第8話


 月明かりに照らされてるとはいえ、夜の帳が降りた森は不気味で恐ろしく、草が揺れる音やフクロウの鳴き声にさえ体がビクリと跳ねる。

 ビビり散らす私を不憫に思ったグランが手を繋いでくれたおかげで、今はそんなに怖くない。……ホラー映画にある当然地中からゾンビが出て来ることがなければ、がつくが。

 そんなことを思ってると、夜の匂いがする静かな声に「フィロメラ」と名前を呼ばれる。

「眠らなくていいのか」

「だって眠くないんだもん。それに……」

 意味もなく視線をすっと動かすと、それにつられるように私の周りをぷかぷかと漂っていた妖精達が同じように視線を動かした。

 視線の先には何もない。どうして何もない場所に視線を向けたのか、とわちゃわちゃ訊いてくる妖精達に苦笑。

「この子達が遊んで遊んでってうる……賑やかだから」

「あなたが望むのなら追い払うが」

「いいよ。どうせすぐ飽きるだろうから、それまでの辛抱だもの」

 空いてる片手を上げるとわらわら妖精達が寄ってきて、片手にすりすり寄ってくる。その姿はとても愛らしく、胸がきゅんと疼く。

 夜の森をグランと散歩してるのは眠れなくて暇だからというのもあるが、妖精達に遊んで攻撃を受けたのも理由のひとつだ。

 アンドロメダが寝ていたからよかったものの、もし彼女が起きて妖精を認識したら「妖精が人間を遊びに誘うってどういうことなのよ!?」と言うことは想像できる。

 人間に干渉することがあまりない妖精達が人間わたしを遊びに誘ったのは、私が神に祝福された者だから。

 妖精にとって神は創造主、大雑把に言ってしまえば親だ。その親に祝福された者を彼らは愛さずにはいられない。

「フィロメラ?」

「あっ、ううん、なんでもない。先生達に散歩してるのがバレないかなぁーってちょっと不安になっただけ」

 原則的に夜の森を歩くのは禁止されてて、見つかった場合は罰則をくらう。だから先生達やエヴァンズ先生の使い魔ファミリアに見つからないかヒヤヒヤする。

 気配を消す魔術はかけてあるけれども、魔術師としてヒヨっ子な私がかけた魔術なんか簡単に見抜かれるに決まってる。

「気配は今のところ感じない。感じたらすぐに対処しよう」

「対処してくれるのはありがとうなんだけど手荒なことだけはしないでね……!」

「承知した」

 ほっと息をつく。

 本当は散歩なんかせずにテントの近くで遊べばよかったのだが、賑やかさでアンドロメダが起きる可能性もあるからしょうがない。友達に忘却の術は使いたくない。

 突然、グランが立ち止まる。

「どうしたの?」

 冷たい手が頬を撫でて、耳を触ったと思ったら、指先が目を隠している前髪を払った。

 内緒話でもするように、鼻先が触れてしまいそうな距離。彫刻のように美しい顔に息を呑む。

「俺としてはこうしてあなたと触れ合って、あなたの顔を見ながら会話出来るのだから、妖精には感謝している」

 とろりと、愛しさがぎゅうっと詰め込められた深紅の瞳。逸らすこともできず見つめる。「ただ」と彼は続ける。

「あなたと二人きりではないのは残念ではあるが」

 柔らかな笑み、砂糖菓子よりもあまい声。

「お、おぉ……」

 動揺して一歩後ずさる私をグランは不思議そうに見つめる。

 いつものことながら、心臓に悪い。悪いというか、せめてその恋人に向けるようなあまい声をどうにかしてほしい。

