第2話
彼女の腕にしがみつき、揺られ続けて小一時間。
しばらく森を抜けていくと、大小様々な花の咲き乱れる広い丘へと出た。
『……こんな、綺麗な場所があったなんて』
「んふふ、いいだろう? お気に入りの場所なんだよねえ、あまり人もこないから静かで良いし」
水中で生活していた頃はこんな美しい花園なんて見る機会が無かったから、目に入った瞬間に心を奪われた。
『ああ……あっ』
その瞬間だった。人間だった頃の記憶が微かに蘇る。
社会人になってすぐの頃、母と共に植物公園へと出掛けた想い出。早くに父を喪い、女手一人で僕を育ててくれた母への恩返しと思い、母が行きたいと言っていたその公園へと連れ出したのだ。
仕事は辛くとも、母と過ごしたその一日は美しく、心温まる時間だった。美しい景色を共に眺め、穏やかな空間で昼食をとり、思い出話に花を咲かせたあの記憶。
『あ、あ……ああっ』
いつの間にか、僕の目からは涙が流れていた。
涙腺なんて、いつ出来たのだろうか。
感情を表現する機会なんてしばらくなかったから、懐かしさと戸惑いと悲しさがごちゃまぜになって少しおかしくなっているかもしれない。
「おや、何か懐かしい事でもあったのかい? キミは魔物のなのに、そこらへんの人間よりも人間くさいんだねえ」
涙を流す僕の頭上から、ニニィの呆れたようなそんな声がきこえた。
「さて、ここらで話そうか」
花園の中に点々と生えていた木のひとつ。その木陰にニニィはゆったりと腰をおろした。荷物もそこに降ろされ、ずしんと僅かに地響きがした。
僕も地面に降りようと思ったのだが、ぐいと彼女に引っ張られて太腿の上に乗せられる。今はもう別の種族になったとはいえ、女性の太腿に触れさせられるのには少しどぎまぎしたが、彼女の手が背に触れたことで逆に落ち着いた。
もしかして、彼女は動物が好きなのだろうか。
『話すとはいっても、何を話すつもりなんだ? 僕は、あんまり話せることも無いんだけど……』
「そうだなぁ、たまーに君みたいな人の言葉がわかる魔物と会うんだけど、そんな機会私でもあんまりないからね。まあ、ゆったり雑談でもしようよ」
『雑談かあ。僕も、あなたには聞きたい事がいくつかあるし。じゃあお話しましょうか』
「ふふふ、ところでこのまま撫でていてもいいよね?」
『え"、あ、はい、どうぞ……』
前言撤回。
やはり、少し落ち着かないかもしれない。
「まずだけどさあ、キミはどうして人の言葉がわかるの? 今までも君みたいに人語を解する魔物と会ったことはあるって言ったけど、キミみたく人間味のある魔物っていうのは少なくってさ。それに、キミみたいなたいして強くもない魔物が人間の言葉を理解するなんてすごく珍しい事だし」
『え、あー』
いきなり、核心を突くような質問が飛んできた。
これは、言っても良いのだろうか? もともと人間でしたなんて、危険な魔物扱いされてその場で殺されたりとかしないだろうか。
いや、魔物自体危険な生き物だからあまり関係ないだろうか。そもそも僕が人間だったころの記憶なんてほぼ無いに等しい状態だし。
「おや? どうしたのかね。言いにくい内容だったかな?」
『あー、いや。少し信じて貰えない内容というか』
「構わないよ、言い給え」
彼女の緋色の瞳が僕を映す。
ガーネットのような、透き通る赤。
蠱惑的な彼女の瞳に吸い込まれるように、僕の口は自然と開いていた。
『……僕、元人間っていったら、信じますか?』
「………」
静寂が僕らを包む。
花園を撫でる風が、一人と一匹の間を通り抜けた。
『は、はは……まあ、信じませんよね。こんなの、ありえないし』
「……ぷ」
『えっ、ぷ?』
「ぷーっくっくっくっ、あーはっはっはっ! 本当かい!? そんな事が、まさか本当にあるなんて!」
『え? え?』
これは、信じてくれたと言う事で、良いのだろうか。
困惑する僕を他所に、彼女はひとしきり笑うと、涙を手の甲で拭いながら僕の瞳を見つめてきた。
「いやあ、まさかねえ。でも、キミの言うとおりなら色々と納得がいくよ。やたらと人間臭いのも、キミが人間なら当然だと言うわけだ!」
