4 魔王降臨
いつの間にか奴の額に大粒の汗が浮かんでいた。表情もやけに苦しそうだ。
「落ち着くのだ、皆の者。魔族なら依り代であるサンダル抜きでは何もできん。まずはあやつを取り押さえるのだ」
ルンダール氏の指示に、比較的冷静さを保てていた冒険者の幾人かがサンダルに詰め寄る。
だが、それより早くサンダルが自らの胸を掻きむしり始めた。
衣服が破れ、露わになった胸元の皮膚が裂けて血が滲むのも構わず、サンダルは自傷行為を止めようとはしない。
同時に奴の身体が不規則に脈動し始め、全身からどす黒い霧のようなものが立ち昇る。まるで瘴気を身に纏う堕天使のようだ。心なしか下半身が大きくなったように感じられる。
〈──まずい。何だかよくわからないが、あれは放って置いちゃ駄目な気がする〉
俺はサンダルの変化をそう解釈した。
その正しさを裏付けるように、ルンダール氏が焦った調子で叫んだ。
「いかん。魔王化の兆候だ。やむを得ん。直ちに成敗しろ」
──魔王化? そう言えば魔族に憑依された人や魔物は魔王になるとか聞いた憶えがある。それが今、目の前で進行している出来事のようだ。
ルンダール氏の意を受け抜刀して斬りかかった冒険者達は、サンダルから生えた鞭状の尻尾に呆気なく跳ね飛ばされる。
それを見て俺は直ちに決意した。
〈こうなれば仕方がない。無理無理にでも止めよう〉
早速、魔眼で阻止しようとした矢先、ブルターノ氏の声が割り込む。そのせいで、タイミングが遅れてしまった。
「馬鹿な真似は止せ。魔王化などしたら二度と元の姿に戻れなくなるぞ」
〈えっ? そうなのか? 知らなかった〉
それで今まで行わなかったと見える。
だが、ブルターノ氏の制止に、サンダルが途切れ途切れに答える。
「もはや……我が大望#%がぁ……叶うぬぅ※*あらぁぁ……何も%&ぉぉぉ……いら&%@ぬぅぅ。人の……姿も*#%ぉぉ……命も@※ぉぉぉぉ……知性ぃぃぃ%$*もぉぉぉ……ぬぁな※@$&*」
どんどん言葉が聞き取り辛くなるのに比例して奴の周囲を取り巻く瘴気は濃くなり、肥大化を続ける下半身が異形の姿へ変貌していく。
俺は慌てて叫んだ。
「そこまでだ。
「ぐが%#ぅ@※ぇ&*あ」
〈しまった。言葉が通じなくなっている〉
返って来たのは意味不明な唸り声。魔王になった個体は大抵知能も高いという話だったが、人には当て嵌まらないのかも知れない。
人間であることを止めたサンダルにはもう本能しか残されていない感じだ。
「ごめん、セレス。間に合わなかったみたい」
そのことを隣のセレスにだけ聞こえる囁き声で、俺はそっと告げた。
「やむを得ないわね。こうなったら斃すしかない」
そうは言うものの、膨れ上がった下半身は元の大きさの数倍にもなって、全体の背丈は三階建てビルにも匹敵しようかという勢いだ。どういう理屈か知らないが、質量保存則の無視も甚だしい。
鈍色の肌には血管が紋様の如く浮かび上がり、それぞれが独立した生き物のように蠢いて見える。
何故か頭や両腕まで別に生え揃い、巨人の姿を形成している。
新たに形造られた頭部を見ると、口元にはさながら悪魔を彷彿とさせる歯と牙が並び、こめかみ辺りから生えた鋭い二本の角は天に向かって奇妙な曲線を描いていた。
その額に当たる部分にはサイズ感がそのままのサンダルの上半身がくっついているという、パワードスーツも顔負けの異質な容貌。
黒い瘴気に包まれたその見た目からは、禍々しさしか伝わってこない。
〈──こいつはまさしく魔王だ〉
急いで火炎弾を装填すると、俺は狙いを付けるのもそこそこに連続して放つ。紅蓮の炎が奴を包み込むが、ほんの一瞬そう見えただけでたちまちに瘴気によって呑み込まれてしまう。
続けてどこからか飛んで来た氷の刃らしき攻撃魔法も同様にして霧散した。
〈魔法や魔弾は通用しないのか。厄介だな〉
それどころか、さらに肉体が強化された気がする。どうやら魔力が籠った攻撃は奴にとって糧になるらしい。
それに気付いたセレスが、全員に注意を促した。
「魔力を吸収しているわ。呪文や魔法武器は通常攻撃に切り替えて。それらを持たない者は後方で待機」
その指示を聞いた何人かの
〈これならどうだ?〉
奴の顔に向けて発射する。
今度は吸収されることはなかったが、さすがに威力不足でダメージを与えることまではできなかった。
それでも煩わしくはあるようで、顔を背ける素振りを見せたことから牽制にはなるだろうと構わず撃ち続ける。
その隙にセレスとガルドが足許を刈ろうと魔王サンダルに襲いかかる。
