第7話 ふたりぼっちの路地裏

 いつもよりベッドが固く、冷たい。それに、なんだか臭い気もする。今まで感じたことのない寝心地の悪さに、千代の意識はだんだんと覚醒していった。ゆっくりと瞼を開けると、目の前には黒い袋の山と散乱した雑多な何か。辺りの暗さに目が慣れ、それがごみ袋の山であると認識すると、千代は声にならない悲鳴と共に顔をしかめた。

 体を起こそうと、冷たい地面に手をつく。小石が手のひらに食い込んだ痛みを我慢して、辺りを見渡す。

 見慣れない路地であった。辺りは暗く、喧騒に包まれている。

 目の前のごみ達は、破れた黒いビニール袋を下敷きに散らかる。辺りに漂う異臭は、千代の目を覚ますのに十分であった。

「ん……」

 目を擦って明るいほうを向く。明るい、といっても、それは陽の光ではなくネオンの眩(まばゆ)さであった。蛍光白や色とりどりのネオンカラーが、千代の寝ぼけまなこを刺す。

 千代は、建物の影になるところで眠っていたらしかった。錆の目立つ駐輪スペースに丸まって眠っていた千代は、通りの道から路地裏を覗いても気づかれなかったらしい。

「とよとりさん、ここは……?」

 恩人の名前を呼んで、辺りを見渡す。しかし、その返答はない。

「……豊鳥さん、豊鳥さん!」

 千代の声はだんだんと大きくなっていた。重い体を立ち上がらせ、狭い路地をぐるりと見渡す。路地には、小さいながら店らしきものもあった。しかし、店先の電飾看板に明かりはついておらず、人の気配を全く感じない。

 千代は、急いでポーチの中からスマホを取り出した。電話のボタンを押し、電話帳に唯一載っている名前に電話する。何度かの呼び出し音の後、千代の背後から陽気な音が流れる。

 振り向いた先には、豊鳥が抱えていたあの大きなショルダーバッグが横たわっていた。駆け寄って、音の主である携帯をカバンのサイドポケットから取り出す。楠木千代、と書かれた着信画面を見つめ、千代は慄然とした。

 豊鳥さんが、消えた。

 喧騒に包み込まれた雑多な世界にあるのは、ごみの山と生臭さ、置いてけぼりのショルダーバッグと、千代だけだった。

 千代は呆然として立ち尽くした。ただ路地の先で輝くネオンを見つめる。まるで隔離されたかのような暗い路地。

 脳裏にあの青年の笑顔が思い浮かんだ。まだ会って数日も経っていないのに、とても頼もしく感じたあの記者。

”君のことを送り届けるのは、見つけた俺の責任だからさ。約束する”

「約束……したじゃないですか」

 千代は膝から崩れ落ちた。目頭が熱い。目の前のネオンが、ぼんやりと歪み始める。

 屋敷にいたときのことを思い出した。

 ほんの数日前まで暮らしていた屋敷が、そこで千代を取り囲んでいた人々が、今は懐かしく、愛おしい。あの温もりが恋しい。

 三月の夜は、まだ寒さが残っていた。上着なんてないから、ひんやりとした空気が千代の体温を少しずつ奪う。

 座り込んだ千代の膝辺りに、何かが当たった。それはちぃちぃと鳴きながら、尖ったひげのついた頬を金糸雀カナリア色のワンピースになすりつける。

 涙を拭い、千代はその来訪者の頭をそっと撫でた。指先から、小さな温かさが伝わる。その温かさが、とても愛おしかった。

「……君は、いつもそばにいるんだね」

 お屋敷を出て初めて神田に来たときもいた。頬をこするだけで何もしないけれど、何故か温かかった。あのオカルトから逃げてきたときも、いつも。どこからともなく現れて、その刺々しいのに温かい毛を擦り付ける。

「……なんで。なんで、あなたしかいないの」

 溢れ出した涙を両手で拭えど、涙は止まらなかった。喧騒に、千代の嗚咽(おえつ)が溶けてゆく。誰の耳にも、その泣き声は届かない。

 すると、千代の指先から、突然熱源が逃げ出した。千代が顔を上げると、鼠はなにかに引き寄せられるように路地の奥へと走る。一度千代の方を振り向き立ち止まったかと思うと、ちぃちぃと鳴いて、尻尾を振る。まるで、こっちに来い、とでも言っているように感じ、

「あ……ちょっと、待って!」

 路上に残された豊鳥の膨れたバッグを肩から掛ける。案の定それはずっしりと重く、小柄な千代には重さを支えるので精一杯である。

 鼠は千代が荷物を持ったことを確認したかのように走り出す。

 鼠の突然の挙動に、千代の涙は自然と止まっていた。涙の跡を拭い、奥へとっとこと進む鼠を追いかける。

 シャッターが降ろされたビルや自動販売機、居酒屋が並び、ぽつりぽつりとネオンが光る。その光を頼りに、目の前を走る鼠の跡に続く。一度でも鼠から目を離したら見失ってしまいそうだから、ひたすら目と足で鼠を追う。

 時折通りを横断しては、再び小道へ入る。突然鼠が立ち止まったかと思うと、地面の痕跡を嗅ぐようにして方向転換する。人混みに紛れる鼠を見失わないようにして足元に注意を向けるので、前方の注意が散漫になる。

「あっ、ごめんなさいっ!」

 千代の声は例のごとく喧騒に溶ける。もうすっかり涙は引っ込んでいた。

 もうどれぐらい走っただろうか。だんだんと、千代の呼吸が荒くなる。重い荷物も引っ提げての追走であるため、あまり運動を得意としない千代にとっては、これだけの距離を走るだけでも尚苦しいものであった。

 鼠は、たびたび立ち止まるからと言えど、相変わらず速い。

「はぁ、はぁ……ま、待って! は、速い……!」

 息を切らして言うも、鼠は止まらない。

 コインロッカーや駐車場、電光掲示板を通り過ぎて、路地裏に佇(たたず)んだ人影の足元を鼠が通過する。すると、その人影はそれをひょいとつまみ上げた。

 じたばたと抵抗する鼠だったが、その少女には敵わないようであった。諦めて尻尾をうなだれた。

「お、二匹目」

 千代は膝に手を当てて、息を整える。顔を上げ、鼠を捕まえたその少女を見上げる。

「あ、あの‼ その子……あ」

 人影と目が合う。鼠をつまみ上げた少女は、槻山ノエルその人だった。

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