第4話 基礎ドグマ

 警報からしばらくのち、気密扉は開かれ計都は閉鎖区画から解放された。

 閉じこめられて餓死、そして行方不明扱いという最悪の展開は免れたが、大挙してやってきたのは乗組員の中でも上級幹部と呼ばれる者たちばかりだった。

 違う意味での修羅場がはじまりそうだな、と計都はほこりまみれのまま視線の集中砲火と無言の威圧感をくらい、言い訳のひとつも口にする間もなく引きずられて行った。

 拘束された計都はある部屋へ放りこまれる。船には独房などの施設がないのでそこは平常時は会議などで使われる多目的部屋だ。航宙船内では他者を隔離しておくための施設などめったに必要とされないうえに、限られた船内のスペースを奪うのでそんな無駄な空間は設計に入っていない。

 監獄代わりになった部屋の中、計都は机に突っ伏し穴が開いたような息を吐く。

「……疲れた」

 時間の経過はわからないが、感覚的には数時間みっちりしぼられた。

 事情聴取は主に閉鎖区画に侵入した経緯とフィーについて。

 船の幽霊については上級幹部には周知のことだったので、そのあたりで計都の正気が疑われることはなかった。

 むしろ幹部たちが難しい顔をして本気で幽霊について語っている姿は事情を知らない計都には高度なジョークを言っている様に見えた。そこで笑うほどゆるい精神構造性は持ち合わせていないので、ひたすら大人しく従順に聞かれたことをありのままに答えていく。

 警報が鳴ったのは計都が基礎ドグマのある閉鎖区画に入ったからだったが、それにしては対応が遅かった。どうやら普段からフィーが出入りしているので最初は気づかなかったようだ。後になって動く質量がふたつあるのでおかしいとなったらしい。

 彼らは険しい顔をしたまま計都の疑問については何も答えずに行ってしまった。ひとりだけ部屋に取り残された計都は何もすることがないのでぼんやりと室内にあるものを端から端まで見て、椅子やテーブルといった名称を告げて数えたら、もうすることがなくなってしまう。

 机に顔を置いたまま、計都はただ眼前の光景を視界に入れていた。疲れているはずなのだが意識はむしろ冴えきっている。

 身じろぎひとつしないまま、思考だけを加速度的に回転させる。

 この船は、おかしい。

 これまでは片道だけでも航宙経歴が欲しくて目をつぶってきたが、さすがに限界だった。むしろなぜこの状況で平然と運航を続けていられるのか。一度ふたをしていた疑問箱が開いてしまうと途端に頭の中いっぱいに質問が満ちあふれてしまう。

 女神と呼ばれる幽霊。小さな子供のようなロボット。閉鎖区画。閉ざされた扉の奥にある、再構築された基礎ドグマ。配管やケーブルが入り組んだ船内。

 いくら初心者マークが外れていない計都でも、おかしな点はいくらでもあげられる。船の構造や設計思想がそれこそ船によって大きく異なることを理解していても納得はできない。むしろ半端に知識があるからこそ違和感が鼻につく。

 この船はおかしい。今度は核心を持ってそう思えた。

 壁を叩く音に思考が中断される。顔を上げると戸口に機関長が立っていた。

「よお、おつかれさん」

 食べろ、と差し出されたサンドイッチに計都は椅子を蹴って飛びついた。すでに半日以上飲まず食わずだった。落ちついて食べろと置かれたコーヒーは、一気飲みするには熱そうだったのでひとまず食欲を優先させることにする。

「災難だったな」

「そうとも限らないですよ」

「強気だな」

 計都は口中のものを飲みこみ、遅れながらも差し入れに対して礼を言ってから答える。

「少なくとも、この船を下りるまで俺の解雇はありえないですから」

 それは彼を取り囲んだ者たちから最初に保証されていた。話は聞くが、このまま乗員として目的地に着くまで働いて欲しいとむしろ向こうからお願いされる。この部屋からもあとの対応が決まれば出してもらえるが、緘口令で終わりそうだ。

