

 伊吹の話をしているはずなのに、厚かましい猫なで声を出しながら紗絵がすり寄ってきた。彼女の世話になったのは事実だが、若干の苛立ちを覚える。

「まぁ感謝はしてるけど、撃たれそうになったことも覚えてるからな。個人的にはノーカウントとしておきたい」

「そんなぁ! せっかく助けてあげたのに! 双葉ちゃんも何とか言ってよ!」

 紗絵は大げさなリアクションを取りながら、双葉に訴えかける。しかし、彼女の視線も冷ややかだった。

「残念だけどそれは擁護できないわ。甘んじて受け入れなさい」

「えーん、みんなイジワルだぁ!」

 体育館の高い天井に紗絵の泣き声が響き、一瞬周りの保健委員がこちらを振り向いた。しかし、彼らはすぐ興味なさげに自分の仕事場へ戻っていく。

 重傷患者の一人は言葉こそ発しないものの、苦痛と憎悪に満ちた視線をこちらに投げかけているように見えた。

「早く出ましょうか。ここに居たら迷惑になるだけだわ」

 心底うんざりした双葉の呟きに、キョウは深く頷いた。


 ◆◆◆


 体育館を出た頃には、既に陽は西へ落ちきっていた。

 外の通りは北部エリアを一周する環状道路で人通りの多い場所のはずだが、この時間は既に人影がまばらになっていた。

 昼間怪獣が暴れたせいでもあるだろうが、そもそも猿梨市民は日没後の外出を避ける傾向がある。残った人々の足取りも若干足早に見えた。

「じゃあ、ここまでだな。二人とも世話になったな」

 駅の方向目掛けて一歩踏み出したキョウは、二人にそう別れの言葉を告げる。すると紗絵は引き留めるように彼の傍へすり寄り、その腕を取った。

「ちょっと待って! ねぇ改めて聞くけど伝奇部入ってみない? キョウくん絶対向いてるって!」

「確かに、正直なところあんなに戦えるとは思っていなかったわ。貴方なら十分やっていけると思うけど」

 双葉も彼女の言葉に同意を表明する。しかし、キョウは首を横に振った。

「いや、もうあんな戦いとか殺し合いは嫌というか、こりごりというか……とにかく勘弁してくれ」

 紗絵の顔と肩口に黒々とこびりついた怪物の血を横目に見ながら応えた。何故あんなことがあってから数時間で、これほど呑気な笑顔を浮かべられるのか理解できない。出来るだけ穏やかに紗絵の腕を引きはがすと、キョウは彼女たちから一歩距離を置いた。

「とにかく今日は色々ありがとう。俺、来週から登校エリアがこの北部になったから、授業中とかに会う事もあるかもな。じゃ」

 一気にそう言い終えると、キョウは足早に歩き出す。

 正直なところ、彼女らの提案に乗ってもいいか、という気持ちはあった。あれほど恐ろしい怪獣が町を徘徊しているのならば誰かが退治せねばならないし、誰かに必要とされているというなら悪くない話ではある。

 だが、それと同時に怪物との戦闘で傷ついた後頭部の痛みと、あの悍ましい悪夢、そして紗絵や伊吹の圧倒的な強さが脳裏を過ぎる。

 わざわざ俺がやるまでもないだろう、キョウは自分にそう言い聞かせながら、駅の方へと歩き始めた。 


 ……しかし、その時。何者かがキョウの手を掴んだ。

「待ちなさい、何か忘れてることがない?」

 驚いて振り向くと、声の主、そして手を掴んだ張本人は双葉だった。どうやら走って追い付いてきたらしい。体育館からここまで僅かな距離だったはずだが、走り慣れてないのかかなり息を荒げている。

