第15話 マリアの丘の料理店(2)
「なかなか素敵なお店じゃない。気に入ったわ」
扉を開けてハル・マリアの店内に入ってきたメリッサは、店の中を一望して満足げにそう言うと、額の汗を手で拭って嬉しそうに微笑した。
「いらっしゃいませ! お好きなお席にどうぞ!」
来客に気づいたミリアムが元気な声で迎えると、メリッサは小さく会釈して窓側の席に座る。
「今日は暑いですね。お水をどうぞ」
「ありがとう。共通語が話せるなんて凄いわね」
赤いスカーフから覗くメリッサの異国人風の外見を見て取ったミリアムが気を利かせて共通語で話しかけてきたので、メリッサは驚いたようにこのヨナシュ人の少女を見つめて言った。
「うちのお店は巡礼や交易で来た人とか、異国からのお客さんも多いですから。お姉さんも旅の方ですか?」
「まあね。リオルディアから巡礼に来たんだけど、国に帰る前に戦が始まっちゃって……」
潜入に際してあらかじめ用意していた嘘の説明を、メリッサはごく自然な口調で話す。同じような事情で帰るに帰れなくなり、神聖ロギエル軍に包囲されたこの街に閉じ込められてしまったアレクジェリア人の同胞は少なくないはずだ。
「それは大変でしたね。この戦、早く終わってくれるといいんですけど……」
まだ年少ながら、なかなか会話が上手で接客のできる店員だ。陶磁の器に注がれた冷たい水を飲んで喉の渇きを癒したメリッサは、強い興味を引かれてミリアムに話しかけた。
「ねえ、あなた何歳? もうこのお店でお仕事してるの?」
「はい。えっと、私は十四歳なんですけど、ここはお父さんが開いたお店で、お父さん、半年前に流行り病で死んじゃったから、今は兄と二人で跡を継いで頑張ってるんです」
こうした自分語りは、客と仲良くなるきっかけとしては悪くない。一瞬、悪いことを訊いてしまったと気まずそうな顔をしたメリッサだったが、父親を亡くした悲しさなどは微塵も見せず、ミリアムは自分がここで働くようになった経緯を明るい笑顔で説明した。
「そうなんだ。偉いわね」
「ありがとうございます。でもこのお仕事は好きで、やってると結構楽しいんですよ」
白い歯を見せながらはにかむミリアムを見て、可愛い子だな、とメリッサは思い、微笑ましいと同時に複雑な心境にもなった。
(この子も異教徒、か……)
この聖戦に出陣してからというもの、邪悪な異教徒を討ち滅ぼすべし、という科白を何度となく聞かされ、また自分でもそう連呼してきたメリッサだが、異教徒と言ってもこうして見れば普通の人間で、子供ならやはり愛嬌もあるし、その人なりに築いてきた人格もあれば努力しながら歩んでいる人生もある。短所や欠点だって当然あるだろうが、それは自分たちロギエル教徒も同じことで、邪悪などと断罪して生きる資格まで全否定されるようなものではないだろう。
それでも、真の神であるロギエルを信じようとしない以上は、やはり悪と見なして斬らねばならないのだろうか。こうした敵国の
アイン・ジャミーラでは意図的に進軍を遅らせて村人たちに逃げる時間を与え、殺戮の機会を小ずるく回避したメリッサだが、あのようなふざけた茶番がいつまでも通用するはずもない。このエスティムの攻略が成った暁には、神聖ロギエル軍は街にいる異教徒たちを片端から撫で斬りにし、神に代わって彼らに死の天罰を下す手筈なのだ。唯一絶対の神の命令に従ってミリアムのような非武装の民も殺めることができるかどうか、遠からず彼女は己の信仰にはっきりと答を出さなければならないのである。
「私、ヨナシュ料理は初めてなの。お勧めはどれかしら」
食卓の上に立てかけられた薄い木の板に、この店の品書きが筆でいくつも書き並べられている。ヨナシュ語の横にアラジニア語でも料理名が書かれているが、どちらもメリッサはほとんど読めないので、ここはこの可愛らしい店員に説明を聞きながら注文を選ぶことにした。
「ええっとですね。まず何と言っても焼きたてのパンは店長をやってる兄の自信作です。バターや蜂蜜を塗って食べると美味しいんですよ。それから焼いた牛や羊のお肉、塩をたっぷり
「なるほど。迷うわね。どれにしようかな」
ミリアムの解説を聞きながらメリッサが楽しそうに考えていると、厨房の奥からシメオンの大きな声が聞こえてきた。ラシードたちが注文していた料理ができたので、運んでくれとのことである。
「あっ、はーい! すみません。後でご注文お伺いしますね。ごゆっくりお選び下さいませ!」
メリッサに詫びを入れてから、ミリアムは彼女の前を離れ、厨房で用意された料理の皿をラシードたちの席に運んでいく。本当に偉いなと感心しながら、メリッサは彼女の仕事ぶりを自分の席から笑顔で見つめていた。
「はい。お待たせ致しました!」
「うわぁ、いい匂い!」
