第59話


グレンがこんな傷を負わされた相手とマスターが戦うなんて、どう考えても分が悪すぎる。確かに、マスターは魔法を使えるようだけれど、酒場での様子を見る限りでは、到底戦う環境に身を置いていたとは思えない。

アルは本気だ。このままじゃマスターも危険な目に遭ってしまう。


「やめて!」


制止しようと言葉を発したのとほぼ同時に、アルが地を蹴り、マスターの元へと迫る。剣先をそのままに、突きを繰り出す。マスターは全く動かず、一連の動作がまるでスローモーションのように感じられる。

そして、切っ先がマスターに届くかと思ったその時――、ガキン! と大きな音を立てて剣が弾かれた。


喉の奥から今にも飛び出しそうになっていた叫び声が掻き消える。

確かにアルの件はマスターへ迷いなく吸い込まれたはずなのに、あと数センチという所で空に突き刺さっている。


「ああん? なんだこれ?」


アルも疑問に思ったようで、表情に苛立ちが見えた。


「あれ、この魔法ってあんまりメジャーじゃなかった? まあ魔法使いは基本後方支援だし、君みたいな猪突猛進型剣士は知らなくても無理ないか」


マスターは全く表情を変えず、まるで子供に説明をするように続ける。


「これはね、対物シールド。物理攻撃は絶対に僕に届かない。まあ君の剣筋レベルならこれがなくても避けられるけれど、昔ほど体力ないからね、楽できる所は楽させてもらうよ」


完全な挑発。アルの顔がみるみる赤くなっていく。

そして、マスターに対して何度も剣を振り上げるが、その宣言通り、一筋も彼に届くことはなかった。


私の心配は杞憂で、マスターはすごい強いのかもしれない。

それなら少し安心出来る。


グレン、大丈夫よ。マスターがアルに勝ったらすぐ治療が受けられる場所に連れて行ってもらうから、もう少しだけ我慢してね。

彼の手をぎゅっと強く握りしめると、さっきよりも体温が下がっているように感じられた。


「……?」


慌てて胸のペンダントを握りしめると、冷え冷えとはしているものの、こちらもさっきほどの冷えではないように感じる。

なんだか嫌な予感がする。おそるおそるペンダントトップの蓋を開け、魔導紙を確認すると、何故か紙の端がやや黒く変色していた。


「え……これって……」


確か、クラリスに魔導紙の説明を受けた時に聞いた覚えがある。

“黒は、その相手の≪死≫を意味する”、と。


手にした魔導紙は、じわじわと黒が中心に向かって染み始めている。

これは、グレンの命のタイムリミットということ……?

中心まで黒くなってしまったら、グレンはもう二度と目を覚まさないということ……?

慌てて大きな声でマスターに向けて叫ぶ。


「マスター! 魔導紙が……グレンの魔導紙が黒に染まり始めています……!」

「!」


アルと激烈な攻防をしているマスターの耳にもしっかり届いたのか、少しだけマスターの動作が止まる。そしてその隙をアルは見逃さなかった。

彼の剣がマスターの防御を潜り抜け、髪をひと房切り落とす。


「はは、やっとか。随分としぶとい奴だ。まああと少しすれば死ぬだろ。他のことを考えている余裕なんて、無いよな?」


マスターも強そうだけれど、アルと力が拮抗しているのかもしれない。今すぐ、グレンをしかるべき処置を受けさせないといけないのに。


私が、元のリリアだったら。この有り余っているといわれる魔力を使って治してあげられたかもしれないのに。

ううん、そもそも私がこの世界に来なければ、グレンがこんなつらい思いをする未来なんてなかったかもしれないのに。


全て、私のせい――。


ごめんなさい、本当にごめんなさい。

私にはただこうして、手を握りしめてあげることしか出来ない。

いち早くマスターが戦いに勝利するか、ギルが騎士団を連れてきてくれることをただ待つだけの、受け身でいることしか出来ない。


でも、わがままかもしれないけれど、私はあなたに出会えてとても幸せな時間を過ごせたの。この世界に来て、あなたに出会えて、毎日一緒に過ごすことが出来て、それが今まで経験したどんな日々よりも、幸せで愛おしいものだったの。

だから、もっとこの幸せが続いて欲しいの。


お願い、逝かないで――

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