第14話 マリアの丘の料理店(1)

 十年前――

 アレクシオス帝暦一二〇四年・六月。


「ねえお父さん! あれ何だろう……?」


 よく晴れた初夏の昼下がり。アラジニア王国西岸部のひなびた漁村で、父親に手を引かれて海辺を歩いていた四歳の少女、ミリアム・バト・トマスは、さざ波が打ち寄せる砂浜に何かが漂着しているのを見て声を上げた。


「あれは……もしかして人じゃないのか?」


 波打ち際に倒れているのは、よく見ると人間である。年齢がまだ二桁にも達していないであろう小さな男の子だ。驚いた父親のトマス・ベン・ヤコブは握っていた娘の手を離し、急いでその少年の元へ駆け寄った。


「おい坊や! どうしたんだ。大丈夫か!?」


 打ち寄せる海の波を被りながら死んだように動かずにいる少年を抱きかかえ、トマスは波の届かない場所までその子を運んで仰向けに寝かせた。少年の体を揺さぶって懸命に声をかけるトマスだったが、少年は意識を失っており、目を閉じたまま全く反応を示さない。


「大丈夫? しっかりして!」


「良かった。まだ息はあるようだぞ。急いで手当てをすれば助かるかも知れない」


 ミリアムが心配そうに見守る中、トマスは少年の腹を両手で押し、飲んでしまっていた海水を口から吐き出させる。


「もしかして外国の人なのかな? お父さん」


「そうかも知れないな。こんな栗色の髪の毛は、アラジニア人にはとても珍しいよ。私らのようなヨナシュ人とも違う。肌も色白だし、多分海の向こうから流されてきたアレクジェリア大陸人の子じゃないかと父さんは思うがね」


 少年が着ている青いチュニックは一見して高級な布で織られており、王族や貴族の衣装にしては質素な反面、平民の着る服としては立派すぎるようにも思える。身分については判断しかねたものの、西洋風の服飾や少年の身体的な特徴から考えて、この子が西方のどこかの国の生まれだという可能性は高そうであった。


「ううっ……」


 しばらくして、昏睡していた白い肌の少年はようやく目を覚ました。ずっと重く閉じきっていた瞼が開き、紫色の澄んだ瞳が雲一つない青空と、民族衣装の黒いターバンを着た二人の姿を捉える。


「やった! 助かったのね!」


「これも神ザフィエルの思し召しだな。本当に良かった」


 少年が息を吹き返したのを見てミリアムが歓喜し、トマスも安堵してほっと胸を撫で下ろす。苦しげに咳き込んだ少年はゆっくりと上体を起こし、困惑した素振りで周囲の景色をきょろきょろと見回した。


「ねえ、お兄さんどこから来たの? お名前は何ていうの? どうして溺れちゃったの? ねえってば」


 はしゃぐ気持ちを隠そうともせず早口で話しかけてくるミリアムの言葉が全く分からず、少年は戸惑った様子で視線を宙に泳がせる。


「やはり異国の子かな。ヨナシュ語は通じないようだ。ひとまず、エスティムにあるわしの家に来なさい。それからゆっくり事情を聞こうじゃないか」


 聞き取りやすいよう意識して、ゆっくりとした明確な発音の共通語でトマスがそう言うと、少年はその意味を理解して小さくうなずいた。




「この店の二階が、俺の育った家なんだ」


 エスティム西地区・十七番街の外れに佇む料理店、ハル・マリア。一階が店舗、二階が住居になっている洒落た赤煉瓦の小さな建物を見上げながら、ラシードはどこか自慢げに言った。


「そう言えば、隊長はお料理屋さんの子だったって言ってましたよね。とっても美味しいヨナシュの民族料理の」


「ああ、確かに、そんなに美味しいなら一度みんなで食べに行きたいなって話してましたっけ。かなり昔のことですが」


 もう何年も前にラシードが話していたのを思い出して、ハミーダとカリームが納得したように顔を見合わせる。十年前、アラジニアに漂流して海辺に倒れていたラシードはヨナシュ人の商人だったトマスに拾われ、王都に上ってマムルークの訓練学校に入学する十歳までの二年間、彼の養子としてここで育ったのだ。


 古代、このエスティムにはヨナシュ人の王国が栄えていたが、相次ぐ戦乱の中で滅び、祖国を失ったヨナシュ人たちは海の向こうのアレクジェリア大陸やオルバジェリア大陸を含む各地に離散した。他の民族が支配する国に少数派の異教徒として生きる者の悲哀で、彼らはどこの国でも差別され虐げられており、それは先祖の故地であるこのエスティムに残ってアラジニア人たちの支配に服している者も例外ではない。