──ギィーン。鋼鉄にでも当たって跳ね返されるような音がした。
「クッ、硬い」
セレスのミスリル合金製の愛剣でもまともに傷つけられない硬度らしい。
「あの黒い瘴気が障壁となっているようだわ。あれを何とかしないと」
セレスが当たってみた手ごたえを口にする。
しかし、どうにかすると言っても魔法攻撃は吸収され、通常攻撃も通りにくいとなると為す術がない。
手をこまねくうちに、奴は市内の中心に向け、移動を開始した。
それを見て、気が急いた冒険者数名が無謀な特攻を仕掛け、返り討ちに遭う。
一人は体内から突き出た無数の棘に全身を貫かれて近くの建物の壁に磔になっていた。
別の一人は無造作に掴み上げられた挙句、頭を齧り取られ、残った身体は路上に投げ捨てられる。
またもう一人は斬撃が跳ね返された拍子に地面に転がり、そのまま踏みつけにされて、原形を失った。
どれも無残な死に様だ。このままでは本当に一人でハンマーフェローを壊滅させかねない。
〈苦労して
手詰まり感から、思わずそんな弱音が口を衝きかける。
〈こんな時、漫画やラノベの主人公ならチート能力を発揮するんじゃないのかよ〉
だが、ここまで悉く神様から見放されてきた俺だ。きっと今回も手助けは期待できそうにない。
〈考えろ。どうすればこの局面を切り抜けられる?〉
仮に自己犠牲でもって奴を斃せる手段があれば、実行するしないは別にして希望は見出せるが残念ながら今のところ、何も思い付かない。
〈魔眼でこの場にいる全員を
──いや、ダメだ。それで斃し切れるとは限らない。逃げ場のない局面ならともかく、ここで副作用が出て皆が寝込んでしまったら間違いなく全滅する。
残る解決方法は逃げ出してしまうことだ。
別に命懸けで護らなきゃならないほど、この街にもこの世界にも愛着や借りがあるわけではない。
セレスには軽蔑されるかも知れないが、勝ち目のない戦いを避けるのも立派な戦術──だと思う。
その上でサンダルの始末は大国に任せてしまえば良い。
周辺国が顔を合わせたからといって、必ずしも戦争に発展するとは限らないのだ。
むしろ、外交努力でそうならないようにする方が──。
バカな、と俺は胸の中で吐き捨てた。
それではここまでしてきたことがすべて無駄になる。
都合の良い
〈逃げ出すのは力が及ばなかったと認める最後の瞬間だ。諦めるのはまだ早い〉
俺が必死に考えを絞り出そうとしていることを悟ったのか、セレスが傍にやって来て、こっそりと耳打ちで告げた。
「ユウキ、いざとなったら私に魔眼を掛けて。それで何とかしてみせる」
ハッとして俺はセレスを見る。そこに刺し違えてでも魔王を斃すという決意を見たからだ。
「嫌よ。そんなのは認められない。少なくとも勝機が見えない限り、魔眼は使わない」
「でも、それじゃあ、いつまでもサンダルを斃せないじゃないの。被害は拡がり続ける一方よ」
「それとセレスが一人で無理をするのとは話が違うわ。魔眼を掛けてあの魔王を斃せる確信があるなら、とっくにこの場にいる全員にそうしている」
「けど──ッ?」
俺はまだ何か反論しようとしたセレスの唇に、自分の人差し指を突き付けた。
「本当にどうしようもなくなったら逃げ出す。パーティーのリーダーとしてこれだけは絶対に譲れない。国や街なんて滅んだらまた一から造り直せばいいんだから。死んでまで護らなきゃならないものなんて世の中そうそう無いわ。でも今はまだその時じゃない。私達には打つ手を思い付かなくてもきっと誰かが考えている。それを信じてこの場は耐えるのよ」
思い付いたことをひと息で喋ってしまうと、セレスが俺を見て、感心したような釈然としないような複雑な表情を浮かべて、言った。
「……まさか、ユウキに戦う姿勢を説かれるとはね。いいわ、リーダーはあなたなんだから指示には従う。無理はせず、時間を稼げばいいのね?」
俺は頷いて、再び奴に向き直る。別にセレスに語ったことに確証があったわけではない。破滅を先送りしたに過ぎないのかも知れない。それでも最後まで足掻いてみよう、そう決意して──。
やがて、後方で何やら部下達に命じていたルンダール氏が、冒険者に向けて檄を飛ばした。
「四半刻で良い。奴を街の中心に近寄らせるな。さすれば準備が整う」
──四半刻?
何の準備かはわからなかったが、それに賭けるしかなさそうだ。
俺とセレスは互いに目配せして共通の意思を確かめ合うと、それぞれの役割を果たすべく目的の場所に散った。
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