第53話 かの人は母

ついさっきまで、爽やかな青空が広がっていたのに、またたく間に灰色の雲が広がり、帰る段になって、しとしと雨が降り出した。


俺は森野から朝、いらないというのに、無理矢理渡された折りたたみ傘を手に、渋い顔になった。


絶対降らないと思ったのに…。そら見たことかと得意顔をする森野の顔が頭に浮かんだ。


「チッ。」


俺は舌打ちしながら折りたたみ傘を差すと足早に歩き始めた。


「…くん!」


校門の辺りで、誰かに呼び止めらた気がして、振り返ると、30代後半ぐらいの少しぽっちゃりした小柄な女性が傘を差してそこに立っていた。


見覚えのあるその人は…。


「浩史郎くん…だよね?ちょっといいかな?」


森野の母親ー森野槇絵ーはどこか困ったような表情で俺に笑いかけた。


❇❇❇❇❇❇❇❇❇❇❇❇❇❇❇❇❇❇❇❇❇❇❇❇


森野の母親と俺は学校の近くの古びた喫茶店に来ていた。


店内の客は少なく、他に、仕事の休憩途中のスーツ姿の中年男性がいるだけだった。


「ごめんね、急に学校に押しかけちゃって。」


「いえ…。残念でしたね。森野、ちょうど宇多川の家に遊びに行ってて、いなくて。」


「あっ。いいの、いいの!りんごじゃなくて、今日は君に会いに来たの。」


「俺に…?」


「そう。生の男子高生とお話する機会なんて、滅多にないでしょ?しかもこんなイケメンの!オバさん嬉しいなぁ。

さぁ、何でも好きなもの頼んでね。」


森野母は華やいだように言うと、


俺に喫茶店のメニューを渡した。


といっても、喫茶店だし、頼むものといってもコーヒーぐらいしか…。


「じゃ、すみません。オリジナルコーヒー、ブラックで。」


「えっ。それだけ?ケーキとか軽食とかいらない?」


「いいです。」


「そ、そっかー。あっすみません、オリジナルコーヒー2つで!」


森野母は店員に大声で注文すると、俺に向き直ると気まずそうに言った。


「いや、りんごは食欲大魔神だから、こういうところに来ると、季節のケーキやらカツサンドやらガツガツしたもの沢山頼むから、年頃の男の子なんかもっとかなーと思ってたから、以外に浩史郎くん、少食なんだね。」


「最近運動してないんで、太りますし。」


「そっかー、ちゃんと計算してるんだね。」


「森野はあの小柄な体のどこに入るのかと思うくらい食べますよね。この間パンケーキ食いに行ったときも、俺の1.5倍は食べてましたね。さすがに二日後、体重増えたって泣いてましたけど。

もう少し考えて食えばいいのに…。」


森野母は目をパチクリさせて、俺を見ていた。


あっ。今のは森野の悪口言ったみたいになってしまった。いつものクセで…!


「すっ、すみません…!」


俺は慌てて謝った。


すると、森野母は弾けるように笑い出した。


笑うと目尻が下がって少女のような印象になった。


最初に思っていたより、森野母は年齢が若いのかもしれない。


「ぶははっ!いーの。気にしないで。そうかー。りんご相変わらず考えなしにいっぱい食べてるかー。」


「いや、あの…。」


返答に困っていると、注文したコーヒーが来たので、俺は気まずい思いで、それを飲んだ。


森野母はコーヒーに少しミルクを入れて一口飲むと、俺に笑顔を向けてきた。


「それで、どう?りんごとはうまくやれてる?あの子家にいると、一日中喋ってるようなやかましい子なんだけど、浩史郎くんに迷惑かけてない?」


「いや、迷惑は…。」


無意識に人を振り回す言動をしてくる森野に迷惑をかけられていないとは言えないが、

食費使い込み事件や弁当の事や体調悪いときに世話になった事などもあり、こちらも迷惑をかけてないとは言えなかった。


「お互い様って感じですかね。あ、いや、じゃなくて、森野には料理とか料理や洗濯をやってもらってて世話になってるんで、俺は風呂掃除とか電化製品の使い方教えたり、数学教えたりお互いできる事を協力してやっています。」


「へぇー。そっかそっかー。確かにあの子、数学も電化製品の使い方も苦手だもんね!ま、あたしも最近の機械類全く分からなくてりんごの事言えないんだけどさ。りんごに色々教えてくれてありがとうね。」


「いえ。俺も世話になってるんで。」


「なんか、思ったよりうまくやってるんだ。あの子男の子苦手じゃない?だから同居の事ちょっと心配してたんだよね。


りんご、小学生のときは女の子達とは遊ばないで、サッカーの部活ばっかりやってるような男の子みたいな子だったし、中学はちょっと色々あって学校の子と、あまりと関わらなかったから、基本精神年齢が、小学生で止まってて子供なんだよね。ずっと友達でいてくれたのは、夢ちゃんだけかなー。有り難い。」


ああ、それでかー。


森野の天然ぶりー。女子にも揉まれておらず、恋愛に関しては子供同然の認識しかないにも関わらず、思春期の男子との距離感を完全に間違えている言動にはそういう背景があったのか。


俺は森野のこれまでの不思議な言動を思い返し、妙に納得をしてしまった。


「浩史郎くん大人っぽいし、りんごなんか小学生並みのガキンチョにしか見えないでしょ?許嫁なんて言われても困っちゃうよね。」


森野母は苦笑いして言った。


確かに最初の森野の印象は垢抜けない中学生だったな。


でも…。


「まぁ、確かに急に許嫁と言われても、戸惑いますけど、森野は愛らしい顔立ちしてるし、考えているようで天然な言動も慣れればそれが可愛いって…。」


再び目を丸くした森野母と視線がかち合って、俺は我に返った。


「そ、そう思う奴もいるんじゃないかと…。」


しまった。すごい中途半端な事を言ってしまった。


俺は気まずく目を逸らした。


「ふふっ。そっか。そう思う奴もいるか…。ありがとう、浩史郎くん。」


森野母はクスクス笑いながら言った。


「浩史郎くんてさ、クールなイケメンってイメージだったんだけど、話してみると意外に面白いね。りんごが気に入るワケだわ。」


「え?」


「電話でりんごがさ、浩史郎くんのこと話してたんだ。『ケンカもするけど、先輩は私にとってかけがえのない…。』」


!!