「まあ、この船は着いたら廃船だからな。その分、乗員はぎりぎりだ、新人ひとりでも活動不可にしてみろ、すぐにどこかでしわ寄せが来る」

 計都を拘束し、監禁するのは簡単だ。だが到着まで彼の穴を埋める人員は補充されないし、閉じこめている以上、誰かが世話をする必要がある。だがこの船にそんな余剰人員はいない。むしろ足りていないのだ。

「こっちもおまえさんがいた方が助かるがね」

「あと、この部屋の中で何も生産的なことができないまま娯楽もなく発狂するっていう未来が消えたのは大きいです」

 それより、と計都は食べ終わったサンドイッチの載っていたトレイを脇によける。

「この船の昔話、聞かせてくださいよ」

 古参の機関長は、あきらめともあきれともつかない息を吐いたが、椅子を引いて計都の斜め向かいに座った。長くなるからな、と飲み物の用意も忘れなかった。



「前に少しばかり話したよな。この船はかつては移民船だったって」

 計都はうなずきを返す。ちらりと扉をうかがったが、機関長は今の世話係は自分だから、しばらくは誰も来ないと教えてくれる。

「輸送船ロビン・グッドフェロー号。その前身は、移民船アトランティス号。この船は地球を脱してのち、新しい大地を見つける前に船の基礎ドグマに深刻な問題が発生し、航行不能に陥った」

 計都もそのあたりはすでに知っていたが、あえて口をはさまず機関長が語るに任せる。

「基礎ドグマの停止。それがどれだけの悲劇を起こすか……想像できるか?」

「想像はできます。けど、実感はわかない」

 率直な反応に、機関長は怒るでもいさめるでもなく続ける。 

 基礎ドグマはシステムの基幹部分に当たる。このドグマが航路計算から船内の酸素供給、重力制御、他AIを搭載した機材の管理などの制御を一手に引き受けている。

 人間の頭脳に当たる部位の故障はつまるところ、船内の制御系が一気にダウンすることを意味する。宇宙空間内でそんな大トラブルに見舞われた場合の末路は想像するに易い。

 もし場所が大気と大地のある空間なら、たとえ無人の荒野でも直すまで少々お待ち下さいですんだかもしれない。だが分厚い隔壁の向こうは真空の世界。息を吐いても吸うことはできず、有害な紫外線や宇宙線、微細な宇宙塵にさらされてひとつの生命など簡単に終わってしまう。

 逃げ場のない状況で起こった事故。否、はたしてそれが不慮だったのか人災だったのかはもうわからない。

「だがこの船は、そんなどうしようもない状況でもどうにか持ちこたえた。急ごしらえだが新しい基礎ドグマを作り、それを利用して地球へ引き返した」

 すごい、と計都は感嘆の息を吐く。計都はシステム系に関しては専門外なのでくわしいことはわからない。それでも基礎ドグマを、最初から用意されていた代替機を起動させるならともかく限られた機材と空間と、そして何よりもタイムリミットがせまる極限状態で新しく作り上げるなど想像もつかない偉業に思えた。

 あれ、とそこで計都は疑問符を浮かべる。確かに偉業だ、とんでもないことだ。

「けど、そんなにすごいことが公には認められてない?」

 計都は船にあった当時の資料を読んでいたが、そのどこにも基礎ドグマを再開発した技術者を称賛する記事はなかった。あったのは、ただ事実を羅列したものだけ。

 素直に思ったままを吐き出しただけだったが、機関長は目を見開く。

「……そうだ、すごい技術だった。だが、あれは悪魔の所業だ」

 悪魔の所業、計都は鸚鵡返しに繰り返す。地球を離れても天使や悪魔、神という概念は消えずに残っている。ただそれを敬意や畏怖を伴って実感できるとなると話は別なのだが、特定の宗教観を持たない計都でも機関長がその例えを持ってきた意味は理解できた。

 機関長と相対する計都は、悪魔という単語を発した男の背後からにじみ出てくるような暗くて重い何かを感じて押し黙る。

 機関長の手は机上に置かれたコップを握りしめている。その手が小刻みに震えていた。何か嫌な予感がして計都はそれ以上話の先をうながすことができなかった。それでも聞きたいとねだったのは自分だったので、ここで終いにして欲しいともいえずに肩を落として小さくなるだけ。

