愛よかなたへ、愛よかなたに

紫鳥コウ

愛よかなたへ、愛よかなたに

 魔法の鏡のように彼女のあの問いに答えることは、ふたりの関係の調和と安寧のために淳也に義務付けられたものであった。ときには返答にアレンジを彩ることによって、きわめて観念的なあの言葉が無味乾燥で嚥下できない致死的な毒へと退化しないようにきわめて注意をはらうこともある。


 恋人という、ある限定的な感情による連帯を後から名づけてくくったものは、似通った性質をそなえた一対の組として成り立つこともあれば、対抗しあう成分が衝突することで生じる化学反応の結果を意味することもある。しかし、両者は、同一化することができない他者であることに間違いはなく、それゆえ、断絶しやすいわりに修復しにくくもあり、無理やり縫い合わせてしまえば膿になり、抗生物質にたよらざるをえなくなることもある。


 こうした関係を、半永久的に持続させようとする企ては、利害の一致、アドベンチャー、欲望を欲望する、そういった言葉で片づけるには短絡的で、分析すればするほど悲しくなるこの依存性は、夏になれば風鈴を吊るし、冬になれば雪だるまを作るというような、生活をするうえで最低限に必要なものではない、余剰のようなものに似ていて、なくてもいいけれどなければならないというような、裏返せば、それがあるからこそ生きようと思える、ひねくれたものなのだ。


 だからこそ、ふたりは白雪姫をロマンスではなく訓話として転化させて、「わたしのこと好きだよね」「うん、もちろん」というやりとりを、ふとしたときに、もしくはなにか不安なときに、ところかまわずしてしまうのだ。


 しかし彼女と付き合いはじめて一年半が経ち、淳也は、あのおそるべき謀反をくわだてかねない自身への怖れにとらわれた。すなわち、「わたしのこと、好きなんですよね」という彼女以外からの問いに、肯定的な反応を示してしまったのだ。淳也はこの整合性のとれない感情をどう調停すればよいのかと葛藤しはじめた。


 白雪姫の方が美しいと宣告した魔法の鏡の叛乱は、どうも機械的な処理には思えず、なぜなら、美しさの基準が変更したということは、鏡が主観的な判断をくだす自律した主体であることを意味するからだ。


 おそらく主観的な判断をくだす性質をもつあらゆる実存はすべて、整合性のとれない感情を抱く宿命をもっており、それを調和しようという努力はかなわない。淳也はまるで関節のようにふるまい、彼女ともうひとりの彼女が接着しないように、距離感の調節をしなければならなかった。ようするに、ふたつの数直線の間で揺れ動く折れ線グラフのような存在と化してしまった。


   ――――――


「ねえ、わたしのこと、好き?」

「……」

「ねえ」

「うん、そうだよ」


 日中には全容を想像することしかできない夜というものが、実際に目の前に広がっている。八月の公園のブランコは、ふたりの体重をささえるには申し分のないたくましさがあり、なるほどこの屈強さがあるからこそ、冬の寒さをこらえることができるし、桜のはなびらがひらひらと舞い落ちてそっと不時着するあの閉塞的な酩酊の季節でさえ、力を加えられればそれに応じたふるまいをするという役割を忠実に果たすことができるのだろう。


「夏の大三角……」


 彼女は星々のルネサンスに沈湎している。星座を気にするというのは、つまり、そういうことなのだろう。淳也は彼女を少し強く抱きしめた。もちろんそのぶんだけブランコは揺れた。


「もしいま、流れ星に願い事をするとしたら……」

「うん」

「この関係がどこまでも続きますように、だと、舌がまわらないから……」

「愛よかなたへ、愛よかなたに」

「信心深いのね」

「優香よりは、ずっと」

「なんで泣いているの」

「泣かなければならない理由があるものだから」


 優香は、淳也に預けられるだけの重みを預けて、両足で地面をけった。ブランコは忠実に反応し、鎖を寒々しくならした。蝉が一瞬だけ、ほんの一瞬だけ鳴いた。その音は鼓膜にはねかえされたが、その意味だけは奥深くへとにじんでいった。


「蝉の生きているうちに、願いごとを三回唱えるとしたら、じっくり考えることができるかしら」

「もしかしたら、そうかもしれないね。その願いが、正しいかどうかは、さておき」

「正しいとか、正しくないとか、もう、そうしたことにこだわっていられるほど、わたしは長くないの」

「……」

「短くもないの」

「うん」


 整合性のとれないものに苦しめられるのだとしたら、対立しあう、競合しあう、反発しあう要素の片方を、まったくの無に帰してしまうほかはない。しかし、まったくの無は、有の以前にしか存在しないのだ。


「愛よかなたへ……か」

「うん、愛よかなたに」

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愛よかなたへ、愛よかなたに 紫鳥コウ @Smilitary

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