第67話 幸せなまどろみ

私は見慣れた古びた茶色のアパートを見上げながら、感慨深くほうっと息をついた。


つい2ヶ月前までここで暮らしていたのに、まるで何年かぶりのように懐かしい。


私はアパート1階部分の1室のドアの前に立ち、ドキドキしながら、チャイムを鳴らした。


「あっ、はーい!」


母の弾むような返答に私は緊張のあまり、家族相手に丁寧語で答えてしまった。


「あ、あの、りんご…ですっ。」


「はいはい、ちょっと待ってねー!」


家の中でバタバタ走り回っているような小さい足音が聞こえて、ドアの向こうで、ガチャガチャ鍵を回す気配がした。


「りんごちゃん、おかえりなさい。」


ドアを開けてくれたのはツインテールにピンクのワンピース姿の小さな女の子だった。


ほっぺを薔薇色に染めて嬉しそうに出迎えてくれた天使=いーちゃんは、家を出たときより数倍大人びた表情をしているように見えた。


「た、ただいまぁ。いーちゃん。何かお姉さんぽくなったね?」


早くも目元をうるっとさせながら、ツインテールの頭をなでなでしていると、玄関の上り口で悔しそうに喚く男の子の声が飛んできた。


「苺ずるいっ!俺がドア開けるって言ってたのに。」


玄関の上り口で地団駄を踏んでいる坊主頭の男の子は…、かっくんだ。


「早いもの勝ちだもん。柿人が遅いのが悪いー。」


「何をー!って、うわっ。りんご、やめろ!」


べっかんこするいーちゃんに向かっていきそうになったかっくんは、途中で私にガバっと抱きつかれれ身動きができなくなった。


小さいいがぐり頭をグリグリと撫で倒してやる。


「かっくんも久しぶり!ああっ。相変わらずいい手触り!!」


「やめろって!」


かっくんは、やっとの事で私を振り払った。


「ごめん、ごめん。会えて嬉しくてつい!」


潤んだ瞳で、目の前の男の子をじーっと見つめていると、かっくんはちょっとはにかんだように、目を逸らした。


「りんご。お、おかえり…。」


「うん。ただいま!」


「あんた達会うなり騒がしいわねー。」


その後ろで呆れたように言ったのは、お母さんだった。


!!


「お、お母さん。ただいま…です。」


昨日電話で子供みたいにわんわん泣いてしまったのが、今更ながらに恥ずかしく、丁寧語が外せないままの私にお母さんはいつもの笑顔で迎えてくれた。


「おかえり、りんご!」


「あ、あの…。昨日は、その…。ごめ…」


懐かしいお母さんの笑顔を見ると、また涙が出てきてしまいそうで、必死にこらえながら言葉を絞り出していると、突然温かい体に包まれた。


「よく帰ってきてくれたね。」


ふわっと石鹸の香り。お母さんの匂いだ…。


「う、うぎゅっ…。ううっ。」


涙が溜まり、目の縁から零れそうになったとき、至近距離からひときわ大きい声をかけられた。


「りんご、お帰り!!ううっ。よく帰ってきてくれたね。ありがとう。ありがとうっ!」


私達の隣で、私以上に涙目になっている…というより、もう号泣しちゃってるお父さんだった。


「お父さん、ただいま。ど、どうしたの?」


お母さんが苦笑いして説明してくれた。


「あー、りんごが出て行ってから、皆寂しがっちゃってね。りんごに許嫁と同居の話を持って来たお父さん、大分責められちゃってたのよ。」


「うん。苺、お父さんとしばらく口きかなかった!」


「おう!オレもう一緒に風呂入らないって言った。」


「ううっ。辛かったんだよ…。」


「ええっ、そうだったの?」


あれ?ひょっとして、今回の事で、実際に家族ののけものにされていたのはお父さん??