 本人にそれを言っても「何故?」って不思議そうに言われるだけだなのは解ってるので言わない。言わないが、言わないけど、乙女心ってやつを理解してほしい。

 なんだなんだと顔を覗き込んでくる妖精達に、

「遊ぶのはもうおしまいだよ」

 と、平静を装った声で言う。動揺を悟られたくない。不満そうにしていたが、グランの冷たい目に散って行った。

 深く息を吐く。手に力を入れれば、赤い眼が私を映す。

「……ごめん、ね。私が学院に入学したせいで、窮屈な思いをさせてるよね」

「それはあなたのせいではないだろう。あなたが謝ることなど何もない」

 慰めの言葉に曖昧に笑った。美しい顏が歪む。それでも彼の美しさが損なわれることはない。

 あの頃の私は悪魔と妖精と動物に囲まれながら、人間と関わることがなく、ひっそりと暮らしていくものだと信じていた。

 そうであればいいのに、と思っていた。

 そうあって欲しかった。

 フィロメラ。私を呼ぶ声はいつだって優しい。優しくて、息が苦しい。その優しさで追い詰めてることなど彼はきっと知らない。

「俺はあなたが俺のそばにいるだけで良い、そばに居てくれるだけで良いんだ」

「グラン……」

「あなたがそばに居てくれるのであれば、俺は」

 言葉が切れる。名前を呼ぶために開いた口は感じた気配によって閉ざした。

 気配の方向に視線をやり、自分の声だとは思えない真剣な声音が彼の名前を呼ぶ。

「グラン」

「ああ、居るな」

 感じた気配は──悪魔のものだ。どうして悪魔が。思わず眉間に皺が寄ってしまう。グランが『どうする?』と視線を寄越す。

 逡巡。悪魔の目的は何か、接触するべきか否か、気付かなかったフリをした方が良いのか。

 深いため息を吐いた。ぎゅうっと手を握る。

「……行きたくないけど、その悪魔がやらかして後々私のせいにされても困るから、様子を見に行こうと思う。着いて来てくれる?」

 そう言ったあとに、茶番だな、と冷静な部分が笑う。そう思う。ほんとうに。

 グランの返答なんて解ってる。解ってるのに、解ってるくせに、不安だから訊いてしまう私のことを彼はどう思ってるのだろう。

 繋いだ手に冷たい唇が触れる。吃驚してグランを見つめれば、恍惚してますって顔。

「それをあなたが望むのなら」

 ……だから、恋人にでも向けるような顔と声はやめてってば。

「……ありがとう、グラン」

「ああ。抱えて行った方が早い、抱き上げるぞ」

 上擦った自分の声に羞恥心を感じ、唇を噛み締める。ふわっと浮かぶ感覚に彼の首に手を回す。

 重さを感じさせない動作で悪魔の気配がする方向──森の奥へと向かって行った。


   ◇◇◇


 悪魔の気配が濃い森の奥。着いたそこではくすんだ赤い髪の女が楽しそうに誰かの首を絞めていた。その誰かは学院の体操着を着ていて、生徒が襲われてる状況に血の気が引いていく。

 私を下ろしたグランは容赦なく女の横っ面に蹴りを叩き込んだ。その衝撃で女が吹き飛び、ドボン。と川に落ちる。

「……キースリング……?」

 安否確認のために駆け寄れば、襲われていた生徒はキースリングだった。首を絞められていたせいか酷く顔色が悪く、ぐったりとしてる。首には手形がくっきりと浮かんでいて。生きているのかどうかも判らず、厭な汗が背中に流れ落ちる。

