第10話 魔物が潜む街(2)

 一方、この日の戦いで何らの成果も収めることができなかった神聖ロギエル軍はエスティムの攻囲をひとまず解き、本陣を置く聖ウィリアン砦まで退いて作戦を練り直すこととなった。


「宿願の聖地奪回まであと一歩だと申すに……」


 その最後の一歩が、あまりにも遠い。全軍の総大将を務めるヴェルファリア帝国のマティアス・ユルゲン・ヒッツフェルト皇子は、沈痛な面持ちで軍議の口火を切った。


「神は我らに試練を課しておられる。揺るぎなき勇気と信仰を示し、我らはその試練を何としてでも乗り越えねばならないのだ」


 二十八歳のマティアスは熱烈なロギエル教徒で、智勇兼備の名将にして、戦いは常に正義に基づいて行うという固い信念を持った義将としても名高い。異教徒討伐、そして聖地奪回というこの戦争の宗教的な大義に大いに燃え、普段は反目し合っているアレクジェリア大陸の諸国の軍勢をまとめ上げて強国アラジニアを征服するという困難な使命に精力的に取り組んでいるマティアスだったが、そんな彼の信仰をなおも厳しく試そうとするかのように戦線は膠着し、エスティムの攻略は難航していた。


 そもそもこの聖戦のきっかけは、ラハブジェリア大陸の西部に興隆したアラジニア王国が更に勢力を伸ばし、アレクジェリア大陸の東端に位置するテオノア帝国の領土を脅かしたことにある。危機を感じたテオノア皇帝ヘシオドス九世は、同じロギエル教国であるアレクジェリア大陸の諸国に異教徒による侵略の脅威を説き、援軍の派兵を求めた。


 ロギエル教の最高権威者である教皇ウェスパシアヌス十八世は、これをかねてからの悲願であった聖地エスティム奪回の好機と捉え、単にテオノアの領土を防衛するのみならず、こちらからアラジニアまで攻め込んで聖地を異教徒の手から取り戻すべしと諸国に呼びかけた。こうして結成されることになったのが、アレクジェリア大陸にある二つの帝国と四つの王国、そして教皇直属の騎士団が神の名の下に連合を組んだ神聖ロギエル軍なのである。


「我らリオルディア軍による救援が間に合わず、シュティーリケ男爵を討ち死にさせる結果となってしまい面目ございません」


 アイン・ハレドでゲルトの部隊を助けることができずに終わったことについて、メリッサは彼の主君でもある総大将のマティアスに詫びた。


「それは栓なきことだ。敵の動きがあまりに予想外だった。あの急峻な岩山の上から、まるで稲妻の如く駆け下ってくるとはな。異教徒の中にも、なかなかの勇士がいると見える」


 神妙に頭を下げてみせたメリッサを、マティアスは敢えて咎めなかった。本当はゲルトは死んでおらず、魚のような魔人に変貌して水中へ逃亡したのだが、そんな常識外れの報告をこの場で皆にすべきかどうかはメリッサには判断しかねたので、ひとまず今は口をつぐんだ。


「マティアス殿下が仰せの通り、敵軍が疾風の如く迅速だったのは確かだとしても、リオルディア軍の動きがあまりに鈍すぎたのも事実だわ。村人たちを刃にかけるのを嫌って、わざと進軍を遅らせたのではなくて?」


 代わりにメリッサを責めたのは、マティアスの副官を務めるヴェルファリア軍のヘルミーネ・フォン・ミュラー公爵である。名門貴族の誇りを強く感じさせる気高さと冷たい知性を帯びた彼女の声を聞いて、何かを察したように小さく鼻を鳴らしてうなずいたメリッサは何喰わぬ顔で平然と弁明した。


「異教徒を討てという神のご命令に背くだなんて、ロギエル教徒の一人として考えもつかないことだわ」


 長い銀色の髪を青い髪飾りで留めたヘルミーネは、メリッサより一歳年上の十九歳。自分と立場のよく似た隣国の若い女貴族ながら、殊更に気取った彼女の態度が嫌味に感じられてメリッサはどうにも好きになれない。ヘルミーネの方も良く言えば勇猛果敢、悪く言えば奔放さや蛮勇が凛とした誇り高さの中に散見されるメリッサを毛嫌いしており、二人は自他共に認める犬猿の仲であった。


