第10話


 テントの中で眠っているはずの、ここには居てほしくない三人の登場にぎょっと目を見開き立ち止まる。

 駆け寄ってくる様子をただ呆然と見つめる。

 驚いた拍子にキースリングを落とさなかったことを褒めてほしい。

「フィロメラ!」

 目に涙を浮かべたアンドロメダと感情を読み取るのが難しい顔のヨシュアが私に抱き着こうとして背中にいるキースリングに気が付き止める。

「フィロメラの背中に居るのは……キースリング?」

「気絶してるの?」

「うん」

「フィロメラ、そいつ重いだろ。オレが背負う」

「ありがとう、ディラン。それより、なんで三人はここに……?」

「なんでここに、じゃないわよっ」

 薄青の瞳を潤ませ、ぷくーっと頬を膨らまし、アンドロメダは人差し指を私に向ける。

 ヨシュアが「人に指を向けちゃダメだよ」と言っても今の彼女には聞こえていない。

「起きたらあんたが居なかったときの私の気持ち解る!? 待っても待っても帰って来る気配がないから心配で捜しに来たの! で、捜してたらヨシュアとディランと会って」

「俺は嫌な予感がしたからディランを起こして探索。それでフィロメラを捜していたアンドロメダと会って、三人でフィロメラ捜し」

「叩き起こされて無理やり連れ出された。ねみぃ」

 アンドロメダに関しては私が悪い。すぐ戻るつもりで、彼女に何も言わずテントを出て行ったのだから。

 問題は二人だ。二人というよりヨシュア。

「キースリングが気絶した原因は判る?」

「オノケリスって言う、悪魔に襲われたの」

「悪魔!? 悪魔ってあの悪魔よね!?」

「うん。アンドロメダと私の認識があっていればその悪魔だと思う」

「オノケリスってラバの足で女の姿をした魔神だったよな? ソロモンが連れて来たっていう」

「そう、だけど……ディラン知ってるの?」

「まァな。暇つぶしに読んだ本に書いてあった」

 暇つぶしに読んだ本って……それ絶対悪魔に関する本でしょ。普通の本にそこまで有名じゃない、マイナーな悪魔オノケリスが出てくるわけないもの。

 ……こいつ、学園の禁書の書庫に忍び込んで読んだな?

「フィロメラ……怪我は?」

「大丈夫。私はしてないから」

 へらりと笑って言うとヨシュアが安堵の息を吐いて笑った。

 すんっと鼻を鳴らしたディランが眉根を寄せる。

「……くせぇ。硫黄の臭いがする」

「硫黄?」

 くんっと匂いを嗅げば、温泉街で嗅いだことのある臭いがした。

 どうして硫黄の臭いが。と思った直後、ガサッと草を踏む音と獣の唸り声。バッと音がした方を見れば四匹の真っ黒な犬。

「は? ンで犬が居んだよ。昼間は見かけなかったぞ」

「黒い犬ってことは、墓守犬チャーチグリムかしら?」

「鎖を引きずってないからバーゲストじゃないのは確かだけど」

 前世まえの中途半端な知識、それから今世いまの授業で習ったことを思い出す。

 バーゲストは鎖を引きずった有角赤目の黒い犬の姿をしていて、真夜中や霧の濃い夜に現れると云われてる。現れる前触れに遠吠えや鎖の軋む音や引きずる音が聞こえるとのことで、ヨシュアの言う通りバーゲストではない。

 アンドロメダの言ったチャーチグリムは教会や墓地を冒涜する存在から守る動物霊だ。基本的にチャーチグリムは燃えるような赤い眼をした黒い犬。

 ブラックドックとも呼ばれるけど、墓守犬チャーチグリムは何もしなければ害はなく、黒妖犬ブラックドッグやヘルハウンドの側面が強いと害がある。

 ブラックドッグのイメージはシェイクスピアの作品のひとつ『マクベス』の作中に出てくる、魔女の女王である地獄の女神ヘカテーの猟犬達がモデルとされてるらしい。

 ヘカテーは古代ギリシア神話の新月の女神であり再生と死を死を司る女神で、その眷属には犬や狼が多く死の先触れや死刑の執行者としての側面を持ってるとされる。月のない夜は真っ暗だからということで毛並みは真っ黒。古来から月は怪しいとか不吉だとか云われてるからだろう。

