少年Aの遺書

籾ヶ谷榴萩

少年Aの遺書

 どうかこれを見つけてしまったお父さん、お母さん。はじめにこれだけは信じてください。きっとおれは信用のならない、それでいて心配ばかりかけてしまう息子だったと思うけれど、これは本心です。


 おれの死に、あなたたちは全く関係ありません。気に病む必要も、自分を責める必要もありません。もちろん、姉さんのことも責める必要はありません。

 どうにも、昔書いた詩で母さんのことを傷つけてしまったことが尾を引いているみたいで、自分が書いた文章で大切な人を傷つけるのではないかと思うと怖くて仕方がないのです。きっと息子の遺書なんて読んだら、二人とも傷つくだろうけれど、この文章に二人のことを悪く言うつもりは一切ないことは、最初に誓わせてください。


 小さい頃は、むしろ死にたいなんて一度も思ったことはありませんでした。むしろ、生きたいとさえ思っていました。治療を頑張っていればいつか、ものすごく健康とまではいかないだろうけれど、人並みに大人になれるだろうという希望はあったのです。父さんも母さんも、おれが体調を崩すたびに心配してくれてありがとう。迷惑をかけてごめんなさい。二人は迷惑だなんて思ってない、って言ってくれるだろうけれど少しずつ成長するにつれてどうしてもそれを言わせているようで申し訳なくなってきていました。この間、癇癪を起こして暴れたのもそれが原因です。勝手に気に病んで、勝手に自己憐憫して、勝手に思い込んで二人に迷惑をかけました。ごめんなさい。許してほしいというつもりはありませんが、これで迷惑を被ったと心のどこかで本当は思っていたのであれば、謝っても謝っても償いきれないと思っています。


 ところで罪って償うことができるものなのでしょうか。


 ごめんなさい。ここからは意地が悪いような話をします。

 大人しくて聞き分けのいい息子のおれを信じていたいのであれば、どうかここから下は読まないでほしいとさえ思っています。

 これは、自分がどうにか苦しみから逃げたくて書いた文章です。もう一度言わせてください。あなたたちは何も悪くないのです。




 罪を償うなんていうのは、結局自己満足でしかないのだと思うのです。罪を犯して、本当にその分の補填はできるのでしょうか。謝罪、慰謝料、懲役、いろいろと償う方法は示されているし、世の中にはまっとうに生きていくことが償いなんて言説もあります。けれど、一度傷ついた人の心はそうそう治るものでもないし、被害から復帰して元の生活に戻るなんて、よっぽど運が良くないとできないことだとは思いませんか。

 そもそも、許すってなんでしょうか。

 人間から罪を消すことはできないんです。罪を背負って苦しんで、罰を受けて苦しんで、罪悪感に苛まされて苦しんで、生きていくしかないんです。そもそも、許すなんて言われたところで、そうそう罪悪感は消えるものでしょうか。少なくとも、おれはそんなよくできた人間ではありません。そして、世の中はそんな0と100でできているわけではありません。

 それに、罪悪感って気持ちいいとさえ、おれはときたまに思ってしまうのです。……さっき、勝手に自己憐憫をしたと書きましたが、おれはきっと罪悪感を感じることで、己を癒しているのとさえ思います。だから、おれが罪悪感を感じていることに、あなたたちは傷つかないでください。それか、罪悪感を抱えて生きていった方が楽なのであれば、おれはそれになにをいうつもりはありません。


 こんなことをつらつらと書き連ねましたが、結局のところ自分だって許されたいという気持ちも持っているのです。あなたは何も悪くないと言われて、楽になりたいと思ってしまうこともあります。人間の感情は、一瞬一瞬矛盾を重ねていくものです。


 おれはきっと矛盾しすぎたのでしょうか。

 苦しんでいたいという自分と、楽になりたいと言う自分。見たものを美しいと思う自分と、汚いと思う自分。美味しいと感じながら、まずいと感じて、これがいいと思いながらどこか不満を抱えている自分。

 そんな小さな自己矛盾が、ぽこぽこと湧き上がってはなかなかに消えてくれないんです。すると、どんどん自分が分からなくなってくる。わからなくなってくるから、せめて大事な人には好かれていたいと穏やかに笑顔で振る舞う。大切な人に愛されるのはとても心が楽になります。けれど、そうやってあなた方を裏切り続けている自分にも嫌気がさします。こうやってまた矛盾は増えていきます。自分の感情がもうわからないのです。感情に自問自答を繰り返し、繰り返せば繰り返すほど、耳をすませばすますほど、自分が本当はどうしたいのか、何を思っているのか、なにもわからなくなって、自己を定義するものはなくなるのです。

