第4話 神田とチーズと雑誌記者
どうしよう。逃げてきちゃった。
視界に入るビルの壁は、彼女を惑わせるようにそびえたっている。得体の知れない人、彼女はオカルト、と言っていたけど、千代にとっては、目に見えるもの全てが得体の知れないもの(オカルト)だった。店から数十メートル離れた路地へと辿り着くも、不安に押しつぶされるようにして、だんだんと足取りは重くなってゆく。
両親との喧嘩が、彼女の居場所を奪った。
千代にとって、父は憧れと尊敬の対象だった。大切で、敬愛していて、かけがえのない家族。誰にでも優しくて、威厳があり、何より家族思い。
それなのに、喧嘩をした。
ちぃ、と何かが足元から聞こえて、
「ひゃうっ」
千代が小さく悲鳴を上げた先には、一匹の鼠がいた。千代の小さな足と同じぐらいの大きさ。小さな頭についた大きな耳。そのすすけた灰色の身体は、千代の足元を取り巻くようにちょこまかと動き回る。ようやく動きを止めたと思うと、千代のショートブーツにぴったりとくっつく。そして、ちぃちぃ、と鳴き声を上げながら、その頬を革のブーツに擦(こす)る。噛みつく、かじりつく、といった様子はなく、むしろ人懐っこい印象であった。
「ち、チーズなんて、私は持ってないよ?」
足を動かせないまま千代は口走るが、人間の言葉など通じていないのか、鼠は変わらず頬を擦りつける。千代は先程とは違った意味で溜息をつき、ワンピースの裾が地面に着かないようにしてしゃがみこんだ。
本物の鼠なんて初めて見た。近くで見た灰色の毛並みは彼女が想像していた以上にとげとげしく、泥やら何やらで汚れていた。彼女にとって、オカルトも鼠もあまり大差のないものだった。なにせ、何でも彼女にとっては『初めて』なのだから。
無邪気に千代のブーツと戯れる鼠は、みすぼらしかったけど何故か温かく感じた。
「……あなたも、一人?」
返答の代わりに、鼠は千代を見上げてふるふると頭を横に振った。その姿に千代は寂しさを覚え、そっと鼠の小さな頭を撫でた。
なんで出てきちゃったんだろう。家からも、お姉さんのところからも。家出なんて無謀だって、よく考えればわかることなのに。
怖いのはわかってる。オカルトも、あのお姉さんも、全部一緒。怖いものは怖い。だって、何されるかわからないんだから。初めて見るものなんだから。助けてなんて言えない。
「どうしたの、お嬢さん?」
突然背後から若い男性の声がして、
「ひゃうっ‼」
悲鳴と共に、千代は反射的に立ち上がり振り返る。その挙動に驚いたのか、路地に入り込んできた青年は目を丸くし、それからぷっと笑い出した。
「あははっ! 屈んで何かしてると思ったら、ひゃうって‼ あははっ」
「な、なんですか! あの私、なにかいたしましたかっ」
慌てふためく少女に、青年は笑いかける。
「何してたって、自分が一番わかってるんじゃないの? あははっ」
突然現れて突然笑われる。これも『初めて』。なんだか恥ずかしいところを見られた気がして、千代は手をばたばたと
「えっと、私はその! いきなり人が現れて、ちょっとびっくりして、それで!」
「まあいい。鼠と遊んでたところなんて見てないから」
「あ、そうでしたか!……って、見ていたじゃないですか! どこからですか!」
「君が屈み始めたところ辺りか?」
「しっかり見ているじゃないですか!」
「あれ、君が路地に辿り着いた辺りだったかな?」
「気付かなかった私が恥ずかしいじゃないですか!」
「チーズは?」
「ごめんなさい! 持っておりません!」
いつの間にか突っ込み役に回っていたことに内心驚きつつ、千代は改めて笑い続ける青年をじっと見つめる。
とさかのようにはねた赤茶色の癖毛。くりっとした瞳。白シャツに黒のベスト、スラックス、その上から
「安心して。君が屈んでた時に通りかかったのは本当だから」
その青年は、童顔をくしゃっとしながら言った。しかし、この青年が何を考えているのか、千代には滅法分からなかったため、警戒が解けなかった。
「こういうとき、確かいかのおすしって叫べばいいんですよね?」
「叫ぶことはあってるけどいかのおすしって叫ぶのは唯のいかマニアじゃない?」
「じゃあ、たこ?」
「そういう問題じゃない‼」
「女の子に話しかける男の人は不審に思えと、従者に言われました!」
「こんな暗いところで女の子が一人屈んでたら、誰でも不審に思うからな‼」
先程の千代に負けない勢いで彼女に突っ込む青年であったが、自分がおかしなことを言ったつもりなどなかった千代は、決して青年への警戒を解かない。
「鼠のオカルトの話は聞くけど、屈みこんで大人を誘い出すオカルトなんて聞いたことないからね」
またオカルト。あのノエルという人の言っていたことは本当だったようだ。千代は少しずつ状況を飲み込む。
「オカルト、お詳しいのですか?」
「お詳しいって日本語じゃなくない? まあ、オカルトに詳しいのは職業上、ね」
「鼠のオカルトって、この子もそうなのですか?」
「さあ? 普通の鼠かもしれないけど」
思いついたままに問いかけるが、答えという答えを得られた気はしなかった。
どうやら、彼のような手練(てだ)れでも判別が難しいようである。彼が本当に手練れなのかは真偽不明だが。足元の鼠は相変わらず千代にべったりである。
「さて、それで君は鼠と遊んでただけ? オカルトのこと、初めて見たような顔してるけど」
どうやらこの青年は、千代のことを見透かしているようであった。彼の観察眼故なのか、それとも千代の表情が分かりやすいからなのか。どちらにせよ、千代の警戒はより一層強まってしまった。ポーチのショルダーベルトをぎゅっと握り直し、千代は叫ぶ。
「し、知らない人とは関わらないようにと、従者から言われています!」
「なるほど、従者がいると。君お嬢さんじゃなくてお嬢様?」
「撤回します! 口が滑りました!」
自分の口を縫い付けてしまいたいような気分だった。どう話そうとしてもボロが出てしまう。千代は両手で頭を抱えて屈み込んだ。勿論スカートが地面につかないようにしながら、そっと。腰まで伸びた白髪は、地面に触れるすれすれで垂れていた。
「道案内くらいならするぜ? 困ったお嬢様を見て見ぬふりなんて、流石に心が痛むからね」
降り注ぐ声に頭を上げ、彼の顔を見上げた。眉をハの字にして、苦笑いをしている。心配をしている、そんな顔だった。
「それは、その――」
ぐううぅぅる
千代の弁解の言葉を遮ったのは、大きな腹の虫だった。それが自分自身のものであったことに気づき、千代は、あ、と声を漏らす。青年と目が合う。青年は、あははと苦笑するばかりである。
どうやら、口を縫い付けるだけではすまないようであった。
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