 黒妖犬ブラックドッグではなさそうだし、チャーチグリムなら特に問題は。

「フィロメラ?」

 ──くせぇ。硫黄の臭いがする。

 ディランが言っていたことを思い出す。

 硫黄の臭い。その臭いがすることは私も確認した。

「ど、どうしたのよフィロメラ。あんた、真っ青よ?」

「……ちがうの」

「フィロメラ?」

「違うって、何が?」

「チャーチグリムは、硫黄の臭いがしないの」

 私の言葉にディランとヨシュアがハッ! とヘルハウンドを見る。「まさか」と呟いた声には焦燥感が滲んでいて。

「あれは、……ヘルハウンド」

 そう言った瞬間、正体を当てられたヘルハウンド達が地面を蹴り、こちらに駆けて来る。「クソがっ」と悪態を吐き、詠唱する。

「ガナン ゲニウス ヒソップ」

 魔力を集中させた指輪が淡く紫色の光を放ち、空中に古代呪文語が浮かぶ。ぐんっと魔力が持っていかれる感覚に唇を噛む。

 構築された円型の障壁。それに一匹のヘルハウンドがぶつかり、バチン! と大きな音が響く。きゃんっ! と短い悲鳴があがり、ずるずると地面に落ちていった。

「走って!!」

 ヨシュアがアンドロメダの手を引いて走り出し、まだ気絶してるキースリングを背負い直したディランもその後に続く。

 必然的に殿を務めることになった私はヘルハウンド達の足止めをしながら必死に足を動かす。

 念話テレパシーが届く距離であることを祈りながらグランに呼びかける。

『グラン、グラン! グラン聞こえる?』

『フィロメラ? 何かあったのか?』

『ヘルハウンドの群れが現れて襲われてる! 障壁を張ったから今は大丈夫だけどいつまで持つか分からなくて、』

 私の言葉にグランは珍しく舌打ちをこぼした。

『少し待っていてくれ。ウェパルとマルコシアスと交戦している』

『……え? ウェパルとマルコシアス? な、なんで?』

 予想外なことだらけに頭がこんがらがってきて思考停止になりかける。

『すぐそちらに向かう』

『来てくれるのは嬉しいし助かるけど、ウェパルとマルコシアスを殺しちゃダメだからね!?』

『……。承知した』

 何とも不安になる返答をもらい、走ることに集中するために念話を切る。

 ──貴女が契約している悪魔は72柱よりも強いということをお忘れなきよう。

 私にそう言ったのは、学院長だった。学院長の言葉通りならば、グランと交戦しているウェパルとマルコシアスは危ないのだろう。

 だけれど、彼らの身を案じてる暇はない。今は兎に角、逃げなければならない。

「川だわ!」

「越えて! そうすれば逃げ切れる!」

 アンドロメダの手を引いて走っていたヨシュアが川を越えようとすれば──行く手を遮るように川から何かが出てくる。

 川から出てきたのは水棲馬ウォーターホース。おそらく、ケルピーだ。

 人肉を好んで食べる凶暴な妖精で、何故か肝臓だけは食べない。

 ケルピーが現れたせいで川を越えることはできなくなった。それなりの距離を稼げていたはずなのに、ケルピーの登場のせいでヘルハウンド達に追いつかれ、ひくひくと顔が引き攣るのが分かった。