「ずっと国境の方の守りに回されてばかりだったから、なかなかその機会がなくてな。せっかくこの街に来たからには、お前たちにもここを紹介しておきたかったんだ」


 一人前のマムルークとなって部隊を預かる将軍に出世してからというもの、ずっとエスティムを離れて辺境の地で転戦してきたラシードが、幼い日々を過ごした実家でもあるこの店に顔を出すのは久々のことである。二人の部下を連れ、ラシードは木製の大きな引き戸を開けて店の中へ入った。


「いらっしゃいませ! あっ、お兄ちゃん!」


「ようミリアム。久しぶりだな。元気だったか?」


 まだ子供らしさを色濃く残した、桃色の前掛けをした可愛らしい女性店員が、驚きと嬉しさを満面に浮かべた笑顔でラシードを出迎える。少し遅れて厨房の奥から、白い頭巾を被った料理人の青年がひょっこりと顔を出した。


「サウロ兄さん! こっちに来てたんだね」


「ああ。お前らを守るために、援軍として来たぜ」


 温厚で繊細そうな顔立ちをした、ハル・マリアの店主を務めるこの細身な若者はラシードより三つ年下の十五歳になるシメオン・ベン・トマス。店員として働いている明るく闊達とした少女は、彼の妹で十四歳のミリアムである。


「サウロ兄さん……って、隊長の昔の名前ですか?」


 不思議そうにハミーダが訊ねると、ラシードは自分が子供の頃に呼ばれていた名前の響きを噛み締めるかのようにうなずいた。


「ああ。俺を育ててくれた父さんが、記憶喪失で自分の名前も思い出せなかった俺にサウロ・ベン・トマスっていうヨナシュ人風の名前を付けてくれたんだ。こいつらはその父さんの子で、要するに俺の弟と妹。血は繋がってないけどな」


 海岸で意識を取り戻した八歳のラシードは、それ以前の記憶を全て失ってしまっていた。自分はどこから来たのか。両親は誰なのか。名前は何というのか。どうして遭難したのか。何もかも分からないまま、彼はサウロ・ベン・トマストマスの息子という名をトマスから授かってヨナシュ人の商人の子として育ったのだ。ラシード・アブドゥル・バキというのは、その後マムルークとなるにあたって付けられたアラジニア人としての名である。


「へえ。そういうことだったんですね。とてもお洒落で、素敵なお店だわ」


 ハミーダが、すぐに気に入った様子でそう言いながら店の内装を眺め渡す。食べ物の美味な匂いと落ち着いた雰囲気が漂う小じんまりとした店内には四人掛けの木製の食卓がいくつか並び、十数人の客が一度に食事できるようになっている。


「じゃあ、隊長も小さい頃はこのお店の手伝いとかしてたんですか?」


「ああ。色々とな。皿洗いや食材の買い出しとか、店の床拭きや掃き掃除とか、あいつらと一緒に毎日やってたよ。懐かしいな」


 適当な席を見つけて二人を座らせたラシードも、カリームに昔のことを訊かれると周囲をぐるりと見回し、思い出に浸るように自分が育ったこの場所の空気を味わってから椅子に腰を下ろした。この店の創業者で、彼の育ての親でもあったトマスは昨年の秋に病のため世を去り、今は彼の遺児であるシメオンとミリアムが兄妹二人で店を切り盛りしている。


「さあ、何を食う? 自慢じゃないが、この店の料理はどれも一級品だぞ。ヨナシュ人のことは何かと差別してくるアラジニア人でも、ここの味だけは別だって気に入ってくれる奴が結構いるんだ」


 普段はどちらかと言えば寡黙で素っ気ないラシードが、急に饒舌になって料理を選ぶよう二人に促す。懐かしの実家に戻って来たことが余程嬉しいのだろうと、ハミーダは彼の内心を察して微笑んだ。


「楽しみだわ。ちなみに隊長のお勧めは?」


「そうだな。まず焼きたてのパンが美味くて、父さんの代からずっとこの店の名物料理なんだよな。それから、腹が減ってるからやっぱり食べ応えのあるものがいいよな。例えば子羊の肉料理とか……」


 ラシードの解説を聞きながら、どの料理を注文しようかとカリームたちが考えていたその時、入口の木戸が音を立てて開き、赤いスカーフを頭に被った一人の女性が店の中へと入ってきた。

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