蕃茄って美味しいよね

テラ・スタディ

心臓と蕃茄

 心臓を食べるお前よ。お前はどうして美しいのか。その今にも潰れて、紅の水が滴り落ちる寸前のそれを、鼓動が止まりそうなそれを、なりふり構わず貪り喰うお前は、どうしてこんなにも美しいのだろうか。


 傘を雨天に刺し、詰まらない景色を視界に捉え、私は私の通う大学を目指して歩いている。四年も通えば、天に聳える高層ビルも見慣れてしまい、もはや私には、唯の人間が押し込められた玩具箱だとしか思えない。この大学に入学し、この辺りに住み始めた頃は、私の首を折り曲げながらその頂上を見ようとして、その摩天楼を眺めていた記憶があるが、今はもう、人間も、ビルも、信号も、何もかもが朧気で、詰まらなくなってしまった。向こうから歩いてくる人間も、存在することは認識してはいるが、どのような表情かは何も見えない。そんな感覚である。向こうで騒ぐ愚かな女学生も、携帯電話を見ながら歩く馬鹿な人間も、皆私の視界に入れたく無いのだろう。私は馬鹿な人間が嫌いだ。いや、詳しく言うのであれば、理性を排し、感情の赴くままに行動する愚かな人間が嫌いなのだ。彼奴らは他人の領域を、お構いなしに侵略する。他人の自由など考えず、法を犯し、他人の自由を侵害する。要するにレベルが低い人間なのだ。そんな奴らは、横断歩道で車に轢かれ、その生を終了させれば良いのにと思う。喧騒など、この世から消失してしまえば良いのに。

 大学に着いてからというもの、私は憂鬱であった。此処に来る時、愚かな人間達を垣間見たせいであろうか。まぁどうでも良いが、愚かであるが感謝すべき人間は、私にも存在することを思い出した。私は大学で医学を学んでいる。「お前は頭が良いから国立医学部行くよな?」と言った、愚かで無能な教師の指図である。別に私は勉強が出来れば何処でも良かったのだが、その愚師のその一言で、私は今此処にいる。これは後で知ったのだが、私を売りに、その学校は人気となったらしい。無能な教師しかいないのに、授業を受ける学徒が哀れである。そんな経緯があり医学部に進学した。医者になりたいのかと問われれば、否定せざるを得ない。私は学ぶことが出来れば、特に執着はしないし、別に後悔はしていない。やはり医学部というのは賢しらな人が多いようで、私の同級生は、少なくとも愚かではない。恐らく、理性的で成熟した人間であるからだろう。かと言って友人などという関係にはなりたくないが、話し声が雑音ではなく、言葉として聞こえる分、まだマシであろう。

 講義終わりに、山村雅俊やまむらまさとしという、数少ない私の話し相手と、夕飯を食べに来ていた。私たちがいる店は、野菜が美味しく、好いている。最も野菜を食べているのは唯一私で、彼は豚肉定食とやらを食んでいる。

「なぁ河合、何でお前野菜しか食わんの?」

「この店のサラダが美味しいから」

「だが、お前が肉やら魚やらを食ってるところ見た事ねえよ。あと米もか」

「米は時々食べるよ。肉や魚は嫌いなんだ」

「へぇ、珍しいな。今の人にゃあ。味か?」

「食感だよ。其れ等を食べると、人間を食べているようで、嫌なんだ」

肉を噛むと、人間の皮やら筋肉やらを喰っている気分になる。私にも何故だか分からない。実際に人間を喰べたことなど、ありはしないのだが、何故かそう思ってしまう。魚は、たとえ身のみを食べていても、骨を食べているように感じる。食感も硬く、気持ち悪くなってしまい、嘔吐の気が出てきてしまうのだ。だから、私は野菜を食べるのだ。

「馬鹿か、気持ち悪いこと言うな。不味くなるだろ」

「じゃあ、私に話しかけなければいい」

「はぁ、お前みたいな奇人が、うちの学部のトップだと思うと、世も末だなぁ」

「ああ」

学校の成績など、私は気にしたことが無い。私は、知を探求することに、序列など存在しないと思っている。最も医学においては、馬鹿な奴に人命を預けることのないようにする為には必要だろうが。そう考えると、医師国家試験に禁忌肢が存在する理由も納得であろう。

