第8話 マムルークの若獅子(3)

「なっ……!? まさか……」


「嘘でしょ……そんな」


 ラシードたちの近くで互角の勝負を繰り広げていたハミーダとアマーリアが、戦いを止めて同時に振り返り息を呑む。別の場所でリオルディア軍の騎士を斬り伏せていたカリームも、思わぬ事態に慄いてわなわなと身を震わせていた。メリッサの背後で死んだと思われていた村人の一人が急に起き上がり、彼女に襲いかかって後ろから組みついてきたのだ。


「ば、化け物だ!」


「怪物だぁっ!」


 村の各所で戦っていた両軍の兵士たちが揃って恐慌の声を上げ、混乱に陥る。それは人間の常識を超えた怪異であった。凄まじい力でメリッサを羽交い絞めにしたその若い農夫は淀んだ緑色の光に包まれ、その光を鎧のように全身に纏うと、まるで馬を擬人化したかのようなおぞましい怪物の姿に変貌したのである。


「くっ、こっちもか!」


 あまりのことに絶句していたラシードも、同じく起き上がってきたもう一人の男に死角から襲われ、人間離れした腕力で地面に殴り倒されることになった。強烈な一撃で小麦畑の上に叩き落とされたラシードはすぐに顔を上げ、自分を攻撃してきた相手の顔を確かめて驚愕する。


「お前は……!」


 何かに取り憑かれたかのような不気味な形相で襲いかかってきたのはつい先刻、ラシードが自ら討ち取ったはずのゲルトだった。苦しげに叫びながら体から炎のような黒ずんだ光を立ち昇らせたゲルトは、その光を物質化させて体全体を覆う怪物の形をした装甲を作り出し、扁平な頭部と鋭い針のついた長い尻尾を持つ灰色の魚人に変身する。


「きゃぁっ!」


 それは魔力によって作り出された外骨格の強化装具であった。アラジニア人の農夫が変貌した深緑色の馬のような魔人は通常の何倍にも高められた怪力を振るい、重い板金鎧を着込んだメリッサの体を軽々と持ち上げてラシードの元へ投げ飛ばす。


「何なんだ。こいつらは……!」


「とんだ邪魔が入ったわね。せっかくのレオ様との感動の再会だったのに」


 地面に背中を打ちつけたメリッサは素早く立ち直って落とした剣を拾い、自分を放り投げた馬型の魔人――エクウスゼノクを睨みつける。先ほどまでの動揺からは既に完全に脱し、彼女は冷静にこの状況を捉えて何とか対処しようと素早く思考を巡らせていた。


「動じないのか。随分、肝が据わった女だな」


 ラシードも遅れて立ち上がり、ゲルトが変身したエイのような魔人――ライアゼノクに曲刀を向けながらメリッサの方を横目で見て言う。


「それとも、こいつらのことは前から知っているから、ということか?」


 メリッサは意味深な笑みを浮かべて答えようとしたが、すぐにエクウスゼノクが興奮したように大声で叫びながら体当たりをしてきたので言葉を発するのをやめ、大きく横へ跳んで回避する。


「俺は……俺は……グァァァァッ!!」


「やっぱり理性を失っているわね。戦士でもないただの農民なら無理もないわ」


 エクウスゼノクは狂乱し、ただ湧き上がる破壊の衝動に駆られて激しくメリッサに攻めかかった。一方のライアゼノクにも元のゲルトの自我は見て取れず、まるで泥酔者か夢遊病者のようにふらふらとした足取りでラシードの方へにじり寄ってくる。


「やっぱりって、一体どういうことなんだ。分かってるなら早く説明してくれ」


「この状況で? 話せば長くなるから無理よ。それより私の方があなたに訊きたいことが山ほどあるんだけど」


「こっちも無理だな。俺なんかに何を訊きたいのか知らんが、呑気に答えている間にこいつらにぶち殺されてしまいそうだ」


 そう言って駆け出したラシードは渾身の力を込め、近づいてきたライアゼノクの右肩に曲刀を思い切り叩き込んだ。だが通常の人間ならば腕を切断されるほどの強烈な一撃を受けても、岩のように頑丈なライアゼノクの体には傷一つつかない。舌打ちしたラシードは、ゆっくりと後退してメリッサの隣まで戻った。


「だったら質問を変えよう。まるで神話の英雄譚のような、この常識外れの窮地を脱する方法は?」


「それは――」


 その問いならば今すぐにでも答えられる。そう言わんばかりの顔でメリッサが口を開きかけた刹那、エクウスゼノクは大きく息を吸い込み、口から緑色に輝く炎を二人に向けて吐き出した。


