第65話 昔の二人。−3

「えっ…?泣かないで…、どうした…?」

「お母さんがお父さんに殴られてる…助けて…。柊くん」

「本当…?ちょ…」

「誰か来たのか?柊」

「お父さん…」


 泣いていた私を抱きしめるお兄ちゃん、その後ろから家に帰ってきた神里さんの声が聞こえた。大人だから背が高いのが当然なのに、先のことで成人男性を見えるとすぐ怯えてしまう。神里さんは震えている私に声をかけようとしただけなのに、怖くてお兄ちゃんを抱きしめたまま神里さんから目を逸らしてしまった。


「茜ちゃん…?ど、どうした…?」

「……」


 何も言わずにそのまま黙っていた。

 成人男性の声が怖くて私の声が出てこない…。そしてお父さんが私を投げ出したせいで腕と膝にあざができてしまった。じっとして力を入れてないのに、あざができたところがズキズキしてどんどん痛くなる…。


「柊…」

「お父さん、あの…茜ちゃんのお父さんとお母さんが喧嘩してるって…」

「そうか…?まずは茜ちゃんと家に入って…、お父さんが行ってみるから」

「うん…」


 そして半袖シャツを着ている茜の腕にあざができたのを確認した彼は、すぐ茜の家に向かう。


「……」


 お兄ちゃんは私を居間に連れてきてからぎゅっと抱きしめてくれた。


「柊くん…?」


 何も言わず、私が安心する時までずっとそのまま私を抱きしめていた。こんな姿は見せたくなかったのに、身も心もボロボロになってお兄ちゃんに甘えたくなる…。私も…、私も…こんなお兄ちゃんがほしいのに…。お兄ちゃんの体、暖かくて気持ちいい…、癒される…涙が止まらない…。


「茜ちゃん…?」

「……うん」

「夕飯は…?」

「食べてない…」

「そっか…、じゃあ!一緒に食べよう!先お父さんと食べてたから…」

「うん…」


 静かに私のご飯を用意してくれたお兄ちゃんは、自分のおかずも譲ってくれた。

 そしてそばに座るお兄ちゃんは「いっぱい食べてね!」って言いながら落ち込んでいる私の頭を撫でる。目の前のその優しさに、どんどん惹かれてしまう私だった…。


「あのさ…、茜ちゃん」

「う、うん…」

「聞いてみてもいい…?」

「何を…?」

「腕にできたあざは…、もしかしてお父さんに殴られたから…?」

「うん…」


 こんなこと…、話したくなかった。

 お兄ちゃんにだけ、こんなの…話したくなかった…。あざができたところも、胸ぐらを掴まれた時の痛みも…、見えない心の傷まで、ずっと私を苦しめていてとてもつらい。幸せだった時はあっという間に消えてしまう…。そう、お母さんとお父さんももう…昔のように笑ってくれないんだよ…。


 幼い頃の私は居場所を失った気分だった。


「じゃあ…、茜ちゃんはいつも…」

「……」


 あの時、家に電話がかけられてお兄ちゃんはすぐ席を外した。


「もしもし、あ!お父さん…うん、うん…」


 神里さんと何か話しているお兄ちゃんを食卓から見つめて、静かにご飯を食べていた。今頃…、お母さんはどうなってるのかな…。心配になるけど、どんどん痛くなる腕と足は私に恐怖心を抱かせる。声を上げるのも、家の雰囲気も全部嫌だった。


「うん…、分かった。じゃあ、お父さんは後で…、うん、うん!」


 ご飯を食べていたら、電話を切ったお兄ちゃんが席に戻ってくる。


「今、警察を呼んだって…」

「えっ…?本当?」

「うん、そして茜ちゃんはうちに泊まってもいいよ。今日はうちでゆっくりして…」

「……お母さんは?」

「大丈夫だって…、茜ちゃんは心配しなくてもいい」

「よ、よかった…」

「それで、今日はお父さん帰るのが遅くなるらしい。先に寝よう」

「うん…」

「先にお風呂入って…!」

「あり、がとう…」


 私はお兄ちゃんの家でお風呂に入って、お兄ちゃんのパジャマを貸してもらった。

 私の家でもないこの場所でお兄ちゃんと一緒に…、二人きりの夜を過ごすことになった。今日はそばにお兄ちゃんがいるから安心して眠れる…と、そう思っていたのに…、この暗い部屋で私はお父さんのことを思い出してしまう。


「……っ」

「どうした?眠れない…?」

「ちょっと暗くて…、怖くなる…」

「あっ…、じゃあ…電気つけておく」

「ありがとう…」

「茜ちゃんが泣くのは悲しいからね…」

「ありがとう…。私も…」

「うん?」


 お兄ちゃんの優しさに、私は恋をしていた。

 その気持ちを伝えたかったけど、まだ小さい子供だったから私はその気持ちを上手く表現する方法を知らなかった。


「私も…、柊くんみたいなお兄ちゃんがほしい…」

「うん…?」

「柊くんみたいな…、お兄ちゃんがほしい!柊くんが私のお兄ちゃんになって…!」


 とんでもないことを口に出してしまった。


「……そっか、いいよ!お兄ちゃんって呼ばれるのは慣れてないけど、茜ちゃんがそう言うなら僕は構わない!うん!」

「本当…?お兄ちゃんって呼んでもいい…?」

「そう!僕は今日から茜ちゃんのお兄ちゃんになる!」


 距離が縮んだ。欲しいのを…、いつも聞いてくれるお兄ちゃんがとても好き。

 どうしてそんなに逞しいの…?だからずっと私のそばにいてほしい…。何があっても…、お兄ちゃんは私のお兄ちゃんだから…ずっとそばにいてくれるよね…?そうだよね…?


 ずっと…。

 ずっと…。

 ずっと…。


「茜ちゃん…?」

「……」

「もう寝てるんだ…。今日は本当に…大変だったよね…?」

「……おにい…ちゃん」


 ずっと、そばにいて欲しかったの…。

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