「は? このタイミングでケルピーが現れるってなに? 空気読んでほしいキレそう。絶対ウェパルの仕業でしょ、あいつ水属性だもん」

「なに? お前キレんの? すげぇ見たいんだけど。嫌がらせされてもキレないお前がキレるとかレアすぎ」

「なぁんであんたそんな呑気なのよ! 今の状況分かってるのかしら!?」

 前にはケルピー、後ろを見ればヘルハウンド。絶望的な状況。ほんとにキレそう。詠唱し、障壁を張る。

 突っかかってくるアンドロメダにディランは口角を上げた。

 まるで獲物を見つけた、飢えた肉食動物のような獰猛な笑みにゾッと鳥肌が立って、おぞましいものを見た、と思った。

「ヘルハウンドに追いかけられて、川を越えようと思ったらケルピーに邪魔をされた。前も後ろも囲まれて逃げ道がなし。ははっ! 最悪サイコウじゃねぇか」

「こいつ絶対頭がおかしいわッ!!」

 それに関してはちょっと同意。この状況で笑っていられるのは少し羨ましいし肝が据わりすぎてる。

 ヘルハウンドは 障壁を警戒してるのか襲っては来ない。ただ、唸り声をあげてる。視線を外さず、自分のするべきことを考える。

 障壁と足止めに魔力を使ったが、指輪のおかげでまだ余裕はある。だけど、グランが来るまでこのまま障壁を維持できるかと言えば厳しい。夜明けまでなんて以ての外。獲物を前にしたヘルハウンドが大人しくしてるはずもない。

 ケルピーの心配はしなくていい。アレは水の中に入らない限りは襲って来ない。そういう制約がある。ただ、水の中に入ってしまったら襲って来る。ヘルハウンドに追い立てられ、水の中に引きずり込まれてしまえば終わる。

「……どうするの?」

 不安が滲み出てる声でそう問うアンドロメダの手をヨシュアが安心させるようにぎゅっと握る。それを見ながら、最善は何だろう、と頭を働かせる。

 四人でヘルハウンドの相手をする。と、考えたがそれも難しい。

 留年をした先輩ディランがいるとはいえ、私は優秀ではないし器用でもないので、障壁を張りながら攻撃系統の魔術を使うことはできない。アンドロメダが得意な魔術は炎だけれど、森の中で炎を使うわけにはいかない。

 おまけに、ヘルハウンドは四匹いる。これがまだ一匹か二匹だけなら何とかなっただろう。連携して、撃退できたはずだ。四匹、四匹なのだ。実戦経験もないヒヨっ子魔術師にできることは少ない。