台車に乗せて運んできた三人分の料理をミリアムが食卓の上に乗せると、ハミーダは思わず感嘆の声を上げた。ラシードは子羊の肉の角切りを選び、カリームは白身魚の塩焼き、ハミーダは鳥肉と卵と野菜を混ぜた炒め物をそれぞれ頼んでいた。いずれも伝統的なヨナシュの民族料理で、亡き父のトマスからシメオンが作り方を教わってきた秘伝の味でもある。
「うん。美味しいわね」
「味つけが独特で、アラジニア料理とはまた違った感じですね」
「二人とも気に入ってくれて良かった。シメオンの奴、しばらく見ない間にまた腕を上げたようだな。前より一段と美味くなってるよ」
二人の部下たちが口を揃えて絶賛するので、ラシードも我がことのように嬉しそうに笑い、自分もよく焼けた羊肉の味に舌鼓を打つ。
「お水のお代わり、お注ぎしますね」
「おっ、ありがとう。お嬢さん気が利くね。さすがは隊長の妹さんだ」
カリームが既に飲み干してしまっていた水を、ミリアムが持ってきた瓶から器に注ぎ足す。その様子を離れた席から微笑ましく見守っていたメリッサは、カリームの向かいの席に座っている、精悍な顔つきをした栗色の長髪の男に目を留めた。
「あの人……!」
思いもかけない偶然に、思わず取り乱したメリッサは水の入った器を危うく手から滑り落としそうになった。先日、アイン・ハレドの戦場で相まみえた、ラシード・アブドゥル・バキと名乗っていたマムルークの将軍。十年前に死んだはずのレオナルドの面影が重なる彼は、確かにメリッサが贈ったあの琥珀のような宝石のお守りを首にかけながら、美味そうに皿の上の肉料理をついばんでいる。
「彼……本当にレオ様なのかしら」
リオルディア国王ジャンマリオ三世の落胤であるレオナルドは十年前、自分の目の前であの不気味なオルトロスの魔人に襲われ、命を落としたかに見えた。それがこんな遠い異国で、実は無事に生きていたなどということがあり得るだろうか。いや、普通に考えれば、そんな奇跡のような話はまずないことである。
「そんなはず……あるわけ……ないわよね……でも……」
答を早まってはいけない。ここは落ち着いてもっと色々な可能性について熟考すべきだと、メリッサの明晰な頭脳は湧き立つ興奮を必死に抑えて彼女を何とか冷静にならせようとした。だが、ならば世界に一つしかないあの自分が作った首飾りについてはどう説明できるというのか。感情的になって結論を急いでしまっているのは自覚しつつも、その一点だけで彼はレオナルドだとメリッサはもう確信してしまっているのだ。
「お待たせしました。ご注文はお決まりでしたか?」
「あっ、えっと……」
ラシードたちの配膳を終えたミリアムが戻ってきて声をかけると、驚いたメリッサは肩をびくっと跳ね上がらせて我に返った。もう心は昼食どころではない状態で、注文をどれにするかなどどうでも良くなってしまっている。
「あの人と、同じのがいいわ」
少し考えてから、メリッサは口に含んだ羊の肉をよく味わうように咀嚼しているラシードの方を視線で指してミリアムに答えた。
ハル・マリアと同じ西地区の十七番通り沿いに店舗を構えている小さな雑貨屋。ムスタファ・ガレブという名の大柄な中年の男が一人で営んでいるこの店は、厳つく不愛想な店主の評判の悪さもあって正直なところあまり繁盛しているとは言えない。今日も客がほとんど来ていないその閑散とした店に、杖を突いた一人の老人が訪れた。
「調子はどうかの? 同志ムスタファよ」
白い顎鬚を長く伸ばしたその老人は、決して商売が儲かっているかどうかを訊ねているわけではない。問われたムスタファも、それはよく承知していた。
「万全です。老師ビルシャよ」
「左様か。それは祝着」
満足げにうなずいたその老人――ビルシャ・ヴェーラは、店の棚に置かれていた商品の砂時計を手に取り、透明の硝子の器の中を下へと落ちてゆく砂粒をしげしげと眺めながら声をひそめて言う。
「お主のあふれんばかりの才を、斯様な無価値な商いに空費させるのも今日で終わりじゃ。至高の神のお告げは既に下った」
「この日が来るのを、ずっと待ち侘びておりました」
肉づきの良い色黒の顔を愉悦に歪めたムスタファは服の袖をまくると、手首に巻いていた黒い腕輪を陽光にかざし、それからおもむろに口を開いた。
「――
呪文の詠唱と同時に腕輪についた琥珀のような宝石が光を放ち、その光が体に引火したかの如く、彼の肉体からもオレンジ色の魔力が勢いよく立ち昇る。やがて光は溶岩が冷え固まるかのように物質化して、ムスタファの全身を服の上から隙間なく覆い尽くす重厚な鎧となった。
「行け。神の使徒スースゼノクよ。力の限り暴れ回り、この聖なる都を
「おうっ!」
暗く濁った橙色の装甲に身を固めた、猪を思わせる姿をした獣人の戦士――スースゼノクと化したムスタファは獰猛な唸り声を上げながら、店を出て晴天の昼下がりの路地に繰り出して行った。
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