そういえば、お父さん真面目で優しくていい人なのだけど、この元気な家族の中で、なんかいつも影がうすくなりがちだったような…。


押され気味なお父さんのフォローは長女の私の役目だった気がする。


私が家を出て行った後のお父さんの立場を思うと今までと違う意味で、泣きそうになった。


「お父さん。ごめんねー。そんな事になっているとは…。」


「いいんだよー。お父さんの方が、りんごに謝らなきゃいけない。りんごが男の子苦手だって事すっかり忘れてて、許嫁と同居の話を受けちゃってごめんよ。」


「すっかり忘れてたんだ!?もー、お父さんは天然だなぁ。」


私は苦笑いした。


「うっうっ。ごめんよ。りんご…。」


「もう、いーよ。泣かないで。お父さん。」


私と身長が5センチしか違わないお父さんの小さな背中をよしよしとさすってあげた。


「ううっ。りんごが優しいっ…。」


またドバっと涙を流し始めたお父さんを、お母さんが宥めるように言った。


「ホラホラ、お父さん。ここでそんなに泣かれても、りんごが困っちゃうから!せっかく帰って来てくれたんだから、茶の間でゆっくりさせてあげよう?」


「そ、そうだな。すまん。」


お母さんは私と目が合うと大丈夫よ?というように笑顔でウインクをした。


私もお母さんに微笑み返した。


あっという間に事態を収拾するお母さんは、やっぱりすごいな。


「はい、皆移動してー。」


お母さんの声に従って一家はぞろぞろと部屋の奥へ進んで行った。

         *

         *


「それでりんご、浩史郎くんとのシェアハウスでの生活はどうだったの?」


「ふへっ?」


2ヶ月ぶりに茶の間に漂う畳のい草の匂いをかぎながら、ちゃぶ台の上に用意してあった静岡のおばあちゃんからのお茶とお煎餅を堪能していた私はいきなりお母さんから話をふられ、ビクッとなった。


「うんうん。イケメン王子との駆け落ちどうだったの?お城の生活に飽きて戻って来ちゃったの?」


いーちゃんがキラキラと目を輝かせて聞いてくる。


「か、駆け落ちって…!そんなんしてないって。いたのはお城じゃなくて普通のお家だよ。」


「違げーだろ?漆黒のドラゴンを倒しに女戦士として、勇者と旅をしていたんだろ?レベル30くらいにはなったのか?」


かっくんが私をちょっと見直したぜ?っていう目で、見てきた。


「いや、ドラゴンとか意味不明だし。何々?ゲームの話??」


二人が何を言ってるのか分からず、目をパチクリさせる私にお母さんが苦笑いした。


「あーっ。あははっ。後で説明するわ。取り敢えず、あんた達は黙ってなさい。」


「「はーい。」」


母親に軽く睨まれ、可愛い双子ちゃん達は顔を見合わせていたずらっぽく笑った。


「いや、なぁ…。皆話を聞きたいだろうけどな。りんごが話したくないなら無理に聞いちゃ駄目だぞ?その…。りんごは男子は苦手だったなら、浩史郎くんとの生活は辛いものだったんじゃないか…?」


遠慮がちに発言するお父さんは、まだどこかしゅんとしているような様子だった。


「お父さん、気遣ってくれてありがとう。でも、大丈夫だよ?私、先輩には家族皆に対するのと同じくらい言いたい事言って、楽しく生活してたから。」


「そ、そうなのかい?」


お父さんの表情が少し明るくなった。


「うん!あの人私より年上で偉そうなのに、同居するなり、財布を落とすは、体調崩しちゃうは、子供みたいに手がかかるんだもん。ふふっ。最初の内は私が大人になってお世話してあげなきゃって思ってたんだ。」


「へー。浩史郎くん、そんなんなんだ!大人っぽいイメージなのにね。」


お母さんが可笑しそうに言った。


「ふふっ。きっと外ではカッコつけてるんだよ。でも、数学の勉強教えてくれたり、電化製品の使い方教えてくれたり、親切なところもあったよ?それに…。最後はやっぱりあの人の方が大人だった。私がホームシックになったの、全部見抜かれてて、お母さんと話すように説得してくれた。敵わないなぁと思ったよ…。」


お父さんはお母さんと顔を見合わせると、気遣わしげに私に訊いてきた。


「その…、りんご。これからの事なんだけど、どうしていきたいかなぁ?お父さんはもう、りんごが望むなら、許嫁と同居の件は白紙に戻して、このままこの家に戻ってくれていいかなと思っているんだ。いや、むしろそうして欲しいと思ってる。」


「えっと…。お父さん、いいの?あんなに親友と親戚になれるって楽しみにしていたのに。」


「そんなのは、もういいんだよ。それより、りんごの気持ちが一番だよ。今回の事でそれが分かったんだ。」


「でも、学費…。」


「こら、りんご!何を気にしているの?見損なわないでよ。うちは貧乏だけど、愛娘の学費くらいなんとかします!だいたい、今までだって毎月シェアハウスの生活費に学費以上の額を里見さんにお渡ししていたのよ。」


「えっ!そうだったの!?」


「まぁ、いらないとは言われていたけど、りんごはまだウチの子ですからね。全くお金を出さないというワケにはいかないでしょ。」


「ご、ごめん。お母さん…。」


私が自立して生活すれば、家族の負担少しでも減らせると思っていたのに、実際は逆だったのかな…?


本当に私、何も分かってなかった!