 私の目線に合うようにしゃがんだグランがキースリングに触れ、私の目を見る。

「大丈夫だ、心臓は動いている」

「っはぁぁ……よかった……」

 キースリングが死んでいた場合を考えるとゾッとする。

「川に落とすなんて酷いじゃない」

 耳にまとわりつくような声がして、視線を声の相手に向ける。

 上半身は美しい色白の女、下半身はラバの足。ソロモンが求めたことで、契約の指輪に連れてこられた悪魔──オノケリス。

 濡れた髪を掻き上げる彼女の姿は、同性である私も見惚れてしまうほど艶めかしい。思わず、ぽうっと見つめてると、グランが彼女から隠すように前に立った。

 その様子を見て、くすりと彼女が笑った。

「初めまして、とでも言うべきなのかしら。ねぇ、愛しい召喚者殿ソロモン?」

「……オノケリス」

「あら、前の記憶は無いと聞いていたのだけれど、わたしのことは知っているのね。それともその男に教えてもらったの? まァ、どちらでも構わないわ」

「……普段は洞窟に居るはずのお前が、どうしてこんな所に居るの」

「ンフ。わたしだって洞窟の外に出ることくらいあるのよ?」

「お前の目的はなに」

「目的? アハッ、そんなものないわ。わたしが男を絞め殺す行為を好んでいるのは知っているでしょう? その坊やは好みの顔をしていたから、絞め殺したらどんな表情カオをしてくれるのか気になったの」

 その言葉に、弾かれたようにキースリングの衣服を確認する。

 多少乱れてはいるがおかしな所は何もない。貞操は無事なようで安堵の息を漏らす。気分によってそういうことをされるので、彼女の口ぶりからてっきり毒牙にかかったのかと思ったが杞憂だったようだ。

 ふふ。と、妖艶な笑い声。ねっとりした眼差しに頭の中で警戒音が鳴らされる。

わたし、女に興味は無いのだけれど、お前がどんな表情カオをするのか気になるわね。それに、

祝福された者の証その目を自分だけのモノにするのって、とっても唆られるわ」

「バッ……、冗談でもそんなこと言わないでくれる!?」

「あらァ、冗談じゃないわよ? お前の苦しんでいる表情カオは生まれ変わ、」

 言葉が不自然に切れる。おそらく、生まれ変わる前から見たかったのよ、とオノケリスは言おうとしたのだ。でも、言うことはできなかった。

 空気が、凍ったから。

 魔力が肌に突き刺さる。

「フィロメラ、その人間を連れて安全な場所に」

「……グラン」

「あなたを巻き込まずにアレを殺せるほど、今の俺は冷静ではない」

 普段と変わらない声音でそう言うグランの顔は見えない。見えないが、見えなくても判る。グランは、怒ってる。怒ってるって言葉じゃ足りないくらい、オノケリスに対して殺意を抱いてる。

「……わかった。でも、のはダメだよ。この辺を更地にするのもダメ」

「……承知した」

 よいしょっ、と、背丈があまり変わらないキースリングを背負った。普通に重たくて吃驚。

 オノケリスは余裕そうな笑みを浮かべていて、視線に気付いた彼女は妖艶に微笑んであざとく小首を傾げた。

「なァに、ソロモン」

 吐息のような声音。男を魅了して、蕩けさせる魔性。

 深紅の瞳が早くここから離れるよう促してくる。

「怪我だけはしないで」

 そう言って早足で先生達の元へと向かう。オノケリスが私を追いかけて来ることはなかった。

 ……大丈夫、かな。

 グランの心配は特にしていない。魔神が相手だからちょっとだけ怪我はするかもだけど、グランは絶対死なないから。私を置いていくことは絶対ないから。

 心配なのは、不安なのは、グランが怒りのあまりこの森を更地にしないか。そして──姿に戻らないかどうか。

 前者の場合はあの辺が元通りになるまでかなり時間がかかり、後者の場合は元通りになることはまず無理だと考えるべき。最悪、誰も立ち入ることはできない禁足地となってしまう。

 そんなことになったら、グランの立場はさらに危うくなる。

 ただでさえグランは神に祝福された者わたしと個人的な契約を交わしてるせいで魔術協会や悪魔達から良く思われていないのに。

 問題を起こせば、彼らは私とグランを引き離し、また彼を封印するだろう。

 それを彼が受け容れるわけがなく、人がたくさん死ぬことになる。

 下手をすれば……戦争が起きてしまう。

 それは、ダメだ。絶対にあってはいけない。だけど、私には何も出来なくて、ただオノケリスがグランを煽るようなことをしないことを、グランが私のお願いを守ってくれることを祈ることだけ。

「フィロメラ!」

 焦ったような、聞き覚えのある呼びかけにパッと顔を上げ、視線の先にいる三人の姿に口が半開きになる。

 な、なんで……?

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