 短い沈黙の後、機関長は続ける。

「基礎ドグマをいちから構築するには、機材よりも何よりも、時間が足りなかった。だから、それを……人間の脳と神経で代替したんだ」

 数秒間、計都の思考は空白になる。

 五秒経過してそこで呼吸していないことを思い出し、息を吸って吐く。そこでやっと機関長が告げた言葉の意味を反芻した。

「人間の……」

 それ以上は続けられなかった。機関長は半ば呆然としてしまった計都の様に哀れむような目を向けた後、淡々と続きを語り始める。

 もう、計都が理解しようとそうでなかろうとも関係ないとばかりに。

 基礎ドグマに致命的なエラーが発生した移民船内は、まず重力が消えた。次いで温度調整と酸素供給が滞り、食料の生産が停止、もしくは暴走する。

 さらに船内の緊急システムが移民の冷凍睡眠を解除してしまう。新天地まで眠っている予定だった者たちが次々と起きだし、目覚めた途端、暗闇に放り出され床に足すらつかない状況に発狂する。

 限られた空間内で暴動に次ぐ暴動が発生。救難信号を発しても、返事は絶望的なものばかり。

 船内は凝縮した地獄絵図と化す。

 誰もがその場だけを乗りきることにやっきになり、携帯食料のひとつをめぐって十人が死んだ。その十人を有機転換炉に放りこんで当座の食料を生産しようとしたが、炉の暴走で三十人が消し飛んだ。

 そうやって、暴動と船内システムの不具合により加速度的に人員が減り故障個所が増えつつある中、システムエンジニアとして乗りこんでいたある船員がひとつの案を提示する。

 今から新しい基礎ドグマを構築する。

 つきましてはその材料を提供していただきたい。

 エンジニアは材料がそろえば基礎ドグマ再構築にかかる時間を大幅に短縮できる可能性があると人々に訴えた。

 材料、つまり犠牲者。人身御供をエンジニアは要求したのだ。

 必要な材料は一人だけではすまないと聞かされ人々はおののく。だがすでに船内は吐く息も白くなり、説明している間にも誰かが死んだ。

 身を刺すような温度の中、彼らはエンジニアが必要とするだけの材料を供給することを決める。

 そして命の選別がはじまったが、その基準はあまりにも不公平だった。

 材料としてリストに入ったのは親のいない子供ばかり。

 元から冷凍睡眠装置に入っていたのは働き盛りの若い世代や、家族まとめてという構成で年配者は省かれていた。だが中には親や頼るべき親戚もなく、捨てられるようにして半強制的に装置に放りこまれた子供もいた。しかも暴動やシステムの誤作動で親を失った子供たちも船内に多数存在していたのだ。

 そんな、自身の置かれた境遇すらも理解できていない子供たちが大人たちの一方的な選別で生産性がないとされ、役立たずと判断され、あるいはこれがおまえの役割だったんだと優しくささやく。

 そうやって生者と死者の列に分けられた子供たちの後者は、必要な形に切り刻まれた。

 大多数の人間を助けるための、少数の犠牲として。

「そんな、そんなことが……」

 計都は全身を震わせる。指先は冷え、喉がしぼられたように声が出せない。

 その様に機関長は平板な目を向ける。

「おまえさんも見ただろう。閉鎖区画にあった無数の装置。あそこには、切り刻まれた子供の脳や神経が入っているんだ」

 急ごしらえで構築された基礎ドグマ。薬剤で人の脳や神経系を生かしたまま保存し、そこに微弱な電流を流して活性化させてその反応を計算領域として利用するというのが大雑把な仕組みになる。発案の基礎理論には、人工知能は元は人間の神経系反応を模したものというところから発展させている。

 ゼロから基礎ドグマを作ることは時間的に不可能だったので、人工知能のモデルになっている人間の脳そのものを利用して作業行程の短縮を図ったのだ。

 極限状況が生んだ、否、許してしまった悲劇。

「親は自分の子を隠し、技術者たちは自分たちはこれからのことを考えて生き残るべきだと主張した。彼らは口々に、身寄りのない子供たちを追いたてた。冷凍睡眠装置から放り出され、ここが宇宙空間であることすらわかってない子供たちに向かって貴重な物資や酸素を消費するだけの役立たずと罵り、蔑んだ」