「……アンドロメダ、ヨシュア、私の手を、握ってくれる?」

 ふたりは不思議そうな顔をして、だけど何も言わず私の手を握ってくれた。

 この状況を打開できる方法はある。おそらく、それが唯一の方法だと言ってもいい。

 どくん、どくん。と、鼓動が速くなる。じっとりと脂汗が滲む。

「……ごめんね」

 私をソロモンとして見ないで。

 私を怖がらないで。

 私を嫌いにならないで。

 ──わたしを、ひとりにしないで。

「ふたりのことは、みんなのことは、私が絶対守るから」

 にこり。と笑って手を離す。フィロメラと呼ぶ声に返事は返さず、ヘルハウンドを見据えた。

 右手の手袋を取り、指輪に魔力を集中させる。息を吸って、吐いて、魔力を声に乗せる。

 時間が惜しいので詠唱は簡略的に。魔力はかなり使うことになるが、四の五の言ってはいられない。時間との勝負だ。

「我が名において命ずる

 汝 我が喚び声に応えよ

 ──おいで エリゴス クロセル」

 足元に薄紫色の魔法陣が現れ、体に刻まれた印章が服の上でも分かるほど強く光る。

 そして眩しい光が辺りを包み込み、その光が収まる頃には居なかったはずの男女が目の前にいた。

 長めの銀髪に蜂蜜色の瞳、背中に天使の羽のような真っ黒な翼が生えた男性。彼は序列49番目の悪魔、クロセル。

 深緑色の髪に黄緑色の瞳をした女性は序列15番目の悪魔、エリゴス。60の軍団を率いる悪魔。

 相変わらず目のやり場に困る(ドSの女王様が着ていそうな感じの)服を着てるなぁ、と苦笑してるとぱちり。黄緑色がにんまりと細まる。

「久しぶりね、ご主人様」

 艶やかな唇が弧を描いて、するりと長い腕が背中に回される。ツゥゥ……とゆっくり背中に彼女の指が這って変な声が漏れそうだった。

「ちょっ、エリゴス……! 苦しいっ」

「久しぶりに喚ばれたと思ったのに、喚ばれたのがアタシだけじゃないのが気に食わないのよ。言わせないで」

 拗ねた声で可愛いことを言ってるが、締め付ける力は尋常ではない。骨の軋む音が聞こえ、ふわふわの胸に顔が押し付けられて呼吸が苦しい。

 離すよう命令しようとした直後、エリゴスの腕から解放された。ふらついた体がヨシュアに支えられる。

「大丈夫? フィロメラ」

「ゲホッ。ありがとう、ヨシュア。おかげで転ばずに済んだ」

 ヨシュアにお礼を言ってると、じぃっと視線を感じる。視線の先を見れば、クロセルが無言で私を見つめてた。

 どうやら彼がエリゴスを引っ張ってくれたようだ。エリゴスの射殺せんばかりの眼差しは何処吹く風。

「クロセルもありがとう」

「……」

「ちっ! それでご主人様、ご命令は?」

「クロセルはヘルハウンドを、エリゴスはケルピーを。やり方は二人に任せる」

「ふぅん、対価は?」

「ティーカップ半分までの私の血」

「足りないわ。せめてティーカップ一杯分の血にしてもらわなきゃ」

「……今よりも面倒なことをお願いしたときはティーカップ半分だったのに?」

「嫌なら帰るだけよ」

 ツン。とそっぽを向くエリゴスの姿に逡巡する。

 エリゴスとクロセルを召喚したからかヘルハウンドとケルピーが怯えてる。だけど、状況は何も変わっていない。早めに対処してもらわないといけない。エリゴスの代わりの悪魔を召喚する魔力も時間ももったいないので、諦めてその対価でいいと頷く。