 おれにはどうしようもなく、それが苦しかった。自分が思い込もうとしている自分と、本当の自分と、そもそもそ本当なんてない自分。わからないのです、どう生きていけばいいのか。

 のうのうと生きていればよかったのかもしれません。けれど、産まれてきてしまった以上なにかしら満足したいという欲は捨てきれませんでした。禁欲や理性的であることが美しいことだと思う感情だってありますが、人間は欲があるから美しいのだとも思います。そもそもこういうことを美しいかどうか、なんて基準で語ろうとするのもどうかと思うし、かと言ってその視点を全て踏みつけてしまうのも違うと思っています。ほら、もう自分はこの感情をどうしたらいいのかわからなくなっています。


 立派な大人になりたいとまでは思いませんでした。自分はひどく無能で、ひどく自己顕示欲が強く、変わっていることにアイデンティティを置きながらも、それを否定したく普通に生きたいとも思っています。人に好かれるような人間でもなければ、人に貢献できる能力もなく、むしろ体のことでもこの精神構造のことでも人に迷惑をかけると知っていながら、それでも人に必要とされたいと願ってしまうような、浅はかで欲深い人間です。

 自分のそんなところが嫌いで嫌いでならないのです。いなくなりたいと思っては、いなくならないでと言われたいのです。ああ、ほら気持ち悪い。


 自分はもう、自問自答を繰り返すのも、自己矛盾を孕んだまま生きていくのも辛くなってしまっただけなのです。これに耐えられるほど自分は強くないとわかっていながら、やめられないひどく頭の悪い人間です。


 もう疲れたのです。けれど、生きている以上自分はこの思考回路を手放せないでしょう。呼吸をするたび何かを憂いてはそれをすりつぶして、そうやってどんどんと何もなくなっていくのが辛くて仕方がないのです。辛いと思ってしまうことすら、自分にはもったいないかもしれません。


 どうか、気にやまないでください。おれはこんなくだらない理由で苦しんで、くだらないことを憂いて死んで行きますが、どうかあなた方は笑って天寿を全うしてほしいと思っています。

 どうか、幸せに生きてください。こっちにきたとき、あの時死んでもったいなかったぞと言ってくれるような、そんな人生を送ってください。


 こんな息子でごめんなさい。二人がおれの両親で、おれは幸せ者でした。






 深夜2時、毎日のようにこんなことをパソコンに打ち込んでは翌朝に消すのが日課になっている。今日は楽になれるだろうか、今日こそ死ぬことはできるだろうか。

 布団に潜り、天井につながる輪に首を通す。本当は確実に死ねるように体を浮かすべきなのかもしれないが、できることなら少しずつ意識を飛ばして苦しまずに死にたかった。自死なんて選ぼうとしながら、苦しみたくないなんて、なんて傲慢なことを思っているのだろうと、自分でもどうしようもないと思っている。


 死は救いでしょうか、それとも呪いでしょうか。

 そんなことに答えを出したところでなにもならないとわかっていながら、考えることはやめられない。自分なりの答えを出した時の快感と言ったらないですから。答えを見つけた時の快感も、ええそれは素晴らしいものだ。答えほど、人間が信じるに値して、すがって心地の良いものはない。

 けれど、自分は同じ回答を信じられるほど、しっかりとした意思も、自分の頭に対する自信もない。


 今日も自分は自殺未遂を繰り返す。朝、目が覚めた時にまた死ねなかった絶望感を抱えながら、縄を見つけられないように片付けをして、深夜に書き連ねた遺書を消す。毎日のようにこんなことを繰り返して、もしかしたら結局失敗するあたり自分は生きたいと思っているのかと思い直す。じゃあ死にたいなんて思ってしまう自分は自己憐憫が過ぎる気味の悪いかまってちゃんじゃないか。ああ、気持ち悪い、こんな自分嫌いだ。死んでしまいたい。


 遺書を消すとものすごくすっきりとした。書いた時の苦しい気持ちすらどこかに一瞬消えてしまうような気がした。一生懸命書き連ねた己を一瞬で消すのは、なんだか自殺に似ているとさえ思う。


 おれは今日もこうやって、何事もなかったかのように過ごして、深夜に遺書を認めるのであろう。

 

 自分の感情を記したものを破壊することで、擬似的に感じる死ではなく、本当に自分が死ぬその日まで。

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少年Aの遺書 籾ヶ谷榴萩 @ruhagi_momi

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