「単に激戦と酷暑による兵たちの疲労と、敵の奇襲の可能性を考慮して慎重に行軍したまでのこと。無闇に全速で突き進んで、疲れきったところに不意打ちを受けて全滅してしまっては目も当てられないでしょう?」


「言ってくれるわね。それは迂闊に進軍して不覚を取った私の配下に対する皮肉かしら?」


「滅相もない。ただ一般的な用兵の基本を述べただけよ」


 メリッサとヘルミーネの間の空気が、不穏な緊迫感をはらんで凍りついた。敬虔なロギエル教徒を名乗って憚らず、騎士道精神を常に忠実に体現した振る舞いを心がけてやまないメリッサだが、ヘルミーネに言わせれば神への絶対服従の精神を十分には理解しておらず、時に己の考えや信念を優先して動く傾向があるのは信徒として模範的とは言えない。


「本日の負け戦に関する議論は、もうよろしいでしょう」


 ジョレンティア王国軍の大将で、傍系の王族であるアイルトン・ジェシマール・ダ・クルスがそう言って二人を宥め、軍議を建設的な方向に進めるよう促した。


「いかに憎むべき異教徒とは申せ、敵もなかなかに手強く、勇敢な戦巧者であることは我らも率直に認めねばなりませぬ。これを破り、聖地奪回という崇高な使命を果たすためには、こちらも油断や慢心をよくよく戒め、力と知恵を振り絞って戦うことが必要と心得ます」


 南国の異教徒であるヒュヴィア人やドゥンバイ人を相手に転戦してきた二十五歳のアイルトンは、ロギエル教徒でない相手に対しても決してその知能や実力を過小評価すべきではなく、敵を侮るようなことがあればたちまち命取りとなることを自身の経験からよく知っている。邪悪な異教徒、死すべき罪人と敵を悪しざまに罵るあまり、それが強敵であるはずのアラジニア軍を不当に見下す油断にも繋がっている点を彼はやんわりと、しかし鋭く指摘した。


「仰せごもっとも。それについては、私に考えがあるわ」


 ここぞとばかりにアイルトンの発言に乗り、自分への追及を一方的に打ち切ったメリッサは勝気な声で発言した。


「エスティムに斥候を送り、敵情を探ると共にアラジニア軍を内側から攪乱すべきよ」


「……斥候?」


 ヘルミーネが訝るように訊き直すと、メリッサは再び彼女の方に視線を向けて力強くうなずく。


「力攻めはことごとく跳ね返されて損害が増えるばかり。敵を城壁の外へ誘き出そうとしても、アラジニア人たちもるものでそう簡単に乗ってきてはくれない。となれば、残された手立ては謀略による内部からの切り崩しだけでしょう。まずは斥候を送ってエスティムの内情を探り、どこかに弱点はないか、内紛の兆しは見えないか、こちらに寝返らせることができそうな者はいないのか。そうしたことを詳しく調べ上げて、どんな策が有効か検討するための材料を得るべきではないかしら」


「それは確かに一理ありだな」


 フィリーゼ王国の軍を率いるスヴェリル・グドムンソンが冷静な声で言った。雪のように白い肌と氷のような冷酷さから≪氷雪公≫の異名を取る彼はアイルトンより一つ年下の二十四歳で、フィリーゼの若き国王トーレ二世の異母弟である。


「いかに神のご加護がある聖戦とは申せ、これほどまでに堅固な要塞都市を策略もなく正面突破で落とそうというのは無理がある。これまでの戦いは、神の祝福があれば必ず勝てるはずだという信仰にいささか酔いすぎた」


 アレクジェリア大陸の北に位置するフィリーゼは、かつて異教の神々を信じる海の荒くれ者として恐れられたヴァイキングの一派が根拠地のフィリス島を統一し、やがてロギエル教に改宗して王朝を開いた国である。ロギエル教が伝来してまだ年月が浅く、信徒ならば誰もが心躍らずにはいられないはずの聖戦に対しても幾分冷めた見方をしているのは決してスヴェリル個人の性格ばかりが原因ではない。


