第12話 魔物が潜む街(4)

 翌、六月十八日・未明。神聖ロギエル軍に攻囲されているエスティムで、またしても変死者が出た。


 今度は城下に暮らしている民ではなく、城内にいたアラジニア軍の兵士である。街の中心に建つエスティム城の武器庫の前で、見張りをしていた衛兵の一人が突然何者かに胸を斬りつけられ、傷口に入った猛毒のためにその場で死亡したのだ。これまでと全く同じ手口での殺人で、同一犯による犯行と見て間違いなさそうだったが、今回は被害者の素性からして今までとは異質であった。


「まさか兵までられるとはな……」


 遺体を注意深く観察しながらラシードは言った。刃は衛兵が着ていた鎧の胸板を抉ってその下の皮膚を斬り、毒を体内まで届かせている。それ以外に外傷はなく、死因はやはり毒の作用による心臓発作であった。


「城に忍び込んで見張りの兵を闇討ちするとなると、ただの乱心した殺人鬼などではないな。手練れの殺し屋でなければできない芸当だ」


 これまでは街の住人の誰かが何らかの理由で凶行に走り、道行く人を次々と無差別に殺しているのだろうという見方が有力だったが、そのような一般市民の犯人は城に乗り込んで軍の将兵を狙ったりはしないはずだし、もしそうしたとしても素人ならばたちまち見つかって返り討ちにされてしまうことだろう。武器庫から物が盗まれた形跡もなく、敵軍の潜入者がアラジニア軍の武器を奪うために見張りを殺して突破したというわけでもなさそうだった。


「しかし、もし訓練された刺客であれば、これまでに名もなき民衆を何人も殺してきた理由が今度は分からなくなりますね。一介の商人や貧しい寡婦など、暗殺することに何か政治上や軍事上の意味があるとは思えない者ばかりが今までは犠牲になってきたわけですから」


 髪を綺麗に刈った僧のような禿げ頭を抱えて、カリームは悩んだ。今までの犠牲者の顔触れにはこれといった共通項が見当たらず、犯人の目的が読めない。こうなると次に誰が襲われるかを予測するのも困難で、ラシードとしては手の打ちようがなかった。


「確かにな。傷口に毒を塗り込むという妙に手の込んだ殺し方といい、分からないことだらけだ。ところで、毒の成分については調べがついたか」


 犯行に使われた毒については、昨日の内にハミーダが医師や学者らを集めて分析をさせている。その結果について問われると、短い黒髪を片手でさすりながら彼女は答えた。


「はい。軍医たちの調べによると、やはりこれは蛇の毒だろうとのことです。ただ、少し変わった毒で、完全に一致する成分の毒を持っている蛇は少なくともこの地域にはいないようなのですが……」


「どの種類の蛇から採取した毒かは不明ということか。ますます謎が深まるな」


 アラジニアではまだ知られていない、新種あるいは外来種の毒蛇という可能性もある。その蛇の種類や生息地がもし分かれば、犯人がどこから来たかも推測できるようになるだろうか。ラシードが腕組みをして考えを巡らせている横で、遺体の傷口を睨むようにじっと見つめていたカリームがふと重大なことに気づいたように言った。


「……もしかしたら、犯人はただの人間ではないのかも知れませんね」


「どういう意味だ? カリーム」


 ラシードが訊ねると、顔を上げてカリームは答えた。


「隊長は気になってませんでしたか? あのアイン・ハレドで遭遇した獣人のような怪物たちですよ。私も信じられませんでしたが、ああいうのがこの世には本当に存在するんだなって」


 ラシードたちがリオルディア軍と交戦していたさ中、村人とヴェルファリア軍の指揮官が突如として変貌した馬と魚のような魔人。そして上空から飛来して彼らをたちまちの内に蹴散らした、もう一体の鳥のような怪人。それまで神話か怪談の世界でしか聞いたことのなかった妖魔とでも呼ぶべきものが、ラシードたちの目の前に確かに現れたのである。であれば、あの三体だけでなく、他にも同じような魔物がどこかにいてもおかしくはない。


「本当に、あれは何だったんでしょうね。私には、死体が蘇ったみたいに見えましたけど……」


 ハミーダがそう印象を述べると、カリームはうなずいて彼女に同調する。


「ああ。そういう信仰は、南洋の部族の間では珍しくないらしいね。ドゥンバイの言葉では、確かゾンビと呼ぶんだったかな」


 これは果たしてどうしたものかと、ラシードは悩ましげに唸った。自分たちは今、恐らくこれまでの常識を超えた未知の領域に足を踏み入れようとしている。普段なら下らぬ迷信と一笑に付していたような話も、簡単にそう決めつけるのはこの状況下では軽率というものだろう。