「忘れてる? なんのことだ」

「ノニエンくん、ドローンの事よ。修理費払うって言ってたわよね」

 そういえばそんな約束もしていたな、とキョウは思い出す。しかし、破壊された時は既に陽動作戦は終わっていたからノーカウントではないのだろうか。

「貴方、”奴に壊されたら修理費を半分払う”としか言ってないわ。いつまでなんて言ってないわよ」

 双葉はにべもなく答えた。どうやら会話は録音されていたらしく、ご丁寧なことにタブレットからその時の音声が再生されている。

「いや確かに言ってないけどさ……いや、まあいいか」

 理不尽にも思える要求に、キョウは反論したい思いに駆られたが、それを抑えることにした。

 修理費について提案したのは自分だし、何より早くこの場を去りたかった。これ以上彼女たちに絡まれたくない。

「仕方ないな、払うよ……で、いくらくらいするんだ」

 そう答えると、双葉は無言で小脇に抱えていたタブレット型端末に見せつけてきた。


 キョウはその液晶画面に並んだ数字を見て、思わず目を疑う。

「ちょっと待て……! 一、十、百、千、万……2千万ってどういうことだ!?」

 そこには間違いなく、2が一つに0が7個並んでいた。小数点を見逃したなどということはなく、間違いなく2000万という数字が表示されている。

「普通、高くても十数万かそこらだろ!? 2千万……半分だから4千万だなんて、そんなに高いはずが……」

「あー、あれ軍用の試作機なんだ。だから結構高性能だったでしょう? 」

 遅れて追い付いてきた紗絵がポニーテールを揺らしながら答えた。申し訳なさそうな声音を装っているが、表情にはどう考えても喜色が混じっている。

 そういえば、とキョウは公園で覚えた既視感の正体を思い出した。以前、暇つぶしで読んだ軍事系雑誌にノニエンくんとほぼ同形状のドローンが掲載されていたのだ。それは連合国軍が採用を予定している新型だったはずだ。軍事用の試作機、しかも最新鋭のものならば値段も相応のものになるだろう。

「私もあのとき警告したでしょう。残念だけど約束した以上は払ってもらうわよ、2000万」

 双葉も冷徹な声音で続ける。その声からは全く慈悲が感じられない。

 キョウの頬を冷や汗が流れ、先ほどの戦いでも経験しなかったほどの動悸が胸を打った。いくら金を溜めていたとはいえ、せいぜい数十万だ。2000万など払えるはずがない。

 絶望的な現実を前に、キョウはその場に立ち尽くす事しか出来なかった。


 そんな彼の背後に、再び紗絵が寄り添った。キョウは煩わしさを込めた視線を向けたが、彼女はその意思が届いているのか、届いていないのかすら分からないほどの曖昧な笑みを浮かべる。

 そして、重大な秘密を共有するかのごとく耳元へ口を近づけて、囁いてきた。

「あーあ、残念だなぁ。伝奇部に入ってくれるなら、2千万くらいチャラにしてあげちゃうのになぁ……」

 それはあまりにも甘美な言葉だった。

「チャラに……!? いや流石に嘘だろ! それに、そんなの入部と引き換えにするなんてどうかしてる!」

 伝奇部の実態は分からないものの、学校の許可を得た部活であるはずだ。入部条件に借金返済をちらつかせるなど、許されることではない。しかし、紗絵はそんなの関係ないと言わんばかりの微笑を浮かべる。

「嘘じゃないよ……私はそれくらいの資産持ってるし。それに私、欲しいものはどんな手を使っても手に入れる性質なんだ」

 彼女はがっしりとキョウの肩を掴んだ。その力は女の子にしては意外なほど強く、絶対に逃がさないという意志がひしひしと伝わってくる。


 一方、前方からは双葉がタブレットの画面をこちらに向けながら迫っていた。

「さぁ、どうするの。返済か、入部か。どちらか選びなさい」

 彼女は冷徹な言葉を発しながらにじり寄ってきた。何故かその視線はとても無機質で、生気の感じられないものに感じられる。

 思わずキョウが後ずさると、背中に紗絵の柔らかい部分が当たった。

「ねぇ、どうする? どーするのー?」

 背後から抱きしめるような形で耳元に顔を近づけた彼女が、楽しそうな声でヤジを飛ばしてきた。

 その間にも、双葉の持つタブレットが前方の視界を覆い尽くそうとしていた。いつ用意したのか、画面には<入部> <返済>、二つの選択肢が浮かんでいる。

 その様子に、キョウはどこか先ほど見た悪夢の光景を思い出した。

「どうして、いつも俺はこうなるんだろうな……」

 彼は乾いた声でつぶやくと、タブレットの液晶画面に指を伸ばす。

 選択肢は二つだが、実質的に選べるのは一つだけだ。キョウはやむなく、その選択肢に指で触れた。


 タブレットから大仰なファンファーレが鳴り響く。

 それと同時に、紗絵は出会った時と同じ人懐っこい笑みを浮かべた。

「伝奇部へようこそ! 」

 彼女の祝福の言葉を浴びながら、キョウは取り返しのつかない決断をしたのではないかという不安に苛まれていた。


(END)

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