第9話 魔物が潜む街(1)
ゲルト率いるヴェルファリア軍の一部隊の壊滅という手痛い損害を出し、神聖ロギエル軍は周辺の村落を襲う陽動作戦を中止してこの日は兵を退いた。アイン・ハレドから撤退したラシードは配下の六千騎のマムルークを引き連れ、一時的に包囲が解かれたエスティムの南の城門をくぐって悠々と街に凱旋したのであった。
「ラシード・アブドゥル・バキ、国王モハメド六世陛下のご下命により、援軍として参上つかまつりました」
夕刻、街の中心にそびえる巨大なエスティム城に入ったラシードは城内の大広間で諸将に謁見し、援軍として来た旨を皆に報告した。
「遠路はるばるの参陣、大儀である」
聖地を守るエスティム城の城主は、有力貴族のターリブ・アル・ムワイフである。白髪混じりの顎髭をたっぷりと蓄えた経験豊富な人格者として知られるこの老将は、ラシードを言葉ではねぎらいながらも明らかに不機嫌そうな顔をしている。
「長旅の疲れを厭わぬ着陣早々の勇敢なる戦いぶり、アレクジェリア大陸の侵略者どももさぞ恐れをなしたことであろう」
どこか強張った声で勝利を褒め讃えられたラシードが控え目に一礼すると、ターリブの隣に立っていた彼の嫡男のナビール・アル・ムワイフが続けて口を開き、厳しい口調でラシードを叱責した。
「されど、総大将である父上の命を待たず、勝手に敵に攻めかかったのはいただけぬ。運良く勝てたから良かったものの、全軍の足並みを乱す抜け駆けはもし失敗すれば味方の総崩れさえ招きかねぬのだぞ」
本来、援軍として馳せ参じたラシードはまず本隊に合流して総大将のターリブに挨拶をし、自分の持ち場と役割について指示を仰ぐのが筋である。それをしようともせず、己の一存だけでいきなり山を駆け下って敵軍に突撃したのは指揮系統というものを完全に無視している。
「身勝手を致しましたことはお詫び申し上げます」
さして誠意の感じられない口だけの謝罪を述べてから、ラシードは臆せずナビールに反駁した。
「されどこのラシード、都におわす国王陛下より、戦禍に晒されている民を守れとのお言葉を賜ってこの地へ参っております。敵軍が村を焼き討ちしていたにも関わらず、どなたの隊も村人たちを助けには参られぬご様子でしたゆえ、民を哀れまれる陛下の御心に沿うためにはこの私が動くしかあるまいと、軍令に背くのは覚悟の上で敵の掃討に乗り出しました次第。これがけしからぬと仰せならば、ご処分は謹んでお受け致します」
「ううむ……奴隷風情が、陛下のご威光を楯にやりたい放題か」
神聖ロギエル軍が村人たちを虐殺していたにも関わらず、自分たちが民を見捨てる選択をして動かなかったのは事実であり、しかもそれが国王の意向に反すると指摘されてしまってはナビールも反論のしようがない。王の直属の親兵として寵愛を受けているラシードら王宮マムルークの存在は、それを良いことに勝手で傲慢な振る舞いをする傾向もあって、アル・ムワイフ親子のような旧来の貴族層にとっては実に目障りな新興勢力であった。
「陛下の仰せか。ならば是非もなしじゃな」
これは一本取られたとでも言うように、愉快げに笑いながらターリブは言った。
「確かに本来、抜け駆けは重大な軍令違反とはいえ、戦の成り行きは千変万化、命令を待っていては勝機を逸するということもあろう。とにもかくにも見事な勝利を収めたからには、アブドゥル・バキ将軍の判断は正しかったと認める他あるまい」
「父上……!」
この件についてはどうやらこちらの旗色が悪い。そう判断したターリブは今回のラシードの罪を不問に付すことにした。この軍の最高司令官でもある父が許したとあっては、ナビールも渋々ながら矛を収めざるを得ない。
「アブドゥル・バキ将軍の隊には、このエスティムの西の城門の守りを任せたい。街の西側にはヨナシュ人が住んでいる地区も多いが、彼らとも親しいそなたの出自からしてもちょうど良かろう」
「心得ました」
ヨナシュ人とは、このアラジニアを初めとする世界各地に分散して暮らしている自分たちの国を持たない流浪の少数民族である。ジュシエル教を奉じるアラジニア人たちとは別の一神教のザフィエル教を信じており、古代の先祖たちから受け継がれてきた独特の文化を固守しているためアラジニア国内では異質な存在となっていて差別や対立も絶えない。他の部将ならば嫌がりそうな配置に敢えて異議を唱えなかったラシードだったが、ターリブはそれとは別の問題を続けて口にした。
「ただ現在、街の西地区には一つ難儀な案件があってのう。皆が心を一つにして団結せねばならぬこの大事な戦時下だと申すに、近頃この地域で次々と辻斬りを行なっている不届き者がおるのだ」
「辻斬り……?」
ラシードが育った場所でもあるエスティムの西地区は、決して凶悪犯罪が多発しているような治安の悪い地域ではなかったはずである。だがここ数日、そこの住民が相次いで何者かに殺害されており、得体の知れない殺人鬼の影に人々は怯えているのだとターリブは言う。
「どうにも謎めいた、奇怪な事件じゃ。今日も一人、若い寡婦が広場にいたところを殺められた。どうやら手を刃物で斬られたようなのじゃが、傷口には毒が付着しており、そのためにほんの小さな傷から命を落とすことになったのじゃ」
「毒が塗られた刃で斬りつけられた、といったところでしょうか」
「通常ならば、そう推理するのが自然だがな」
悩ましげな声で首を横に振りながらナビールが言った。彼によれば、白昼の広場には大勢の人がいたにも関わらず、寡婦が斬りつけられる瞬間は誰一人として目にしていないのだという。これまでに起きた複数の殺人についてもやはり目撃者はおらず、それがこの事件の捜査を困難にしているのだとナビールは説明した。
「何が何やら、分からぬことだらけじゃ。切れ者のアブドゥル・バキ将軍には是非とも知恵を絞ってこの謎を解き明かし、街の平和を乱している犯人を捕らえて誅してもらいたい」
「……承知致しました」
どうやら厄介事を押しつけられてしまったようだが、
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