第3部 第11話 §5 出遅れた朝
「ああ、待って。アンタ歩いてゆく気?」
ローズは、エイルが飛んだ間抜けに思えてならなかった。きっとそこまで頭が回らなかったに違いないと十分思う事が出来たので、それが彼らしくないなどとは思わなかった。クスクスと笑いがこみ上げて仕方がない。
「まってて……」
ローズは先に玄関を出ると、すでに一台の黒いセダンが停車している。言わずとしれたタクシーである。
「アンタ、注目の人よ?しかもヒール。のこのこ歩いていったら、どうなるか……解るでしょ?」
ローズが気を回して、手配してくれたらしい。
開かれた玄関から、タクシーまでの距離は十数メートル。たいした距離ではない。
だが、ローズのその一言で、その距離でさえ、何か起こりそうな気がしてしまう。
「俺、グラントには悪いことしちまったな」
エイルは、ふとそんなことを思ってしまう。何故ならば、グラントはエイルのセコンドについて、大会の決勝トーナメントにその姿を現しているからである。
グラントはヨークスの大会での優勝者である。その彼と繋がりのある自分が、あのような惨事を起こしてしまったのである。
それはグラントの顔に泥を塗ったことを意味する。
友人の名誉に傷を付けてしまったのである。
「気にしちゃいないわよ。アンタが平気でいられたら、別でしょうけど……」
ローズのそれは、グラントの心中を代弁してた。そう、サヴァラスティア家の者達は、誰一人そんな風に彼を捉えてはいないのである。
「俺に出来ることは、一つだけだな」
エイルは、開かれたタクシーの扉をじっと見つめ、拳を握りしめ、唇を噛みしめるのであった。
「そうよ。私だってアンタに大枚はたいてんだから」
ローズは冗談交じりに、少し悪いアクのある笑いをして、エイルの背中をトンと押す。
「行ってくるよ……」
エイルは、少しだけ心が救われたような気がする。それは、ほんの一瞬のことなのかもしれない。だが少なくとも、目的が出来た。チープなものだとしても、その理由が出来る。
エイルはミールの手を握り、タクシーに向かい始め、玄関で見送るローズとドライに、一度も振り向かず、乗り込む。
二人を乗せると、タクシーは音もなく走り出してゆく。
「さて、ネボスケ達がいつ起きてきてもいいようにしなきゃね!」
ローズは、右腕を伸ばしその肘を左手で掴み、目一杯背伸びをして、少したまりがちになっていた炭酸ガスを追い出すように、背伸びをする。
「俺はねるぜ……」
ドライは逆に飽和状態になった炭酸ガスが、自然と口からあふれ出して、欠伸になる。
「アンタ大事な娘に、悪いことしてないでしょうねぇ」
ローズが意地悪な笑みを浮かべて、隙だらけのドライのみぞおちに、肘鉄を一発入れる。
「子供は守備範囲外だ……」
ドライは、ローズの肘鉄に全く反応する様子もない。それからもう一つ大きい欠伸をする。
眠いといっている割には、あまり表情を変えないドライに、ローズはクスリと笑う。ドライがなんだかんだと、一晩中ミールのことを気にかけていたことは、否めない事実である。
無関心を装っているその態度が、わざとらしいのである。だが憎めない。
「よしよし!アンタも随分丸くなったねぇ。守備範囲外にも優しくなったか」
ローズは、幸せそうな満面の笑顔を浮かべながら、背の高いドライの頭に手を伸ばして、まるで子供を扱うかのように、彼の頭を撫でる。
「よせってばよ!」
ドライは、恥ずかしがってローズの手を払いのける。
それに対してローズは、「ふふふ」と笑うのであった。
時間は昼頃になる。
恐らくこの日、サヴァラスティア家で尤も遅い起床を迎える事になった一組が、漸く目を覚ます。
イーサーとリバティーである。
まずはイーサーが目を覚ますでのあった。
「う……う~ん」
まるで真空管のアンプのように、時間のかかる目覚めであった。起動し始めようとしているが、本格的に動けるのはもう少し意識がハッキリしてからになりそうだった。
