第16話 マリアの丘の料理店(3)

「お待たせしました! 子羊の角切りステーキです!」


「ありがとう。美味しそうね」


 注文した料理をミリアムが席に運んでくると、メリッサは感激したように笑顔を見せ、小皿に注がれた調味料にその肉を浸してから口に入れる。肉を焼いた料理自体は当然どこの国にもあるものだが、焼き方や味つけには地域や民族ごとの創意工夫があり、同じ羊肉でも母国のリオルディアで食べるのとはやはり食感が違う。


「うん。美味しいわ。最高!」


「良かった! ありがとうございます」


 客が帰った隣の席の後片づけをしていたミリアムに、メリッサは明るく声をかけて絶賛の感想を伝える。自分たちの国を持たない根無し草で、リオルディアでも卑しいよそ者として差別されているヨナシュ人についてはメリッサもこれまであまり良い印象はなかったが、少なくとも食文化に関しては間違いなく敬意を払うべき人々だと認識を改めずにはいられなかった。


「あの女は……」


 客の一人が大きな声で義妹に話しかけたのに反応してメリッサの方を見たラシードは、赤いスカーフの陰から覗く彼女の色白の顔と栗色の髪を見てすぐに勘づいた。あの顔はどこかで見たような気がする。黙々と食事をしているように装いながらしばし考えていたラシードは、やがて記憶の中からその答を引っ張り出すことに成功する。


「どうしました? 隊長」


「あの女の人が、何か……?」


 先ほどから横目でちらちらと何度もメリッサを見ているラシードに気づいて、カリームとハミーダが不思議そうに訊ねる。


「アレクジェリア系の人かしら。可愛らしいスカーフですね」


「何が気になります? 隊長、ひょっとして惚れたんじゃないでしょうね」


 冷やかすように小声で言うカリームだったが、ラシードは笑いもせずに持っていたフォークを皿に置くと椅子から立ち上がった。メリッサの方も彼の視線に反応して、こちらをじっと見つめながら食事を中断して席を立つ。


「いや、冗談を言ってる場合じゃないぞ。あの女、どうやら前に戦場で会ったリオルディア軍の大将だ」


「ええっ!?」


 驚く二人を席に残して、ラシードは大股でメリッサの方へ向かって歩き出した。メリッサも同時に食べかけの肉料理が乗った食卓の前を離れ、二人は引かれ合うようにして互いに歩み寄る。


「また会おうぜって言ってくれたものね。嬉しいわ」


 ハル・マリアの店の中央に立ちながら、対峙する二人。メリッサは片目を瞑って愛想笑いを見せたが、ラシードはそれを跳ねのけるように険しい表情で彼女をじっと睨む。


「まさかこんな場所でその約束を果たせるとは思ってなかったがな。ディ・リーヴィオ伯爵と言ったか。何のためにこの街に忍び込んだ?」


 爵位を持つほどの将が自ら敵地に潜入というのは珍しい話だが、目的が自分たちアラジニア軍への敵対行動のためだというのは改めて訊くまでもないことである。ラシードはメリッサの手を掴み、彼女を捕らえて店の外へ連れて行こうとした。


「ちょっと、待ってよ。やめて。落ち着いて対話しましょう。あなたと話したいことが……」


「ああ。城でたっぷり尋問させてもらうさ。来い」


「だから待ってってば。ねえ、離してよ。レオ様って、こんな乱暴な人でしたっけ?」


「またその名前か。誰と勘違いしてるのか知らんが……」


 静かだった店内を騒がせていた二人の声は、突如として外から響いてきた大きな音にかき消された。この時、ハル・マリアの近くの路地で爆発が起こり、続けて悲鳴が上がったのである。


「何だ……!?」


 窓の外に、音の聞こえてきた方向から吹き流れてきた黒煙が見える。何か大変な事態が起こったのをすぐに悟ったラシードはメリッサの手を放し、様子を見ようと店の外へと飛び出した。


「どうやら現れたようね。この街にも……」


 兄と客との間で一体何が起きてしまうのかと固唾を呑んでもみ合いを見守っていたミリアムは、店の玄関から出て行くラシードの背中を見送ったメリッサが、まるで何かを知っているかのように小さくそう呟いたのを耳にした。




「ま、魔物だあっ!」


「化け物だ!」


「神よ、どうかお助け下さい!」


 ヨナシュ人たちが営む露店や食事処が多く並んでいる昼下がりの十七番通りは恐怖と混乱に包まれていた。淀んだ橙色の鎧に身を包み、口から長い二本の牙を覗かせた猪の魔人・スースゼノクが突如として現れ、道行く人を襲い始めたからである。


「生きる価値もない虫けらどもめ。唯一絶対の神ジュシエルに代わって皆殺しにしてやる!」


 人々が悲鳴を上げて逃げ惑う中、体当たりで茶店の屋台を引っ繰り返したスースゼノクは両手を大きく広げると、左右の掌から彼の装甲と同じ橙色に輝く光弾を発射した。魔力によって生成された超高温の火球は街路の両脇に建っていた商店の外壁に命中し、爆発を起こして穴を開ける。