ショックを受けて、半泣きになった私を叱るようにお母さんは言った。


「謝らないよ?りんご!大事な娘の為だもの。それはちっとも無駄な事じゃないのよ?りんごにとってシェアハウスでの生活は楽しくて、有意義なものだったんでしょ?」


「うん。里見先輩とのシェアハウスでの生活はすごーく大変で、すごーく楽しくて、勉強になって、思いもよらない事がいっぱいあって、まるでジェットコースターに乗ってるみたいな2ヶ月だった。きっと一生忘れられない。」


本当に楽しかった…。


「でも、里見先輩にとって、好きでも何でもない私との生活はやっぱり迷惑だったと思う。それに、最後里見先輩を傷つける事をして、そのまま出て来てしまった。もう合わせる顔がないんだ…。」


「りんご…。」


「先輩にこれ以上迷惑をかけるワケにはいかないし、私自身、まだ自立するには子供過ぎるなって痛い程分かったから、許嫁と同居の件は解消してもらいたい。大丈夫…かな?」


「よし、分かった!りんごの気持ちがそうなら、その旨爽ちゃんに伝えるよ。後の事は何も気にしないでいい。ただ、気まずいかもしれないけど、最後の挨拶と謝罪だけはりんごもついて来て、ちゃんとするんだよ?」


「あ、はいっ!それはもちろん。」


「それからりんご、あんたシェアハウスにまだ荷物があるでしょう?それはどうするの?」


「ああ、それは昨日だいたいまとめて置いたから、明日もう一度戻って宅配便で送ろうかと思ってるよ。」


「そう。浩史郎くんとも最後ちゃんと話せるといいわね。」


「…うん…。」


「何々?りんごちゃんもうずっとお家にいるの?」


「うん、そのつもり。いーちゃん、また仲良くしてくる?」


「いーよ!いーよ!また動物さんごっことか、アクアビーズとかでいっぱい遊ぼうね?」


「もちろん!」


「なんだ。出戻りかよ?ま、りんごの事だからすぐ相手につっ返されると思ってたけどな。仕方ねぇ。また面倒見てやるか。」


「すんません。また、お願いしやす。柿人兄さん!…て逆!私が姉!!」


「柿人、偉そう。本当は嬉しいくせに。ねぇ、りんごちゃん、柿人、夜、寝るとき、いつもりんごがいないって泣いてたんだよ?」


「えっ。そうなの?かっくん。」


「な、泣いてねーし!噓つくなよ。苺がいつも最初に寂しいって泣き出してんだろ?」


「苺も泣いたけど、柿人の方が泣き声大っきかったもん。でも、一番泣いてるのはお母さん!」


「えっ。」


驚いて、お母さんの方を見ると、いつになく慌てていた。


「な、何言い出すの。苺!」


そ、そうだったんだ…。


赤くなって困っているお母さんの姿に私は胸が熱くなった。


「お父さんはオロオロしてばっかりだし、最後は苺が皆を慰めてたんだよ?偉い?」


「偉い偉い…。」


いーちゃんが、短期間で大人びた訳が分かった気がする。お家でナンバー2の女の子って、どうしたって、逞しくなっちゃうんだよね?分かる分かる…。


私は可愛いツインテールの頭を撫でてあげた。


「もう苺には敵わないなぁ…。お母さん形無しだよ。」


お母さんは苦笑いをした。


「じゃ、お母さんはそろそろご飯の準備するわ。お昼は天ぷらとソーメンだから、楽しみにしててね。」


「お母さん、手伝うよ。」


と、立ち上がりかけるところを、お母さんに止められる。


「いいわよ。あんたは疲れてるだろうから、座ってなさい。」


「えっ。でも…。」


「心配しなくても、家にいるのだったらこれから嫌でもいっぱい働いてもらう事になるから!今は休みなさい。」


「はい…。」


ああ、実家に戻ってまだ時間が経っていないのに、2ヶ月も離れていたとは思えないくらいあっと言う間に心と体とがこの家の空気になじんでいく。


帰ってきたんだなぁ…。私…。


これからはもう家族の皆とずっと一緒にいられる。


お母さんのお手伝いをいっぱいして、家族の皆に里見先輩のお母さんに教えてもらった、煮物も作ってあげよう。


いーちゃんや、かっくんといっぱい遊んで、


お父さんと一緒に星を見て…。


夏休みは、皆でプールとか遊園地とか、行けたらいいな。


これから楽しい事…いっぱい…。



…いっぱい…。




どこか遠いところで家族の声がする。


「〰〰〰〰」

「〰〰〰〰」

「〰〰〰〰」

「〰〰〰〰」

「〰〰〰〰」


体が柔らかく暖かいもので、ふわっと包まれるのを感じた。


幸せだ…。


「お、お母さん。りんごちゃん。お茶を一口飲んだら、倒れちゃった。睡眠薬でも入れたの?」


「いーちゃん。ドラマの見すぎ!睡眠薬なんか入れてません。何日も寝てなくって疲れがたまってたんでしょ。気がゆるんだのよ。」


「りんご、白目むいて笑ってる…。きもっ!」


「幸せな夢でもみているんじゃないか?」


「あ、お父さん。そこの毛布とって。…ありがとう。お疲れ様だったね。りんご…。」

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