そんな中で、イーサーの視界には、リバティーの背中が見えた。
「へへへ……」
イーサーはリバティーがこうして側にいると、ついつい悪戯っぽい笑いをしたくなるのであった。彼女が側にいることが、嬉しくて仕方がない。
まだ起動しきらない体を鈍くゆっくり起こしながら、イーサーはリバティーの寝顔を覗き込むのであった。
「へへ……、お嬢の寝顔、かわいいな」
イーサーは、リバティーがいつも胸の中に不安を抱えている事を知っている。
その彼女が、十分に求め合った後、まだ少し幼さの残る寝顔を見せて寝ている。どうやら十分な睡眠を得ているようである。
「うん……」
もう少し間近で覗き込もうとしたイーサーの重みで起こる、ベッドの揺れがリバティーを目覚めさせる。
だが真空管アンプのようにゆっくりと起動したイーサーと違い、リバティーは唐突に目尾をさまし目を見開き、驚いて飛び起きる。
その瞬間二人の額が遠慮なしの衝突事故を起こす。鈍くよく響く良い音がする。
「きゃ!」
「ぎゃ!」
ぶつかった瞬間リバティーは額を抑えて、ベッドに蹲る。
イーサーはそのまま仰け反り、ベッドから転げ落ちてしまう。
「アタタタ!もう!なにしてんのよ!」
「いってぇ~~!お嬢こそ急になんだよ!」
二人は互いに一言交わしあうと、ジンジンと衝突の感触が残っている額を撫でている。
「……そうだ!今何時?エイルさんの試合どーなってんの!?」
リバティーの回路が一気に働いた原因はそこにあるのである。この日は決勝である。エイルがそれに進出しているのだ。そして、夕べの錯乱状態のエイルがいる。
彼は大丈夫なのか?彼女の脳裏にそれが一気に駆けめぐったのである。だが、少しの間衝撃から逃れられず、ベッドの上に撃沈したままである。
「えっっと……」
普段から打たれ慣れているイーサーの方が、やはり動きに転じるのが早かった。
だが、それでも緩慢な動作で、ベッドの頭の上に置かれている目覚まし時計を手に取り時間を確認する。
「十二時……ちょうどお昼だよ」
イーサーは、目覚ましを見ると、そのまま頭をベッドの上に凭れさせた。頭の回りに回っている星達がまだ、去らずにいる。
「大変……、もうスタッフの登録とか終わっちゃってるよね……」
額を腕で押さえながらあきらめたリバティーは、体をリラックスさせる。
「イイじゃん……アイツ昨日お嬢に酷いこといったんだし……」
イーサーは事情をリバティーから聞いた訳ではなかったが、夕べの彼女は不安を飽和状態にさせていた。その理由は感じ取っている。だが、エイルがリバティーと同じような不安に苛まれていることまでは、理解できていない。
リバティーは、エイルが悪意で彼女の不安をかき立てたわけでは無いことを理解している。
ただ、捕まえられて現実を無理矢理叩きつけられたことが嫌だったのである。
リバティーはあいている左手を、ベッドの縁で頭を沈めているイーサーのそこに、振り落とす。
「いて……」
それはたいした衝撃ではない。
「本気でそんな風に思ってる?」
エイルを突き放すようなイーサーに対してのお仕置きである。
これに対して、イーサーは閉口してしまうが。ムキになって反論したりはしてこない。彼自身それが本音で無いことは確かである。ただ、リバティーを傷つけるような行為が許せないのである。
イーサーは、理屈抜きでリバティーの見方なのである。
「試合……くらいはみれるかもしれないよね……」
せめてそうしたい。リバティーはそう思い、胸元のシーツを押さえたままベッドから上半身を起こし、それを纏い、部屋の隅に置かれてある旅行バッグの側まで行き、中から新しい下着を取り出す。そして序でにイーサーの分も取り出し、彼の頭に投げる。
「早く着替えて、ご飯たべよ!」
衣服を整えて、一階のリビングに姿を移した二人を待っていたのは、埃よけのクロスが掛けられていた朝食セットと、メモ一枚だけであった。
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