 勝手なやつらだ、計都は冷えた身体の奥から燃え上がる怒りを感じる。

「どうせなら、全員平等にくじでも引けばよかったんだ」

 くじ引きという、ある程度の公平さが保たれた選別方法が存在することは計都も知っている。ただ火星ではほとんどの取引が電子上の決済で行われるため、くじ引きも確立操作可能とされ今ではほとんど行われていない。紙製のくじを引く、という行為はすでに死滅していた。

 ただ機関長はくじ引きを実際に知っている世代らしく、そうだな、と同意してくれた。

 息を吐き、ささくれだった気分を少しでも落ちつかせてから計都は顔を上げる。

「じゃあ、フィーは……あのロボットは、何なんだ」

 さてね、と機関長は息を吐いて身体を弛緩させる。

「あのロボットは、船の基礎ドグマが入れ替えられて再出発した後、しばらくしてから出はじめた。捕獲して解体しても、またどこかで材料を調達してあの形を作り上げてしまう。調べたところ、独立稼働ではなく新しい方のドグマが制御していることがわかった」

「新しい方っていうと……」

「子供たちの脳を代替にして、そして今も稼働している基礎ドグマのことだ」

 今も、という言葉に計都は胸をつかれたような心持ちになる。移民船が地球へ帰還ができずに火星へ着陸。それから輸送船へと改装されて航行を開始してから二十年。その間、子供たちは、子供たちだった一部は今も生き続けているのだ。

 たとえもう、走ったりしゃべったりすることができなくとも、すでに刺激に対して反応を返すだけになっていたとしても。

「じゃあ、フィーはその……犠牲になった子供たちだって言うのかよ」

 もう一度、機関長はさてねと返す。

「脳や神経を使ってるといっても、それは電子的な反応が欲しいだけ。記憶や経験まで引き継げるはずもない、というのが当時の見解だ」

 だが実際問題、フィーは移民船の時代から二百年の時を越えて存在し続けている。

「けど、フィーはそこにいるし。その、人格というか過去の記憶もある気がする」

「そうだな、模倣にしてはできすぎてる。だが当時は大騒ぎにはなったが排除することもできず、結局、閉鎖区画を作って閉じこめることしかできなかったんだ。その隔壁も、輸送船になったあたりで意味が忘れられて閉鎖区画の扉は開閉可能になった。それで、あれは船内を動き回るようになったんだ」

 それがロビン・グッドフェロー号に現れる幽霊の正体。

 あの不格好な機械のかたまりの中に人の心があるかどうかは計都の中ではさして問題ではない。いま彼を悩ませているのは、この船の行く先について。

 輸送船ロビン・グッドフェロー号。つまり元移民船アトランティス号は、この航路の終着点で廃船になる。

「……ドグマとフィーは、どうなるんだ」

 悲劇から生まれた存在は、終着点にたどり着いたその後はどうなるのか。

 そもそも、計都がこの部屋に閉じこめられた後、フィーはどんな扱いを受けたのか。

「どうにもならんよ」

 機関長は無感動に告げる。

「ロボットは目的地に着くまでは今まで通り、解体されるか閉鎖区画に押しこめるかだ」

 ただ、どの手段を取っても身体を再構築し、扉の開閉コードはすぐに暴いてしまう。そうやって小さなロボットは徘徊を再開してしまうのだ。船内制御を握っているのが基礎ドグマで、そのドグマが生みだしているのがフィーである以上どうすることもできない。

 完全な意味で基礎ドグマがある部屋を封鎖するという意見も過去には出たが、そうなると、メンテナンスを行うことすらできなくなる。

「ただ、基礎ドグマは船の解体と同時に廃棄だろうな」

「廃棄って、そんな……」

「いまさらひとつひとつのタンクをこじ開けて葬式をするのか。もうどれが誰かもわからないんだぞ」

「けど、いまさらでもいいからこんなことをやった連中に、その、罰を与えるとか世間に公開するとかできないのかよ」

「あの基礎ドグマを開発した技術者はとっくに亡くなっている。技術を継承した会社も、何年か前に倒産した。もう、あのドグマをいじれるやつは存在しないし詳細な資料も残ってない」