 エリゴスは爛々と瞳を輝かせ、自分の唇をぺろりと舌で舐めた。

「あのムカつく奴が来る前にとっとと終わらせてご主人様の血を堪能しないと」

 加虐的な笑みを浮かべた彼女に後悔した。彼女は人の痛がる姿が好きという困った性癖の持ち主なので、これから自分に襲いかかる痛みを想像してため息が漏れる。

 エリゴスは楽しそうに嗤ってケルピーへと歩み寄り、クロセルは無表情のままヘルハウンド達に近づく。

「フィロメラ、どういうことなの? あんた悪魔と契約してたの……!?」

 アンドロメダが詰め寄って来て、予想通りの反応をする彼女にへらりと笑う。

「ごめん、詳しいことは全部終わったらきちんと話すから」

 震えた自分の声に笑いそうになった。

 巻き込みたくないって黙っていたのに。知らないことで救われることだってあるのに。

「分かった。全部終わったら話して。約束よ? 破ったら分かってるわよね?」

 慈愛を感じさせるような微笑みに泣きそうになる。

 だいすき。

 泣きそうになるのをぐっと堪えて頷いた。

「うん、ありがとう、アンドロメダ。ヨシュア達もそれでいい、かな?」

「いいよ。フィロメラは約束を破ったことがないからね。ただ……血をあげて大丈夫?」

「ティーカップ一杯分だし、変なことには使われないから大丈夫。それに、まだマシな対価だよ」

「血をあげるのが、まだマシ?」

 引いた表情を浮かべる友達に笑う。

 魂、顔、声、両手足、臓器。その人間にとって大切なモノを彼らは要求する。

 あとは……そうだな、貞操、とか。

 対価にそういうことを求められたことはある。そのときはグランの威圧で回避されたが、隙あらば、といった感じだ。

 求めてくるのはアスモデウスやシトリーなどの色欲系統。他にも数名要求されたことはあるが、あれはただ単にグランをおちょくりたいだけ。

 三人の反応からして悪魔を喚び出すことも契約することもなさそうだが釘を刺しておこう。

 あのね、と前置きして話す。

「悪魔との契約はもちろん、喚び出すこともおすすめしないよ。私との契約が特殊なだけで、基本的に対価は魂だけだから」

「特殊?」

「すっごく複雑で面倒な事情があるの。これも私が分かる範囲で話すから」

 私自身も解っていないので、わかりやすく説明することはできないだろうし、どこまで話すべきなのか。全部終わったらグランと相談しよう。

 ……学院長にも話したことを共有するべきだろう。出来ればあの胡散臭い人と話したくないのだが仕方ない。

「……なあ」

「ディラン、黙って。視線と意識を外してる意味がなくなる」

「そうだよディラン。言いたいことは分かるから黙って」

「黙ってなさい。言ったらぶん殴るわよ」

「分かった。言うわ。エリゴスって奴、ケルピーのこと完全に痛めつけて楽しんでるよな」

「言ったら殴るって言ったわよね!?」

 さっきから聞こえるケルピーの苦痛に喘ぐ声とエリゴスの楽しそうな声を必死で無視していたのに。

 やり方二人に任せてしまった手前、口出しはできない。それにあんな楽しそうエリゴスを止めたらあとで何をされるのか分からない。

 拷問まがいを受けてるケルピーには悪いが、私達の邪魔をしなければエリゴスに拷問まがいを受けることはなかったのだから、自業自得ということで御容赦願う。

 耳を塞ぎたい気持ちでいると、ひんやりとした冷気が肌を撫でた。

 視線と意識をそちらに向ければ、ヘルハウンド達が氷漬けにされてる。クロセルの体から冷気が吹き上がっていて足元には薄氷が。

「クロセル」

 等身大の人形みたいな雰囲気を醸し出してる彼を手招きすれば、てちてち寄って来る。その姿はまるで幼い子どものようで和んでしまう。

「……」

「クロセル、ありがとう。対価はエリゴスと同じ?」

 首を横に振られる。

 今まで彼に血を求められたことはない。それでも気分的に血が欲しい、ということもあるので念の為に。

 何がいいの? と聞こうとした直後、クロセルに抱きしめられた。クロセルの体はエリゴスの体と違って固くて冷たい。

「……」

「ア、腕回せばいいの?」

 翼に触れないように気を付けて手を回すと、心なしかクロセルの雰囲気が柔らかくなる。花がぽっぽっと咲いた幻覚。

「なんで何も言ってないのに分かるのよ」「使い魔ファミリアだからじゃないかな」なんて声が後ろから聞こえ、ただ声が物凄く小さいだけでぼそぼそ言ってるのになぁと苦笑を漏らす。

