第9話
「──実ることのない恋をしているのね」
腐りかけの果実のようなきつい臭いを振り撒き、ねっとりと耳にこびりつく声音で、ソレは理解に苦しむことを口にした。
「あらぁ、その反応からして……気付いていなかったみたいね? ンフ。ごめんなさい」
頭の天辺から足の爪先までゆっくりと、それこそ舐め回すような視線が絡みつく。わざとらしく視線を動かしているのは何か意味があるのか。
「魔界で噂になっていたの。
噂か、と口篭る。その噂を流したであろう悪魔は数体ほど思い浮かぶ。俺に対する嫌がらせか、彼女を
考えた所で意味は無い。と、思考を中断させる。
「話はそれで終わりか」
「せっかちな男は嫌われるわよ?」
「お前の声は耳障りだ」
片眉をあげるソレにジッ。と目を向ける。
宝石みたいで奇麗だと無邪気に彼女は言うが、悪魔にとってこの目は忌々しく不吉であることを知らないからこその発言だ。
現に俺の目を直視したソレは体を震わせ、その震えを抑えるように両腕を抱いた。
「……有り得ない。ソロモンに封印されたあなたがどうしてっ。こんな、こんなこと、有ってはならない!」
声を張り上げるソレを眺める。
「何を、
静かに息を吐き、人差し指を向けた。
ソレは自分がこの後どうなるのか悟ったのだろう。一瞬だけ瞳に恐怖の色を宿し、けれど矜恃からかすぐさまその色は消え失せた。俺を睨みつけ、微笑を浮かべる。
「お可哀想な人。よりにもよってソロモンに恋をするなんて。あなたは
「囀るな」
左から右へ指をスッと滑らせる。
悲鳴をあげる間もなく、ヒトと獣の姿をしたソレの首が落ち、地面へと転がり、首の無くなった死骸は血を噴き出す。
崩れ落ちることなく、一歩、二歩、と首の無い死骸がこちらに歩み寄って来る。
ぽたり、ぽたり。噴き出す血が地面に滴り落ちた。その血によって草が枯れ、花が腐り落ちていく。
息を吐き、手を伸ばすソレに
「手間をかけさせる」
ぐっと握り締める。ぐちゃりと音を立て、死骸は潰れ、血飛沫が舞い、血も灰も残らず肉塊と化したものが首諸共消える。
付着した液体を指先で拭う。赤く染まった指先を見て、細く息を吐いた。
……血で汚れたこの姿を見ても、彼女は無防備な笑みを浮かべ「風邪引いちゃうよ」と、白い手が汚れるというのに何の躊躇いもなく触れてくるのだろう。
「……フィロメラ」
──どうしたの、グラン。
脳裏に思い浮かぶ彼女はとろりと顔を蕩けさせ、蜜を溶かしたような声で俺の名前を呼ぶ。
ソロモンの生まれ変わり。神に祝福された者。■■の■■。フィロメラ・ブランシェット。
パチン、と指を鳴らす。付着した血が奇麗に落とされ、地面を汚した血液も蒸発する。アレの血によって枯れた草や腐りかけの花に視線を移し、ぽつりと呟く。
「……更地にするな、とは言われたが、枯れて腐っただけならば問題は無いだろう」
──実ることのない恋をしているのね。
唐突にアレに言われたことを思い出す。馬鹿なことを、と笑う。おぞましい言葉の羅列だ、とも。
人間が悪魔に恋をすることはあっても、悪魔が人間に恋をしない。そんなもの、戯れでしかない。
俺と彼女のどこを見たら『恋をしている』という発想に至るのか、理解できない。
彼女のことは大事に思っている。彼女以外の人間は死ぬべきだ、とも。けれどそれは、恋ではない。俺が彼女に向ける感情は、……、この感情は。
「……フィロメラ、」
何も知らない、何も覚えていない彼女を唆し、主従の契約を交わした。その時の記憶は曖昧だろう。当然だ、記憶を曇らせたのだから。対価も覚えていない。
自分が何と引き換えに俺と契約したのか。
契約終了後、自分がどうなるのか。
彼女は知らない。知ろうとしない。俺がそうさせた。
フィロメラ。
「俺は、あなたを」
