奇麗

 私は、私の人生において、初めて楽しみを見つけたのだ。有象無象には到底理解出来ぬだろうが、私は今幸せなのだ。だが、その幸せは一瞬で過ぎてしまう。彼女の喰事でのみ見られる芸術は、どうすることもできない。私は後一年程でこの大学を去ってしまう。その芸術を永遠にするには、彼女を手に入れなくてはならない。写真や絵画に収めても良いのだが、実物を見てしまった以上、劣化版を見る気など、さらさら無い。

 この前は臓物の盛り合わせチョップドサラダを食べている光景を眺めたが、私は、彼女が、一つの臓器を喰べるところを見たいのだ。あんなぐちゃぐちゃな臓器ではなく、始め、整っている物が、彼女によってぐちゃぐちゃになるのが見たいのだ。先ずは、やはり、心臓トマトか。彼女の歯が、その脆い心臓トマトに圧力をかけ、その実が潰れ、中から血液胎座が滴り落ちるのを、この眼に焼き付けたいのだ。メスナイフで切り裂き、四爪フォークで突き刺し、口まで運ぶなら、きっと言葉で表すことの出来ない、素晴らしい芸術が見られるだろう。

 取り敢えず、彼女に心臓トマトを振る舞うため、彼女を家に入れる必要がある。何も調理していない心臓トマトを提供する店など、存在しないからだ。まぁ、勉強にでも誘えば心配ないだろう。幸いにも、私の家には多くの医学書がある。医学生にはありがたい筈だ。


 私の芸術家としての活動の決行を計画してから数日が経った。専ら私は、彼女を探す事に夢中になっていた。勿論講義には出席するが、それ以外は、ひたすらに彼女を探している。そして困った事に、なかなか見つからない。始めは、顔が壊れた愚かな人間の中から、整った顔の人間を見つけ出す事など、私にとっては容易いと思っていたが、如何にも見つからない。思い返せば、彼女の一方通行しか、記憶が存在しない。私から会うというのは難しいかもしれない。

 私は全ての講義が終わり、一人ベンチに座っていた。流石に歩き疲れたのだ。医学部の一年から四年の必修講義を調べ訪れてみても、彼女の姿を、一瞥すらしない。絶望だな。

「河合さん、何をしているのですか?」

ああ、漸く見つけた。やはり彼女からの一方通行でしか会えないらしい。

「歩き疲れたから座っていただけだ」

さてどうしようか、どのようにして私の家に来るよう誘導しようか。

「隣座っても?」

「構わないが」

「ありがとうございます」

はぁ、やはり他人と接するというのは、とても疲れる。

「あの、河合さんにお願いがあるんですが…」

「何?」

お願い。くだらない理由なら却下しようか。いや、やはり叶えよう。どうにかして彼女をコントロールしなければならない。多少の不愉快は我慢すべきか。

「この後、河合さんの家に行って良いですか?」

これはこれは、私にとっては幸運な要望だ。だが。

「何故だい?」

直ぐに頷く程愚かでは無い。人は打算無しに行動しない。彼女の目的が判るまでは、様子見だな。理性の皮を被った本能で動く獣風情か、それとも真面な人間か。

「勉強を教えてもらいたくて」

「私の家である必要は?」

「河合さんは、公共の場にいる事を嫌うと思って」

概ね正解であるが、どちらかと言えば、人がいるのが嫌いなのだが。

「なるほどねぇ…良いよ。少しくらいなら。晩御飯も、粗末な物で良いなら出そう」

「ありがとうございます」

彼女の欲望は、人間のものであると判断した。物事が上手くいくと、こんなにも良い気分なのか。これで、私の芸術は完成の一歩手前だ。


 私の部屋では、別段何事もなく、唯々知識の収集に没頭した。やはり勉強というのは良い。彼女もなかなかに賢い故、余り不愉快には感じない。さて、そろそろ私の芸術を始めよう。

「すまないが私はお腹が空いた。心臓トマトを食べるが…君もどうだ?」

「良いですね、蕃茄トマト。私も頂きたいです」

実際、蕃茄トマトという野菜は素晴らしい。美味な上に、健康に良い。まさに「万能の実」というべきだろう。此れを食べない理由など考えられない。さて、用意するか。私は紅い実と、それを食むための道具のみを皿に乗せた。

「どうぞ」

「…そのままですか。それに、ナイフとフォークって…」

「すまない。私がその食べ方を好いているのだ」

「そうですか、まぁ、良いです。では、頂きます」

「頂きます」

もうすぐだ。刹那の後、私の芸術が、そこに完成するのだ。

 彼女は、左手でその四爪フォーク心臓トマトを突き刺し支え、右手でそのメスナイフを入れ、その心臓トマトの片割れを裂き、そのまま彼女の口に運んだ。そして彼女の歯が、血液を出しながら、その心臓トマトを潰していく。

