視界に要る君
ある夏、私は大学内のカフェで珈琲を飲みながら、精神医学の本を読んでいた。土砂降りだからであろうか、私が今いるカフェは、店員を除けば私のものだった。私にとって雨音は喧騒の内では無い。人間の声に比べ、自然音は、その神秘性からかは分からないが、心地よいものであった。いや、人間の発する声が、私にとって不快であると思ってしまう故、相乗効果で私の評価が上なだけであろうか。
カフェに入り浸り、一時間かそこらが経過した具合、何杯も頼んでいるとはいえ、流石に迷惑だろうと思った私は、帰り支度を始めていた。といっても、医学書とノートを鞄にしまうだけで、支度というのは烏滸がましいかもしれないが。だが、その支度は、私の目の前に座ったある女性によって、無駄な行為となってしまった。
「相席良いですか?」
私は正直吃驚している。というのも、彼女が店に入店したことに気づかなかったのだ。人間の動向にはどんな状況であれ目を光らせている私が、彼女が目の前に現れるまで、存在を認識していなかったのだ。それ程までに医学書を読むのに夢中であっただろうか。
「他の席空いてますよ」
そう答えておいた。正直に言えば、私は相席というものが嫌いである。しかも見知らぬ女性となど、気を遣わなければいけないだろう。
「今この店には、私と貴方しかいません。話し相手が欲しいのです」
何だこの人、馬鹿なのか。帰り支度を始めている人を拘束し、「話し相手が必要だから帰るな」と言うなど、非常識にも程がある。
「君の思惑はどうであれ、私は帰りたいのですが」
「貴方、いや河合冥仁さんは勉強が好きなのでしょう?カフェというのは元々、賢しらな者達が議論を展開する場所。どうです?私と学問の話をしませんか?」
この時私は初めて彼女の顔を認識した。私がその顔を見ると、普通はバラバラに砕けてしまうのに、何故か彼女はその造形を保っていた。
「何故君は私の名前を知っているんだい?」
初対面であるはずなのに、名前を言い当てられた事実に、若干の恐怖を感じた。
「私は大学の後輩ですから。それに、河合さんは医学部の有名人ですからね」
成る程。私は同級生すらまともに記憶していない。まして学年が違う人など、誰も知らない。故に、こんな奴いたかどうかなんて知らないが、一方的に知られているのは怖いものだ。それに、医学部で有名だんて初めて聞いた。この後輩の主観か、本当に客観的事実なのか。
「そうか、それで、君の名前は?」
「
そう言って彼女は自前のノートに名前の漢字を書き、私にそれを差し出した。別に興味は無かったが、実際見てみると意外なもので、珍しい漢字だなと思った。そして内心小馬鹿にした。此奴が鳥頭でなければ良いが、と。
「話をするのは別に良いが、何の話だ?医学か?」
「おや、意外です。断られると思っていました」
「この店に居続けること自体に不満はない。帰ろうとしたのは、単に店が迷惑するだろうと思ったからだ。それに、医学部なのだからそれなりに賢いのだろう?馬鹿な奴と会話するのは御免だが、君ならまだましだろう」
「そうですか。ではお聞きしますが、河合さんは恋愛についてどう思いますか?」
此奴ならましと言った私の方が馬鹿だったかもしれない。結局この歳の女学生というものは、色恋沙汰で時間を浪費する愚かな生き物なのだ。今目の前にいる肉塊も、そいつらと変わらない。
「…はぁ。くだらない」
「そうですねぇ。では、恋愛は人生において有用だと思いますか?」
「大抵の人には必要だろうな。感情と本能で動くような、脳が欠如した動物には有用だろう。その愚者どもは、種の保全という観点から見れば優秀だろうが、人類としては劣っている。要は、家畜と変わらない」
「辛辣ですね。相変わらず」
「私がそうでないからな」
「つまり結婚しないと?」
「主観ではあるが、自由が奪われるデメリットがあるくせに、メリットは一つもない。まぁこれは、愛する人と一緒にいるとか、その他諸々の一般的な幸福を、私が幸福と思わないためであるが」
「女性を素敵だと思ったことないんですか?」
「私はマザーグースではないから、無いな。そもそも、相貌失認にそれを求めるのは無謀だろう」
「性格とかは?」
「それが分かるほど話したことがない」
対話としては良いが、話題が話題だな。
「狂ってますね。河合さんって」
彼女の言葉は、昔ならナイフとなっていただろうが、今では何も感じない。自分が狂っていること。もう十分に理解しているつもりだ。だが私は、感情で動く愚かな人間よりは優っていると確信している。別に問題はない。
「私が狂っていると言う君も、私からすれば、壊れているとしか言えない」
「そうかもしれません。そろそろ行きます。楽しいお話ありがとうございました」
そう言って彼女は店を出て行った。入れ替わりで他の客が入店してきたので、私もそろそろ帰るとする。邪魔だろうから。
私との会話が楽しいと言っていた彼女は、やはり壊れているだろう。何が楽しいのか、全く分からない。お世辞だろうか?だとすれば納得だが、なら話しかけるなと言いたい。だが、まともに認識できた人間は初めてだ。その事実には、私も嬉しいと言わざるを得ない。
ある日、午前の講義が終わり、昼食に
「相席良いですか?河合さん」
その時私の目の前に現れたのは、以前カフェにいた彼女だった。名前は忘れた。混んでいることもあり、今回ばかりは斥ける理由も無かったため、嫌々ながら承諾した。
「君も同じものか」
彼女も私と同じ、チョップドサラダを食すようだ。私には臓物の盛り合わせにしか見えないが。
「はい。美味しいですよね。これ」
「…そうだな」
味は美味しい。これは間違いない。間違いないが、不味いのだ。
「いただきます」
そう言って彼女は箸を取り、
「ご馳走様でした」
気付かぬうちに彼女の食事は終わっていた。もっと見たかった。
「では、また」
私より先に食べ終えた彼女は、次の瞬間にはもういなかった。そんなことは気にせず、私はあの光景を思い出しながら、食事をすることにした。写真にでも残しておけばよかった。
家に帰り、夢に落ちるまでの間、ずっと考えていた。何故私は彼女にあんな感情を抱いたのであろうか。恋愛か、いや、食事していない彼女など、どうでもいいと思っているこれは、恋愛なんてものからかけ離れているだろう。
辿り着いた結論は、彼女の食事風景は芸術であるからだというものだ。その光景は、著名な芸術家の作品なんか塵と思えるほど、私の心を揺さぶる程の作品であった。また見たい。彼女が
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