「でもお前、医者になる気ねえだろう?」

「ああ」

「かーー、勿体ねぇ」

寧ろ、私が医者にならなくて良いじゃないか。私には患者を救いたいと思う心も、金を稼ぎたいという思惑もない。たとえ私にしか治せぬ病気だろうと、一生遊んで暮らせるような多額の金を積まれようと、勝手に死ねと思う。お前らが私を救わないんだ、私がお前らを救う義理も無い。

 私たちはご飯を食べ終え、店を出た。私は別にいいと言ったが、山村の奢りとなってしまった。施しを与え、自分を優位の存在だと、優越感に浸っているのだろうか…詰まらない。私は車に乗れなければ自転車にも乗れない臆病者である。故に自分の足で帰宅している。一時間程かかるが、私にとっては思考と虚無の螺旋の時間である。その螺旋階段は無意識のうちに終着点にいる。思考はいつ如何なる時であろうと行うことができる。私は思考に時間を割くことは、実に有意義な過ごし方だと思う。だが、虚無の時間に生産性などない。私の悪い癖ではあるが、その時間に浸ってしまう癖を一刻も早く治さなければとは思う。だが、現実そう上手くもいかないのだ。


 別段振り返らずとも自明だが、私は恐らく精神異常なのだろうと思う。いや、病気と言うべきなのだろうか。もう、私が見ている景色は、通常のそれと違うのだ。人間を喰うと思うようになってしまうだけでなく、私の視界を蝕む幻想が私の中に存在するのだ。私は貴方と対面した時、きっと貴方が分からない。たとえ貴方が最愛の人でも、誉高き賞を取った偉人であろうと、「はじめまして」と言うだろう。人の顔が判別できないのは相貌失認という立派な病気だ。医者には伺ってないが、既知の顔を見ても、それが誰なのか分からないのだ。いや、というより、砕けたガラスのように、顔がバラバラに映るのだ。よく夕食を共にする山村でさえ分からなくなってしまう。だが、この病気に罹ってしまったことは特に気にしてはいない。別に覚えていなければならない人などいないし、声を聞けば誰だか判別できる。だから、別段どうでも良いのだ。だが、野菜だけは変わって欲しくなかったものだ。肉や魚、そういう野菜以外の食べ物は、噛むと人間を噛んでいると認識してしまい、私が受け付けようとしなくなってしまったが、野菜は野菜で逆の問題がある。口に含まれてしまえば何も問題はないのだが、それまでの過程が非常に耐え難いものなのである。というのも、私には野菜や果物が人間の一部に見えているのだ。葡萄は肺胞、生姜は胃、胡桃は脳、大豆は腎臓、セロリは骨、数多の野菜や果物が人間の中身に見えてしまう。中でも私が参っているのは、私が毎日食べていると言っても過言ではない蕃茄トマトである。蕃茄は何に見えているかというと、皮肉にもそれは人間のエンジンたる心臓である。しかも、動いているわけではないのに、鼓動する心臓が見えているのである。今ではもう食べれるようになってしまった。無論、初めは気が狂いそうであった。否応にも、私は、生きた心臓トマトを頑丈な歯で押し潰し、ぐちゃぐちゃになって紅く染まるその光景を、想像してしまう。それを想像しないようにするのにどれだけ時間をかけたのか、全く分からない。そして、私がこの様な幻覚を見る様になってしまった原因も定かでは無い。精神的ストレスと医学書の読み過ぎであろうと私は推測している。そんな症例聞いたことも無いが。

 此れは、この症状は私の野菜だけでなく、他人の野菜にも反映されるらしい。サラダを食べる女学生の器をふと覗いてみると、心臓トマトコーンが美しく盛り付けられていた。これがまた可笑しいもので、あの硬い歯が容易く潰れてしまうではないか。私は自分の食べる場面を見ることは出来ない故、他人の食事を垣間見るのは下品な行いだが、面白い発見の為に観察するのである。だが、それを面白いと思ってしまうのは、私が狂っている証拠であり、もう踵を返すことも出来なくなってしまったことを示している様で、心が痛かった。常人ならば、心臓が潰れ、歯が砕かれ、骨が裂かれ、そんな光景を見れば、まず間違いなく正気を失うだろう。だが、私は、もう平静である。


 

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