「ゾンビか……。そんなものが実在するとも思えんが、こうなるとその線も莫迦ばかにしたりせずに視野に入れておく必要があるのかも知れんな」


 二人が言うように、あの怪物たちは死者が蘇生したゾンビなのだろうか。オルバジェリア大陸で信じられている古い土着の宗教は、もしかしたらあれらの怪物のことを大昔から語り伝えてきたものなのかも知れない。だがいずれにせよ、全ては根拠の乏しい推測に過ぎなかった。


「アブドゥル・バキ将軍、大変です! 西の城門近くの城壁に侵入者です!」


 その時、兵士の一人が城門の方から駆けてきてラシードに急報を告げた。ラシードは考え事を中断し、色めき立って声を上げる。


「敵に侵入を許したのか? 直ちに捕らえなければ大変なことになるぞ」


 街を攻め囲んでいる神聖ロギエル軍の手の者に城壁を突破され、市内に入り込まれたとなると一大事である。斥候や工作兵を取り逃がして懐に入れてしまったのであれば、このエスティムの陥落にも繋がりかねない大失態だ。すぐに侵入者を追跡して捕らえるよう兵を動かそうとしたラシードだったが、その伝令はどこか蒼ざめた顔で、にわかには信じ難いことを口にした。


「いえ、アレクジェリア軍の兵ではありません。魔物です。豹のような姿をした、恐ろしげな怪人が城壁を乗り越えて……」


「何だと」




 エスティムの街をぐるりと囲む高く分厚い石の城壁は、そこかしこに塔や櫓が併設されて見張りの兵が常駐し、壁の上にも弓兵や投石兵などが配置されて外部からの敵の侵入を防ぐようになっている。エスティムを包囲した神聖ロギエル軍もこの城壁には手を焼き、攻城塔や破城槌を用いての突破を幾度となく試みたがいずれも失敗に終わっていた。


「この高さを跳んだというのか」


 現場に駆けつけたラシードは、改めて状況を自分の目で確かめて呆気に取られた。近くにいた番兵たちの証言によると、突如、豹のような姿をした赤い異形の獣人が街の外から城壁に近づき、恐るべき跳躍力で高さ三十ファズ(=十五メートル)の城壁の上に跳び乗ったというのだ。


「咄嗟に取り押さえようと三人がかりで立ち向かいましたが、その怪物は剣や槍を物ともせず、手に生えた鋭い爪で二人をたちまち斬殺したのです。それがしも足を斬りつけられて動けなくなり、怪物が城壁の上から飛び降りて街の中へと走り去ってゆくのを、ただ呆然と見送るしかありませんでした」


「まさに豹の化身といったところだな」


 信じられないような話だが、現に肉食獣の爪で切り裂かれたような痛ましい傷を腿に負っているこの番兵が嘘をついているとも思えない。それにラシード自身もつい先日、アイン・ハレドで同じような魔物に遭遇したばかりなのだ。この世にはそうした怪異が実在するということを、否定するわけには行かなかった。


「その……信じて下さるのですか。アブドゥル・バキ将軍」


 信じろと言われても無理なことを証言している自覚は、その兵士にもあった。あっさりと信じることにしたラシードの態度は、彼にとっては拍子抜けするほどである。


「信じるさ。よく分かったから、下がって傷の手当てをしろ」


「ありがとうございます。将軍」


 感激したように声を震わせて頭を下げ、その番兵は仲間の兵士に肩を貸されてラシードの前から下がっていった。ともかく、その豹のような怪物が何者であるにせよ、武器を使っても制圧できないような強力な化け物が街の中へ逃げ込んだというのは一大事である。


「一刻も早く発見して退治しなければ、街の人々が襲われかねないな」


 謎の殺人鬼がもしかしたら怪物かも知れないという可能性が浮上したところに更にもう一体の怪物が加わり、事態はより深刻さと混迷の度を増すこととなった。事件の捜査を任されているラシードとしては、焦りを禁じ得ない状況である。


「怪物たちが暴れて被害が大きくなれば、城外のアレクジェリア軍にも攻略の隙を与えることになりかねない。手分けして怪物を探し出し、全力で撃滅するんだ」


 配下のマムルーク兵らにそう指示して、ラシードは連続殺人事件の犯人捜しと並行し、エスティムに侵入した豹の魔人の追跡も同時に急ぐのであった。

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