「くっ……!」


 これまでか。メリッサが拳を握って右手を振り上げ、何か奇妙な構えを取ろうとしているそのすぐ横で、ラシードは死を覚悟した。だがその時、上空から飛んできた白い光がエクウスゼノクの熱線に横から命中し、激しい爆発を起こして対消滅させたのである。


「何っ……!?」


 再び空から降ってきた光線がエクウスゼノクとライアゼノクを撃ち、爆発を起こして吹き飛ばす。驚くラシードとメリッサの前に翼の生えたもう一体の魔人が空から舞い降り、砂煙を巻き上げながら軽やかに着地した。


「鳥の魔人……?」


 二人の方をちらりと一瞥した鶴のような優美な白銀の鳥人――グルースゼノクは左右の腕に生えた翼を羽ばたかせて揚力を作り出すと、それに乗って目にも止まらぬ速さで地面の上を滑空した。向かってきたライアゼノクを撥ね飛ばして転倒させたグルースゼノクはその勢いのまま、続けてエクウスゼノクに飛びかかってすれ違いざまに手刀を浴びせる。


「消えなさい。悲しむべき罪の仔よ」


 氷のような冷たさを帯びた若い女性の声で、グルースゼノクはそんな死刑宣告をエクウスゼノクに向けて発した。着地したグルースゼノクの掌に白色の大きな光の球が生成され、彼女が右手を突き出すと、高熱を帯びたその魔力の弾丸は凄まじい速度でエクウスゼノクに目がけて飛んでゆく。


「グガァァァッ!!」


 命中した光弾はエクウスゼノクの硬い装甲を打ち砕き、大爆発させてその全身を粉々に吹き飛ばした。無言のままグルースゼノクは立ち昇る爆炎を見つめ、それから鋭い目つきでライアゼノクの方へ振り返る。怯んだライアゼノクは逃走し、アイン・ハレドの村の水源となっている泉の中へ飛び込んで姿を消した。


「……来るか」


 グルースゼノクが今度は自分たちの方に突き刺すような視線を向けてきたので、ラシードとメリッサは同時に身構えて応戦の構えを取った。だがグルースゼノクは二人に何かを言うこともなく翼を広げ、そのまま空の彼方へと飛び去ってしまう。


「何だったんだ。今の奴らは……」


 悪夢を見ているか、あるいは幻想の世界にでも放り込まれたかのような、この世のものとも思えない一連の出来事であった。何かを知っている様子のメリッサに改めて説明を求めようとしたラシードだったが、遠くから聞こえてきた鬨の声を耳にして、残念ながら今はその時間がないことを悟る。


「あっ、どこへ行くのよ!」


 踵を返したラシードが自分の馬に飛び乗ったのに気づいて、メリッサは慌てたように声を上げて彼を呼び止めようとした。


「なかなか楽しい勝負だった。また会おうぜ。伯爵さん」


「待ってよ! 訊きたいことがあるの。あなたはレオ様……昔、リオルディアにおられたレオナルド・オルフィーノ様じゃないの?」


 必死に発したメリッサの問いかけに、ラシードは馬上で一瞬わずかに首を傾けて考え込み、それから答える。


「言っただろう。俺はマムルークのラシード・アブドゥル・バキだ。レオナルドなんて名前じゃないし、お前と同じリオルディア人でもない」


「じゃあ、あなたがつけているその首飾りは……?」


「どうやら邪魔者が来たようなのでな。悪いがゆっくり話している暇はない」


 メリッサの言葉を遮るようにそう言うと、ラシードは顎を動かして遠くの平原を指し示した。砂塵を濛々と巻き上げながら、神聖ロギエル軍の援軍がこちらへ向かってくる。その数は目測で一万を超えており、寡兵のラシード隊としては彼らに捕捉されてしまっては一大事である。


「退却だ! 全軍退け!」


 ラシードの下知で、固唾を呑んで一連の成り行きを見守っていた配下のマムルークたちもそれぞれの馬に跨り逃げるように村から撤収してゆく。なおも追いすがろうと声を上げるメリッサに構わずラシードも手綱を引いて馬を駆け出させ、部下の将兵らと共に疾風の如く去って行った。


「レオナルド……レオ様……違うって……でも」


 後に残されたメリッサはまだ信じられないという心境でそう呟きながら、配下の兵たちに追撃の命令を出すのも忘れてただ呆然とその場に立ち尽くしていた。

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