「また魔人か……!」


 店の中から飛び出してきたラシードとメリッサ、カリームとハミーダ、そしてシメオンとミリアムの六人は、炎と黒煙が立ち込める街路をこちらに向かって歩いてくる恐るべき怪人の姿を目にして驚愕する。アイン・ハレドで遭遇したあの三体の魔人とこれが恐らく同種の存在だということは、ラシードたちにはすぐに察せられた。


「きゃぁっ!」


 混乱に巻き込まれたヨナシュ人の少女が、恐怖のあまり逃げる途中で足をもつれさせて路上に転んでしまう。それを見たスースゼノクは冷酷なわらい声を上げて少女に近づき、鋭い爪の生えた足で彼女を踏み潰そうとした。


「危ない!」


「あっ、兄さん!」


 シメオンが止めようとするのも聞かず、ラシードは少女を助けるため咄嗟に走り出すと、腰に佩いていた曲刀を抜いて猛然とスースゼノクに斬りかかった。助走の勢いを乗せた強烈な横薙ぎの一撃が、女の子を襲おうとしていたスースゼノクの脇腹に叩き込まれる。


「くっ……!」


「莫迦め。そんなボロ刀で、この鉄よりも硬い鎧が斬れると思ったか」


 アイン・ハレドでライアゼノクを斬ろうとした時と、結果は同じであった。マムルークの勇士であるラシードの渾身の斬撃を受けても、スースゼノクの頑丈な皮膚には傷一つつかない。脇腹に刃を受けたまま、少女を踏みつけようとしていた右足をゆっくりと下ろしたスースゼノクはラシードの方をぎろりと睨むと、首を大きく振るって口から生えた長い牙を彼の左胸にぐさりと突き刺した。


「がぁっ……!」


「レオ様!」


 致命的な一撃を受けてしまったラシードを、思わずメリッサはレオ様と呼んで叫び声を上げた。湾曲したスースゼノクの太い牙はラシードの胸骨を貫き、深く刺さって心臓にまで達したのだ。苦しげに呻いたラシードは胸から血を流し、口からも吐血して握っていた曲刀を手から落とす。


「た、隊長!」


「サウロお兄ちゃん!」


「に……逃げろ……」


 カリームとミリアムも悲痛な声で叫ぶ中、ラシードは地面に倒れている少女の方へ振り向き、声を絞り出して必死に避難を呼びかけた。咄嗟にハミーダが駆け寄り、少女を素早く助け起こしてスースゼノクの傍から離れさせる。


「貴様、マムルークか。異教徒の子供など庇って愚かな真似を……」


 ヨナシュ人の少女を命懸けで守ろうとしたラシードの行為を軽蔑するようにそう言うと、スースゼノクは彼の胸に突き刺していた牙を抜き、再び首を動かして凄まじい威力の頭突きを浴びせた。大きく弾き飛ばされて人形のように宙を舞い、ハル・マリアの入口の扉に激突したラシードは分厚い木戸を突き破って店内の床に墜落する。


「しまった……!」


 止めに入る暇もないまま目の前で展開されたよもやの惨劇に、メリッサが歯噛みする。あれではもはやラシードの命はないだろう。あのレオナルドと思しき彼とまさかの再会が果たせた途端、ほとんど話もできない内に彼を無惨に殺されてしまったのだ。メリッサは愕然とし、それから怒りでわなわなと身を震わせた。


「許さないわ」


 感情の高まりと共に、地面を踏み締めていたメリッサの右足が小さく跳ね上がって足元に舞う砂塵を蹴りつける。勝ち誇るスースゼノクを怒りの目で真っ直ぐに見据えた彼女は、頭に巻いていた赤いスカーフを片手でむしり取るようにして脱ぎ捨てるとスースゼノクの方へ向かってゆっくりと歩き出した。


「あっ……」


 スカーフに隠れていた栗色の長い髪が解放され、路地を吹き抜ける乾いた風になびいて輝く。メリッサの素顔を初めてはっきりと見たミリアムは、その凛とした美しさに思わず感嘆の声を上げた。そんなミリアムの方を一瞥して嬉しそうに微笑したメリッサの体から、眩しい赤色の光が煙のように湧き上がる。


「なっ……!?」


 カリームやハミーダらが呆気に取られ、スースゼノクも異変を察して警戒の目を向ける中、歩きながらメリッサが体から発する魔力は次第に勢いを増し、炎のように激しく燃え上がる。常識を超えた現象を周囲に見せつけるかのように胸を張ったメリッサはスースゼノクを鋭く睨みつけ、そして叫んだ。


「――変身ゼノキオン!」


 勇ましい掛け声と共に、光はメリッサが着ていたアバヤの上に吸い着くようにして物質化し、彼女の全身を隙間なく覆う真紅の装甲を生成した。一瞬の内に、メリッサは豹のような仮面をつけた赤い獣人の戦士――レオパルドスゼノクへと変貌したのである。


「豹の魔人……!」


 エスティムの城壁を乗り越えて街に侵入した、豹のような怪物とは彼女のことであった。皆が驚いて息を呑む中、変身を終えたレオパルドスゼノクは加速をつけて駆け出し、予期せぬ敵の出現にたじろぐスースゼノクに敢然と立ち向かっていった。

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