「だから、廃船にするのか。ただの証拠隠滅じゃないか」

 機関長は答えず自分に用意したコーヒーを飲みほす。計都も勢いで飲んだが、とうに冷めて酸味が舌に突き刺さった。

 ひと呼吸はさんだことで、計都はあることに気がつく。

「なあ、何で機関長はそんなにこの船や、フィーについてくわしいんだ」

 長年乗船していることを差し引いても機関長の言葉には奇妙なまでの重さを感じた。それこそ、当事者が語っているような。

 何気ない質問だったがどうやら核心をついたらしい。機関長は目を見開くと、中身のなくなったカップを見下ろす。面持ちにどこか悲壮な厳しさが浮かんでいた。

「……俺は、この船があの事故に見舞われた当時、冷凍睡眠でぐっすり眠っていた。叩き起こされ、何が何だかわからないまま混乱するやつらをながめていたよ」

 えっ、と計都は頓狂な声を上げる。

「じゃあ、機関長はこの船が移民船だったころの乗員だったのかよ!」

 機関長は首肯する。吐く息は重かった。一度顔を伏せ、それから語りだす。

 当時、機関長は六歳だった。両親と兄や姉と一緒に新天地を求めて地球から飛び出したが、目覚めた先は新しい世界どころか暗黒のただ中だった。

「母親が、俺や兄たちを囲いこんで離そうとしなかった。その向こうで引きずられて行く同い年くらいの女の子を見たよ。……あの子には、兄が二人いた」

 あの子、という単語に、計都は自分が次に告げる言葉の重さに顔が下がる。

「その女の子が、フィスカス」

 機関長がうなずくまで少しの間が必要だった。

 基礎ドグマが停止し、空調と照明が死に絶えた船内では毎日のように凍死と餓死で人が減っていった。だが死んだ肉体は有機転換炉に回され、数時間後には生き残った人々を温める食料や燃料となる。

 誰かが死ねば誰かが一日生き延びる、それだけわずらわしいいさかいも減る。

 言葉にはしないが、皆が皆、眼球だけを動かして次に弱る者を探していた。倒れて動かなくなれば即座に引きずり出し、抵抗の声がなければそのまま有機転換炉へ放りこむ。

 暗黒の船内は奇妙なまでの静けさに満ちていたが、誰もが誰かのことをよく観察していた。自分以外が死ねば自分が生きられると、虎視眈々と様子をうかがっていたのだ。

 それでもやがて限界が来る。いよいよもって、基礎ドグマがなくなったことによる不具合が限界に達し、船が圧壊するのが先か、船内の人間が凍死か窒息死、あるいは餓死するかの瀬戸際になった。

「もう、何も考えられなくなっていたころ……船が急に息を吹き返したんだ」

 いきなり明るくなった船内で、幼い機関長は目が痛むほど視界が白くなっても思うところは何もなかった。少し前に姿を消した母親がどうなったかも気に留める余裕はない。兄か姉のどちらかもいない気がしたが、いないのはどちらなのかもわからなくなっていた。

 その後は目覚めたときと同様に怒涛のように状況が動き、急に増えた食料と暖かく適度な気温を保つ船内で床に足がつく生活ができた。

 かと思えば、また冷凍睡眠装置へ放りこまれた。

 顔を上げた機関長は、唇を噛んでしめの言葉を口にする。

「次に俺が目を覚ましたのは、船が火星に降りて百年以上経ってからだよ」

「え。あ、そうか!」

 移民時代の初期は、今から二百数十年ほど前になる。アトランティス号が作られて地球を脱したのは移民中期。そして旅先で基礎ドグマが停止し、新たなドグマを構築してから航路を引き返してきたのだが、船が火星に降下してからすでに二百年近く経過している。聞けば機関長は八十に手が届く年齢だった。

