第11話 魔物が潜む街(3)

 翌、六月十七日。エスティム西地区の八番街を南北に貫く大路を、奴隷に引かれた一台の荷車が走っていた。


「おい、もっと急げないのかガニー。お城まであと少しだぞ。全く、若いのにだらしがないな」


「申し訳ございません。ご主人様……」


 陽射しが燦々さんさんと照りつける中、ガニー・ヤシルという名の青年は木材の山を積んだ大きな荷車を汗びっしょりになりながら懸命に引いて動かしている。この街で籠城戦をしているアラジニア軍の命令で買い上げられた、柵などの防御陣地を新たに構築するために使う木である。猛暑の日に積み荷を満載した重い車を一人で引かされる奴隷の苦労など思いやろうともせず、ガニーの主人である商人のクタイバ・ハダリは彼の後について歩きながら、もっと速く荷車を走らせろとしきりに催促した。


「今時の若い奴らは根性がなくていかん。わしがお前くらいの歳の頃には、もっと大変な思いをしながら毎日必死になって働いていたものだぞ。だからお前もその程度で弱音を吐いたりしないで――」


 正直なところ、鬱陶しい。内心そう思いながら聞いていたクタイバの説教が急に途絶え、彼がどさりと倒れる音が聞こえたので、驚いたガニーはすぐに荷車を止めて後ろを振り向いた。


「ご主人様! 如何なされましたか。しっかりして下さい!」


 街路の石畳の上に、クタイバはうつ伏せに倒れて意識を失っていた。初めは暑さによる熱中症かと思ったガニーだったがそうではない。クタイバの首には親指の長さほどの切り傷があり、毒らしき黒い液体がそこにべったりと塗りつけられていたのである。


「これは……あの噂の辻斬り毒殺魔だ!」


 この地区で以前から続発している、同じ手口の連続殺人事件の噂を思い出してガニーが蒼ざめる。懸命に主人を揺さぶり起こそうとするガニーの呼びかけにも答えず、苦しげに痙攣を繰り返していたクタイバはやがて呼吸を止め、白目を剥いてぴくりとも動かなくなった。




 昨日の軍議でエスティムの西側の守りに配属されたばかりのラシードは通報を受けて直ちに現場に駆けつけ、路上に横たわっていたクタイバの遺体を検分した。


「これが例の毒を使った辻斬りか。昨日の寡婦と状況は同じだな」


 首についた小さな傷と、その上に塗り込まれた黒い毒液。ラシードにとってはこの街に凱旋してから初めてとなる事件だが、ターリブや他の諸将から聞いていた、これまで何度も市内で発生しているという謎の殺人と手口は完全に一致する。


「やはり、毒をつけた刃物で首筋に掠るように斬りつけられた、というところでしょうかね。死因は明らかに、体内に毒が回ったことによる心臓発作です」


 カリームがそう見解を述べるが、かく言う彼自身、あまりに単純で順当すぎるその推理に納得している様子ではなかった。彼の内心の引っかかりを代弁するように、ハミーダが疑問点を口にする。


「でも、荷車を引いていた奴隷の証言によると、誰かが被害者を襲う場面は見えなかったそうよ。もちろん、重い荷車を一生懸命に動かしていてその後ろで起きたことだから、単に彼が見逃しただけという可能性はあるけど……」


「もう少し、現場に居合わせたというその奴隷から詳しく話を聞いてみないと分からんな。そのガニーって男はどこへ行ったんだ?」


 ラシードがそう言って辺りを見回したその時、縄で縛り上げられたガニーを乱暴に引っ立てて背の高い一人の若者がこちらに来るのが見えた。サディク・ウスマーン。ラシードと同じマムルークの将軍で、開戦当初からこのエスティムの防衛に当たっていた十八歳の青年部将である。


「ほら、早くこっちへ来い! この主人をどうやって殺したのか、詳しく説明してみろ!」


「何をしているんだサディク! 乱暴はやめろ」


 縛られたガニーを引っ張り、遺体の前に立たせて高圧的に怒鳴りつけたサディクをラシードは叱責するように大声で止める。カリームとハミーダも、久々に顔を会わせることになった同い年のサディクの相変わらずの粗暴さに揃って非難の目を向けた。


「ラシードか。悪いが見ての通り、今ちょっと取り込み中なもんでな。邪魔をするな」


 嫌味さと冷酷さを湛えたサディクの甘く端整な顔が自分の方へ向けられると、ラシードは不快さを隠そうともせず表情を歪めた。王都の奴隷学校の同級生として共に教育と訓練を受け、一緒に卒業してマムルークとなった子供の頃からの付き合いだが、ラシードとサディクは昔から仲が悪く、ずっと殴り合いの喧嘩ばかりしてきた因縁の間柄なのだ。