『突っ込み友達』って!」


俺は一気に脱力して肩を落とした。


なんだよ。突っ込み友達って?


期待して損したぜ。


「もしかして、がっかりした?」


「いえ、別に。」


俺は慌てて否定した。


「まぁ、でも最近は電話しても『忙しいからって』りんごにすぐ切られちゃうんだけどね。」


森野母は苦笑いした。


「最初は私達に心配かけないように気を遣ってるのかなって思ったんだけど、何度かけてもそんな感じで、一度シェアハウスにご挨拶に伺おうかと思ってたんだけど先輩もいるし、迷惑になるからって言われて断られちゃって…。」


「そうなんですか?いや、俺はそんな話聞いてないんですけど…。」


森野母から聞く森野の言動はまったくちぐはぐで理解できなかった。


だって、あいつは家族が、母親が大好きでそんな話があろうものなら、喜んでシェアハウスに迎え入れそうなものなのに。


人をだしにして断りやがって。


森野の奴は一体何を考えているんだ?


「やっぱり、そうか。断る口実だよね。」


小さく息をついて、森野母は表情を曇らせた。


「あの子は今、私達家族から距離を取りたいと思っているのかもしれないね。


今まで、あの子の為によかれと思って色々な事をしてきたつもりだけど、それが余計にあの子を追い詰めてしまっていたのかなって。


あの子はいい子だから口に出して言わないけど、本当は家ですごい…窮屈な思いをさせちゃってたのかなって。なんか…反省…しちゃってね。」


森野母はハンカチを目に押し当てて、少し涙を堪えるように黙った。


「あの、なんか…すみません。」


俺の言った事が、森野母を悲しませる原因を作ってしまったようで気まずい思いだった。


森野に話を合わせてやったほうがよかったんだろうか。


「ううん、ごめん、ごめん。浩史郎くん。変な事言われて困っちゃったよね。」


森野母は涙を拭きながら、努めて明るい口調で言った。


「うん。でも、りんごが今の生活を楽しんでいるならそれが何よりなんだ。浩史郎くんがいい子で、安心した。」


「いえ、そんな。」


「ううん。浩史郎くんには本当に有り難いと思ってるの。

友達としてでもよいから、この先もしあの子が、困ってる事があったら、力になってやってくれないかな。」


森野母で真剣な表情で頼まれ、俺は神妙な顔で頷いた。


「はい。分かりました。」


「ありがとう。」


森野母はホッとしたように笑顔を見せた。


「それから、これは言おうかどうしようか迷っていたんだけど…。」


❇❇❇❇❇❇❇❇❇❇❇❇❇❇❇❇❇❇❇❇❇❇❇❇


「あっ、先輩、お帰りなさーい。」


玄関のドアを開けると、リビングから大声で呼びかけ、パタパタ駆けてくる森野の姿があった。


「ちょうどよかった!ご飯、後10分位でできますよ。着替えたら下降りてきて下さいね。」


「も、森野、もう帰ってたのか…。今日は宇多川の家に遊びに行くって言ってたから遅くなるかと思ってた。」


「いやー、最近遅くなってばかりで、簡単な料理ばかりになってたから反省して今日は少し早めに切り上げて帰って来たんです。帰り、夢ちゃんのお家の車で送ってもらったから、早く着いちゃったし…。でも、今日は先輩の方が遅かったんですね。」


「あ、ああ、すまん…。今日は友達と学校近くの喫茶店に行ってたんだ。」


俺は森野から目を逸して言った。


「へぇー、あらあらー。喫茶店ですか。いーですね。」


何やら意味ありげにニヤニヤ笑いを浮かべる

森野に慌てて付け足した。


「女の子じゃないぞ!」


「そんなムキになって否定しなくても!

って事は男友達?東先輩以外に男友達いたの?そっちの方が逆にビックリです!」


「君ホントに失礼だな。」


いつもの調子で食い付いてくる森野に、俺は憮然とした表情を向けていたが、ふと煙臭さを感じ、顔を顰めた。


「なんか、キッチンから焦げてる匂いするけど大丈夫か?」


「あっ。ヤバっ。魚焼いてたんだった。先輩、その話はまた後でっ!」


森野は慌ててキッチンに駆け込んだ。


俺はため息をつくと、二階の自室へ向かった。


いつも通りのけたたましい森野だった。


けど…。


「これは、言おうかどうしようか迷っていたのだけど…。」


森野母の言葉が重く胸につかえていた。


話を聞いてしまった後ではものの見方が全く変わってしまう。


森野の明るさ、騒がしさをそのままに受け取ってよいものなのか、考えてしまう。


今まで能天気で何も考えていないと思っていた森野の笑顔には、本当に陰りも曇りも何一つなかったんだろうか…。


今は森野の笑顔を見るのが辛いような気がしていた。

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