「使徒アリストパネスの格言にも、人事を尽くしてこそ奇跡は起きるとある」


 ロギエル教の聖典の一節を引いてスヴェリルに賛同したのは、ザフカール王国の代表として参陣している有力貴族のディミタール・コスタディノフ侯爵である。この中では最年長の五十歳で、若く血気盛んな諸将が主力を占める神聖ロギエル軍においてその貫禄と落ち着きようは異彩を放っていた。


「神の名による聖戦ともなれば、後世の語り草となるような華々しい決戦で敵を正面から打ち破るのが確かに理想ではあるが、アラジニア軍の手強さを鑑みればそれに固執してばかりもいられまい。こうして手をこまねいている間に、敵の援軍が大挙して駆けつけて来るようなことがあれば一大事となる」


 ザフカールとは歴史的に遺恨を抱えて長年ずっと対立してきたテオノア帝国のイオアンナ・ツィオリス王女も、今回ばかりはディミタールの意見に同調して静かに口を開いた。


「とにかく、何よりもまず最優先されるべきなのは戦の勝利であって、勝ち方にこだわっている時ではございませんわ。もし万一にもこの戦いに敗れれば、私たちテオノアの運命はもはや風前の灯。テオノアが滅びれば、今度はその西にある皆様の国がアラジニアの異教徒たちに蹂躙されることでしょう。それは父なる神ロギエルの御心みこころにも全く適わないことではないかしら」


 アラジニアと海を挟んで隣接するテオノアにとっては、聖地奪回という宗教色の濃い目的よりも、自国をアラジニア軍の脅威から解放するという国防上の軍事目標の方がはるかに緊急性の高い重要命題である。淑やかで気品ある二十歳のイオアンナの言葉の裏には、生き残るためにはもっと実利主義であらねばならないという必死の思いが暗に込められていた。


「諸将のお考え、よく分かった」


 軍議の趨勢はもはや明らかである。堂々と正面から聖地に乗り込んで占領するという従前の方針を捨てきれずにいたマティアスも、こうなっては総大将として理に適った判断を下す他なく、ようやく決意を固めたように首を縦に振った。


「確かに力攻めだけでは限界があるのは、今日までの苦戦を見れば明白だ。ここはディ・リーヴィオ伯爵の申される通り、まずはエスティムに斥候を送って情報を集め、それに基づいていかなる策が立て得るか、改めて皆で話し合おうではないか」


 主君である皇子が賛同したのでは、ヘルミーネもそれに従わざるを得ない。ディミタールも言及した理想の聖戦像を別にすれば、彼女とて本来は力任せの戦法を好む猛将などではなく、知略を駆使して味方の犠牲を可能な限り減らし、巧みに敵を陥れるのを得意とする智将なのだ。だがそれでも、ヘルミーネは敢えて気難しい表情を作ってメリッサの案の問題点を指摘した。


「とはいえ、数万のアラジニア兵がひしめくエスティムの市内に潜入して内情を探るとなると至難の業よ。敵も当然、密偵が忍び込むのは予期して厳重に警戒しているはずだし、並の斥候ではまず無事に生還できないでしょう」


「ご心配なく。それについては、我が軍にうってつけの人材がいるわ。必ず生きて首尾良く情報を持ち帰ることができる、屈強な凄腕の間者がね」


「あなたたちの軍に?」


 リオルディア軍は精強とは謳われていても、諜報に長けているという評判はあまり聞かない。自信満々で答えるメリッサに、ヘルミーネは信じられないと言いたげに疑問を呈した。


「もしや、東の果ての国からニンジャでも雇い入れられたかな」


 ディミタールが冗談めかしてそう言うと、列座の諸将からどっと哄笑が湧き起こった。だがメリッサはにこりと笑ってそれを軽く受け流すと、次の瞬間、一同が驚いて思わず声を失うような行動を取って見せたのである。


「……あなたが?」


 冷徹なヘルミーネさえ、思わず唖然となって目を丸くした。握った右の拳で力強く胸を叩き、メリッサは何と自分自身を指し示したのだ。


「その通りよ。この私が自ら、エスティムに潜入して敵情を探ってくるわ」


 誰もが言葉もなく固まる中、軍議を終始無言のまま見守っていた軍監のゴルディアヌス枢機卿だけがわずかに口元を歪めて興味深げにわらっていたことには、誰一人として気づくことはなかった。

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