「昨日の軍議でターリブ卿が仰せになったのをお前も聞いただろう。例の辻斬り犯の始末は俺に任されることになったんだ。もしかしてその男がガニーか? 目撃証言を聞くべき重要参考人を、勝手に捕まえて暴行するのはやめてくれ」


 どうやらサディクに拷問を受けたらしく、顔にあざを作ってぐったりと憔悴しているガニーを見て眉をひそめながらラシードは言った。


「勝手だと? 戦で使う木材を商人たちから買い上げて調達するのは俺に任されていた役務だぞ。その途中で取引先の人間が殺されて、木材の搬入が何者かに妨害された。となれば、これは俺の縄張りの中での話だろう。お前らは手出し無用だ」


 サディクの主張にも一理あるとは思いつつも、ラシードは引き下がらなかった。この件を彼に任せてしまえば、ガニーはもっとひどい目に遭わされるに違いないと考えたからである。


「そっちの言い分ももっともだが、こっちにも上から仰せつかったお役目に対する責任って奴があるもんでな。捜査の邪魔をされては迷惑なんだ」


「わざわざ面倒な捜査なんてする必要があるかよ。俺の推理によれば、犯人は被害者の一番近くにいたこの奴隷だ。そう考えるのが最も自然だろうが。今からそいつを吐かせてやるから、まあ見てろ」


 サディクはそう言うと、縄で縛られたままのガニーを地面に蹴り倒し、それから手に持っていた鞭で彼の背中を思い切り叩き始めた。


「おら、早く白状しろ! お前はこの主人を恨んでいたんだろう。どうやって殺したのかさっさと自白するんだよ!」


「お、おやめ下さい! 私はご主人様を殺めてなどおりません!」


「よせ! いい加減にしろサディク!」


 鞭を握ったサディクの右腕を、ラシードは掴んで力ずくで止めた。確かに被害者の最も近くにいたのはガニーであり、奴隷が日頃から酷使されていた恨みから主人を殺害したという動機も理屈としては成り立つが、それでは無関係の他の市民もこれまでに多数、同じ手口で殺されていることの説明がつかない。


「今までの犠牲者たちも全てこの奴隷が殺したというのか? これは明らかに特殊な事件だ。迂闊に結論を急がず、よく調べる必要がある」


 強く言い聞かせるような声でラシードが言うと、サディクは渋々、鞭を振り上げた右手を下ろした。


「ふん、随分張り切ってるようだな。お前みたいな甘い人情家にこのお役目が務まるのかどうか、俺は心配で夜も眠れないぜ」


「せいぜい眠らずに心配していてくれ。ハミーダ」


 吐きかけられた皮肉を意にも介さず受け流すと、ラシードはサディクを無視してハミーダを呼んだ。呼ばれたハミーダも当てつけるように、わざとサディクのことなど眼中にないという態度でラシードの方を真っ直ぐに向きながら返事をする。


「はい。ラシード隊長」


「城にいる学者や薬師くすしたちを集めて、この被害者の傷口に塗られていた毒の成分を調べさせてくれ。これが何なのかが分かれば、犯人像を絞る手がかりになるかも知れん」


「分かりました」


「カリームはここに残って周辺の警備を指揮しろ。もし犯人がまだこの近くにいれば、また誰かを襲いかねないからな」


「了解です。隊長」


「俺はこの奴隷と話をする。……痛かったな。ガニー。乱暴な真似をして済まなかった」


 仲間の狼藉を代わりに詫びながら、ラシードは地面に倒れていたガニーの縄を解き、丁寧に手を引いて立ち上がらせた。詳しく話を聞くためにガニーを連れていく彼の背中を蔑むような目で見送りつつ、サディクは忌々しげに舌打ちする。


「相変わらずのむかつく善人面だぜ。本性はそんな聖人君子なんかじゃねえ癖によ」


 とは言え、これまでに続発している同じ手口の事件もガニーの仕業か、というラシードの反論にはサディクとて黙らざるを得ない。犯人が現場にいたあの若い奴隷ではないとしたら、一体誰だろうか。遺体の首に付着していた黒い毒液をハミーダが慎重な手つきで採取している様子を冷ややかに見物しながら、彼はふと一つの可能性に思い当たって眉間に皴を寄せた。


「まさか、な」

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