 美しいなぁ。一切れだけで、私は高揚した。次の一切れはさらに大きく、本当に心臓を潰しそうだ。

 心臓トマトを食べるお前よ。お前はどうして美しいのか。その今にも潰れて、紅の水胎座が滴り落ちる寸前のそれを、鼓動が止まりそうなそれを、なりふり構わず貪り喰うお前は、どうしてこんなにも美しいのだろうか。

「ご馳走様でした」

おや、もう食べ終わってしまったのか。やはり、至高の芸術は永遠で無いのか。いや、だからこそ、これ程までに美しいのか。まぁ良い。彼女が存在する限り、いつでも見れるだろう。

「河合さん。満足して頂けましたか?」

「ああ。やはり心臓トマトは美味しいな」

勿論、彼女に不審と思われないため、私も食べていた。

「いいえ。私が聞いているのは、味なんかではありません」

「どういう事だ?」

彼女は一体何を言っているのだろうか。全く理解出来ない。

「私が心臓を食べる姿を見てどうでしたか?」

私は一瞬驚いた。だが直ぐに平静を装った。私では無い彼女が、正常であるはずの彼女が、今はっきり「心臓」と言ったのだ。

「何を言っているのか、よく分からないのだが」

「私を家に入れたのは、その光景を見たかったからなのでしょう?唯の二回会った、正体もよく分からない人間を、貴方が家に入れるなど、普通ではありません」

平静を装え、平静でいるんだ。理性的であるのだ。

「貴方が見ている世界で、私は唯一の存在だったのでしょう?貴方の執着は、当然です」

理性を保て。私よ、理性的であるのだ。

「どうですか?貴方の芸術は?」

「感想は?」

私は平静を装い、無言を貫いた。

「…こんな時間ですか。では、私は帰ります。さようなら」

 私は常に理性的であった。だから私は、彼女が振り向いたその瞬間、彼女が用いていたメスナイフで、頚動脈を裂いた。彼女の鮮血で塗られた床に、私は唯立っていた。理性的だからこそ、彼女を殺したのだ。でないと、私が狂ってしまう。私が私でなくなってしまう。

 だが、私の視界には、もう息をしない肉塊がある。この事実は消えることは無い。私は理性に従い、自首する事にした。私は近くの交番に行き、「人を殺してしまいました」と言った。

証拠として、彼女の血がついたメスナイフも持参した。だが。

「本当に殺したの?人を?綺麗だけど、このナイフ」

そんな筈はないと思い、私もナイフに目を落とした。だが、何故であろうか、そのナイフは純銀であった。

「たしかに殺したんです。家に死体があるんです」

「じゃあ、今から君の家に行くから。悪戯なら許さないよ」

悪戯なものか、馬鹿馬鹿しい。貴様のような無能に時間を割くだけでも不愉快だというのに。

 私と警官は、私の家にいた。そこにある彼女の亡骸を確認するために。だが、彼女はそこに無かったのだ。床を紅く塗った血も、彼女の持ってきた鞄も、彼女の痕跡全てが消えていたのだ。

「やはり悪戯じゃないか。もう帰らせてもらうよ」

何処にでも行け、肉塊が。

「どういう事だろうか。彼女は生きていたのか?いや、私は死んでいるのを確認した。した筈だ。全ての痕跡が消えた?そんな筈はない、だってそこに、何も無い皿が二枚…」

そこにあったのは、私が食べた蕃茄トマトが乗っていた皿と、綺麗な蕃茄トマトが乗った皿の二枚があったのだ。しかも、それは紛れもなく蕃茄トマトなのだ。私の眼に映るそれは、心臓なんかでは無く、正真正銘の蕃茄トマトなのだ。

 私はその紅い実を手に取り、口に入れた。

「…美味しいな」


 後から分かった事だが、彼女、八咫やあた 俐凰りおという人間は、存在しなかった。大学の名簿を調べたが、そんな名前は無かった。恐らく、彼女は、私が作り出した幻想なのだろう。イマジナリーフレンドと言ったか。きっとそれだろう。悲しいものだ。前は否定したが、私は彼女を好いていたのだろう。この壊れた世界で、たった一人の正常な人間。そして少しばかりの知性。私の理想であった。だからこそ、幻想なのだろう。私の理想を、私の世界に作り出してしまったのだ。惜しいな。初めて恋した人間かもしれないのに。

 それから、私の世界が少しばかりましになった。というのも、食物が正常になったのだ。食感も、人間を食べているようには思わなくなった。そして、野菜臓器が野菜に戻ったのだ。これは少しばかり寂しいものだ。彼女との記憶が薄れてしまう。

 

 私は大学を卒業したら、画家になろうと思う。私は記憶だけは良い。だから、あの芸術を、完璧とは言わないまでも、再現する。彼女は、私の中で生き続けるのだ。

 私の愛した者を、永遠に。ああ、楽しみだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

蕃茄って美味しいよね テラ・スタディ @Teratyan

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