 そして、数分後。気が済んだのか離れていく。

「もういいの?」

「……」

「うん、分かった。クロセル、本当にありがとう」

 とろりと蜂蜜色の瞳があまく細められ、目の下を指先でそっと撫でられる。小さな声で「また喚んでほしい」と言い、彼は名残惜しそうに魔界へと帰る。

 ふにゃり。と、柔らかなものが背中に押し付けられる。

「終わったわよ、ご主人様。ムカつく奴が来る前に早く対価をちょうだい?」

 寄りかかってきたエリゴスに苦笑する。おねだりの仕方が可愛いのにどこか艶めかしさを感じる。

「ちょっとだけ待ってね。いま腕切るから」

「そんなの時間の無駄じゃない、こっちのほうが手っ取り早いわ」

 首筋を舐められた、と思ったら、がぶり。痛みに顔が歪む。

「フィロメラ!」と私を呼ぶアンドロメダの声が聞こえ、エリゴスが彼女を認識する前に話しかける。

「っ……エリゴス、ティーカップ一杯分だからね。それ以上は怒るよ」

「んっ……言われたくても分かってるわ」

 本当に分かってるのかと、実は悪魔じゃなくて吸血鬼なのでは、と思うほど血を啜り続ける。

 血がなくなっていく感覚に唇を噛んで堪えていれば、やっとティーカップ一杯分になったようで最後に首筋をちろりと舐めて離れていった。

「美味しかったわ、ご主人様。次にアタシを喚んだ時、アタシ以外の奴も喚んだら今よりもっと酷い対価にしてやるから。そのつもりでアタシを喚ぶことね」

 わぁ……喚びたくない。

 その気持ちが顔に出ていたのか「喚ばなかったら処女を奪うわ」と脅してくる始末。

 契約してるとはいえ悪魔と軽率に約束するわけにはいかないので苦笑しておく。エリゴスはつまらなさそうに形のいい唇をとんがらせて帰った。

 もう大丈夫だろう。と、魔力不足になる前に障壁を解除する。

 傷口には触れないように気を付け、自分の血で汚れた体操着に触る。手のひらが濡れる感触に眉を下げて、くるりとアンドロメダ達に向き直る。

「ねぇどうしよ……この血、落ちるかな……?」

「そこ?! そこなの!? そこじゃないでしょ絶対!」

「や、だって血が落ちないとか困る。死活問題だよ。入学して1ヶ月しか経ってないのに買い替えるとかお金がもったいない」

「血を落とす魔術があるからあとでやってやる。それより移動しねぇ? 変なのが血の匂いに釣られてまた襲って来るかもだしさ」

「その前にフィロメラの傷の止血をしよう。まだ血が溢れてるから」

 ヨシュアが怪我したわけじゃないのに、痛そうな顔をしてる。

 謝ろうと口を開いて、閉じた。悪いと思ってないのに謝るのは、ダメなことでいけないことだから。

 重苦しい雰囲気の中でヨシュアに手当てされてると体を動かす音と呻き声が聞こえた。

「……ここ、は……どこだ……?」

「あ、起きた」

「……は? な、なんでぼくはガルシアに背負われてるんだっ!?」

「うるせぇなコイツ、落としていいか?」

「やめたげて」

「うっさいわね! あんたが気絶したからでしょ!」

「気絶? ……そうだ、ぼくは、襲われて……」

 キースリングの顔色が悪くなり、体がぶるぶるとマナモードのように震えてる。襲われたときのことを思い出してしまったんだろう。

 死の恐怖はなかなか味わうことはない。特に、悪魔に襲われる、なんてことは滅多にない。その滅多にないことを彼は経験した。しばらくの間、首を絞められる夢を見るだろう。

 同情はしない。いい気味とも、ざまぁとも思わない。ただ、今回のことがきっかけで、嫌がらせをやめてくれないかなと思うだけで。

「襲われた君を助けたのはフィロメラだ。君は見捨てられてもおかしくないことをフィロメラしたのに彼女は助けた。キースリング、君はフィロメラに感謝するべきだ」

「ブランシェットが、ぼくを……?」

 冷徹な色が帯びた朱色の瞳に、冬の夜のような寒さを感じさせる声。

 いつも穏やかで物腰柔らかなヨシュアからは想像もできない声に、目を見開いたアンドロメダが息を呑むのが分かる。

 彼女はヨシュアのこんな姿を見るのは初めてだったか。私は何度かこんな姿を見たことがあった。

 見たことが、ある、けれど。

 喉がひくついて厭な汗が流れ、背筋が自然と真っ直ぐ伸びる。

「……いいよ、お礼なんか別に。必要ない」

「フィロメラ」

「いいの、ヨシュア。彼を助けたのは、私のせいにされても困るから。それだけだよ」

 正義感が強いわけじゃない。目の前で死なれても気分が悪いから。自分のせいにされても困るから。困るから、助けた。それだけ。お礼を言われても、反応に困る。

 何か言いたそうに私を見るヨシュアにへらりと微笑む。数秒。彼は仕方なさそうに眉を下げて笑った。

「君がそれで良いのならこれ以上は何も言わないよ」

「ヨシュアのそういうところ好きだよ」

 じゃ、移動しようか。と言おうとした直後──

「フィロメラ!」

 私の名前を呼んだ声は耳に馴染んだもの。デジャブだなぁ、と現実逃避。傷の手当てはヨシュアがしてくれたので、気付かれる前に早く血が落ちる魔術をかけてほしい。

 これから起こるであろう大惨事に、深いため息を吐き出した。

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