あなたをどうしたいのだろう。
あなたとどうなりたいのだろう。
俺は、あなたに。
「……チッ」
肌に纒わり付くような気配に舌打ちをする。彼女の元に戻ろうとした矢先にこれだ。
目を起こした先に割れた景色。亀裂から獣と潮の臭いが流れ込む。
「アレを差し向けたのはお前達か」
裂けた空間から姿を現したのは二体の悪魔。ソロモンと契約を交わした72柱の二柱。
「差し向けた訳ではない。アレに好ましい男が此処に来るぞ、と云っただけだ」
「同じことだろう」
「……我が王は。我が王はいらっしゃらないの? お姿が見えない……」
彼女の姿を捜す
「見て判れ。ここには居ない」
「なら、どこにいらっしゃるの? おまえが隠したの?」
「隠してはいない。お前達が殺そうとした人間を連れて安全な場所に行くよう言っただけだ」
何故俺が隠した、という発想になるのかが解らない。
「おまえはあの方を一人にしたというの?!」
金切り声を上げる
誰のせいで彼女から離れなければいけない事態になったと思っているのだろうか。
「ここに残して、アレの死に様を見せろと?」
「っ、そ、それは……」
言葉を詰まらせる
「何故我らの邪魔をした。貴様が邪魔をしなければアレがあの小僧を殺し、ソロモンの憂いを晴らすことが出来た」
「アレが彼女を籠絡しようとしたからだが?」
「……アレが好むのは男のはずだ」
「祝福された者が惹き付けやすく、好かれやすい体質なことを忘れたのか。耄碌したようだな」
鼻で笑えば
「遠ざけることもできたでしょう」
「彼女はそういう気配に敏感だ。遠ざけた所で『自分のせいにされるのは嫌だ』と言って気配の元に行く。俺は彼女の願いを無下にあしらう気はない」
お前達と違う。と言われていることに気付いたのだろう。
「我らが何時ソロモンの願いを無下にあしらった!」
魔力の込められた怒号に木々が揺れ、何本も折れていく。
森林破壊。と前に彼女が口にした言葉が頭によぎった。
「……どうして。どうして、どうして我が王はおまえと契約を交わしたのかしら。おまえじゃなくて、72柱の誰かだったらまだ納得できたのに。我が王はどうして、よりにもよっておまえなんかと」
胸の前で祈りの形を取り、仄暗い眼が俺を映す。お前が憎い。と陰の強い表情が訴える。憎悪のこもった声が吐き捨てた。
応えてやる義理はない。沈黙で返す。
救われる方法を見つけた。という風な顔で、透明な声がつぶやく。
「おまえを殺したら、我が王はわたくしを見てくださるかしら」
その言葉に、はっ、と笑い声が口から溢れる。怪訝そうな眼差しを向ける人魚と獣に、彼女には向けない笑みを浮かべてみせた。
「ソロモンが何故俺を封印したのか、お前達は忘れてしまったようだな」
空気が震え、大地が悲鳴を上げる。溢れ出た魔力によって川が干上がった。
「俺を殺す、か。ああ、そうだな、殺せるものなら殺してみるといい」
笑みを絶やすことはしない。圧を感じさせる笑みは彼から教わった。余程今の笑みが似てるのか、
「俺を殺して、彼女の寵愛を独占したいのだろう?」
別に寵愛されているわけではないが、72柱を煽るにはそう言った方が効き目がある。
案の定、寵愛という言葉に魔力に当てられ震えていた
──怪我だけはしないで。
不安と心配が滲んだ声。自分を置いて行くことはないと知っていながらも、俺がこの森を更地にしないか、本来の姿に戻らないか、その心配を表に出そうとしない姿が何ともいじらしい。
それがあなたの望みなら、俺をその望みを叶えるだけ。
「時間が惜しい。殺るなら来い」
フィロメラ。
俺はあなたに。……。俺は、あなたに。
──何をしてやれるだろうか。
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