 二百年前に六歳だった人間が、老境に入っているとはいえ存在している現実に計都は固唾をのむ。

 その世代のずれを機関長は苦笑交じりに種明かししてくれる。

「いくら働き手が欲しい火星でも、いきなり一万人もの冷凍睡眠装置に入った人間を受け入れるには荷が勝ちすぎていたんだ。少しずつ時間をかけて、何回にも小分けして解凍していったというわけだ」

 冷凍睡眠装置に入っていた者たちの人権はどうなるのかと計都は思ったが、それこそ大事の前の小事。急に小規模の都市に匹敵する人間を受け入れるには、当時の火星の基盤はまだ脆弱だった。

「全員の冷凍睡眠を解除して船を空にするまで、百五十年以上かかった」

 それだけ長期間にわたったのは受け入れ先の問題もあったが、安全に解凍するための技術的なコストが合わずに長らく放置されていたことが大きかったという。

「だからこの船が再利用されたのも、つい最近だったというわけだ」

 最近といっても二十年になる。計都が生まれる前の話になってしまうのだが、彼の四倍生きている機関長の感覚にしてみれば、計都にとっての五年くらい前に感じるのかもしれない。

「その……両親とか、兄弟がどうなったかって、わかってるんですか」

 機関長は首を振った。いつも通りの厳しい表情に変化はなかったが、声をいっそう落とし、姉は生きていた、といった。

「親と兄は、船内でドグマが再起動する前に亡くなっていた。姉は俺よりもずっと先に解凍されて、こっちが目覚めたころには死んでいた。調べたが、どうやら火星で新しい家族は持たなかったようだ」

 ただ機関長が語る内容も、彼自身、らしいとしか言えないものばかり。年月の経過と人数の多さに情報が散逸してしまい、アトランティス号に乗っていた移民の何割かの行方は失われていた。

 計都は機関長の過去に口元をゆがめ、あごを引いた。何も言えなかったし、何か言葉を発することすらためらわれた。

 だが機関長は時代がずれて目覚めてよかったこともある、と大した問題ではないとばかりに語る。

「時効だ」

 一定期間が経過し、権利関係が変動することで当時は秘匿されていた情報などが公開されることを指す。

「目覚めるのが他のやつらより百年ほど遅れたことで、俺は自分が乗っていた船を、過去の資料として調べることができたんだ」

 移民船アトランティス号については計都も容易に資料を集めることができた。だがもし機関長のいうように火星に降りた直後ではそれも厳しかったことだろう。

「俺はガキで、何も知らなかったからこそ自分の根源が知りたくなって調べたんだ」

 けど、と機関長は拳を握りしめ、知りたくもなかった、と吐き捨てる。

「自分の命が、同じ年の子供を踏みつぶして成り立っているなんてな」

 計都は何も返せなかった。言葉を見つけられないというより、自分の中が空白になってしまったようだった。

 そこに、沈黙ではなく振動が走った。

 机上でカップが揺れる微かな音に計都は腰を浮かせる。これまで乗船した中で経験したことのない状況だった。

「揺れた……。何だ、これ」

 事態を察知したのは、初心者の計都より機関長の方がずっと早かった。即座に壁面にある艦内通信装置に飛びついたが、パネルを操作する手はすぐに止まった。

「くそっ!」

 エラーと表示されている液晶パネルを叩く。

「艦内の通信が全部途絶してる。何が起こってるのかわからない状況だ」

 それでも機関長は素早かった。手持ちの機器からケーブルを延ばし、壁面のパネルに付属しているコネクタに接続して直接情報を精査しはじめる。

 計都にできたことは、機関長が放り出した杖を拾って後ろでうろたえていることくらい。

 数分後、計都はさらにまごつく羽目になる。

「おい、この船……航路を外れて行ってるぞ」

 その言葉に、計都は全身が凍りついたように硬直する。

 宇宙空間で航路を外れるということは、街中で道に迷うこととはまったく異なってくる。まず地面がないのだ。方向どころか上下すら見失ってしまえば、迷子になって泣くどころか永遠に果てのない空間をさまようだけ。

「そんな……」

 おののく計都に、引きちぎるようにケーブルを抜いた機関長が振り返って叫ぶ。

「落ちつけ新入り。まだ手はある」

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