『ちょ、ちょっと、笑い事じゃなかったんですよ! 気が付いたらこんな姿になってるし、知らない世界に来てるし!』
「えっ、キミ別の世界から来たのかい!? 凄いなあ、そんな事があるなんて。この世界の事はもうほぼ知り尽くしてしまったと思ったんだけど、なるほど、まだまだ私も知らないことだらけと言うわけだ」
そう言って、彼女はまた大きな声で笑い始めた。
一応信じてくれたようだし、それで特に何かしてくるようでも無いのでひとまず安心した。
けれど、本当に笑い事では無いのだからそんなに笑わないでほしい。少し不機嫌になってしまう。
「ああゴメンゴメン。ちょっと驚いちゃって。しかしまさかそんな事が起きるなんてねえ、災難だったね。原因とか、思い当たることとか無いのかい?」
『いえ……そういうのは。僕も、人間だった記憶はあるんですけど、自分がどんな生活をしていたのかとか、どんな人間だったのかとか思い出せなくて』
「フゥン。まあ、雑に考えれば人から魔物に中身を全て移すなんて無理だから、記憶に欠損が出来てるってところかなあ? もしかして、さっきの涙もそれが原因かい?」
『ええ、まあ。この花園を見た瞬間、人間だったころの母との記憶を思い出して』
あの瞬間は衝撃だった。
美しい風景に心を揺さぶられ、まさか失っていた記憶を取り戻させられるとは思いもしていなかった。
最初はずっとあの水田で生きていくつもりだったのに、妹を含めた家族をずっと守って生きていくつもりだったのに、こうして広い世界を見て巡るのも悪くないな、なんてらしくない事まで考えさせられた。
「失われていた記憶が、美しい景色を見て復活した、ねえ。いいんじゃない、そういうの。記憶を取り戻す旅って、まるで物語みたいだ。どうだい、私と旅してみないかい? 割と私の方は結構乗り気だよ。暇だったしねえ」
『ニニィさん……』
今、そんな事を言われたら思わず頷いてしまうではないか。
予想だにせず昔の記憶を思い出してしまったこともあり、昔の人間だったころの自分に縋りたくなってしまっていると言うのに。
だけど―――
―――お兄ちゃん
『でも、やっぱり、僕には守らなきゃならない家族がいるんです。今生きているかもわからないけど、大切な、今の僕の家族が』
「そっかあ。それじゃあ仕方ないか」
ニニィさんの目が薄く閉じられる。
その表情はとても残念そうで、悪いことをしてしまったな、なんて少し後悔の念が湧いてくる。
しかし、その時だった。
ふと思いついたように、彼女はこちらを向いて悪戯っぽく笑った。
「あ、でも、キミって元々『イノリ』だよね?」
『ええ、そうですけど』
「ここ、『イノリ』の生息域からかなり離れているよ?」
『え、でも、僕、水で流されただけなのに』
「ほら、これ見てごらん」
彼女は荷物のポケットから大きな地図を引っ張り出し、地面に広げてみせた。
そして、西に位置している大陸の右端を指して彼女は言った。
「今、私達がいるのがここね」
『ええ』
「イノリの本来の生息地が、だいたいここらへんね」
『えっ?』
スッと彼女の指先が移動して、指したのはその大陸の中央部。どう考えても遠すぎる。僕一匹が頑張って移動してもいったい何ヶ月、もしかしたら年単位でかかるかもしれない。
どうして、僕は排水溝から流されてきただけだったのに。
「キミ、どうやってここまで来たの?」
『いや、僕、排水溝から流されただけで』
「排水溝かあ。まあ、ルートは考えられなくもないけど、たぶん途中までは、この『デュレシア大陸』の中央部から『
『えっ、じゃあ僕、どうやって帰れば……』
一瞬で頭が真っ白になる。
まさか排水溝に流されて、気を失っている間にこんな大移動するなんて事があるものか。
放心状態になっていた僕に、彼女は再び問いかける。
「いちおうもう一度聞くけどさ。私と一緒に、旅してみないかい? 目的地はキミの故郷で」
『ハイ、ヨロシクオネガイシマス』
僕に、断る権利なんて残されていなかったのだ。
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