第3部 第10話 §最終 心此所に在らず

 次の試合が始まるまでの二時間ほど、会話はない。四人はただ、控え室で椅子に座り込んでいるだけだった。エイルはウォームアップすら行わない。

 「エイル?ウォームアップしときなよ……」

 「ああ……」

 フィアが声をかけるが、思案にふけったエイルは、それだけの返事をして、口元を両手で覆い、両肘を膝の上に乗せ、少し背を丸めている。

 沈んだ空気が、彼等を包む。

 ミールは、居心地の悪さを感じて、そわそわしているが、そこから動くことが出来ない。

 グラントは、ただただエイルが心配である。そして、イーサーに連れられて家に戻ったリバティーの事も気になる。

 「エイル!……もうそろそろ時間だぞ」

 わざと、彼の名前を協調して呼び、試合時間が迫っていることを告げるグラントだった。

 その声に、はっとして、面を上げ、壁に掛けられている時計を見るエイル。

 「あぁ……」

 気のない返事である。

 「試合に、集中しよう」

 グラントが、もう一声かける。

 「そうだな……」

 やはりエイルは、上辺だけの言葉で、返事を返した。彼もリバティーに対する失言を気に病んでいるのだ。

 エイルは、何を見つめることもなく、ゆっくりと意識のない行動で、入退場口にまで向かう。セコンドはグラントである。

 エイルは、意識が集中仕切れないまま、いつの間にか、その身を武舞台に移していた。

 彼が意識を取り戻すと、観客のざわめき、審判が試合備えるようエイルに促している声が聞こえる。

 エイルは肩に乗っているイクシオンを指先に導き、武器化させる。だが再び意識は、自分の内側に向いてしまうのだ。全く試合に集中出来ていない。

 エイルの相手は、ニコラス=グリードという選手である。決勝トーナメントのセレモニーの時に、視線を合わせた男である。

 ニコラスの表情は硬い。先ほどのエイルの戦いを見ているのだ。それがどれほどのレベルの戦いなのか、実力のある者ならば、感じずにはいられない。ニコラスも準決勝にまで、上り詰めた選手である。

 「両者構え!」

 エイルは、意識のないまま、ただ声に反応しつつ、戦闘の構えを取る。

 「始め!!」

 気合いの入る、審判の声。エイルは、その声に初めて反応を見せる。試合の火蓋が切られたのである。

 エイルが緩慢な動作を見せるのと異なり、先手必勝とばかりに、切り込んできたニコラスの姿エイルの目に飛び込む。

 慌てたエイルは、それに反射的な反応を見せる。そして、それはあまりに、手加減のないものだった。本能的に敵の攻撃を跳ね返そうとする戦士の本能でもあった。

 同じ実力を持つ者同士ならば、それは、さほど問題となる事ではなかっただろう。いや、そうであれば、呼吸の整わないエイルが、確実に不利であるといえる状況だったはずだ。

 だが、ニコラスは、準決勝まで上り詰めた男であるとはいえ、エイルやアンドリューのより、格下の男だった。

 エイルは、全力で剣に風の魔力を集め、一気に振り払い、二人の間の壁とする。

 だが、その壁はあまりにも強力で、彼等のように、魔力で作られるシールドを持たない者には、鋼鉄の壁が猛スピードで押し寄せるに等しいものだった。

 一瞬にして、天使の涙は砕け散り、さらにニコラスを弾き飛ばし、彼をフェンスに叩きつける。凄まじい威力である。

 試合開始僅か十秒にも満たない速攻だった。

 観客はざわめきを隠せない。エイルがどれほどの、力を秘めているのか、目の当たりにしたのである。それはもはや人間の放つ技ではない。

 「血だ……壁に血がついてるぞ!!」

 武舞台周辺に常備しているスタッフの一人が、直ぐにそれに気が付き、声を上げる。

 「医療班だ!早く!!」

 ニコラスは、激しく後頭部と背中をそこに叩きつけたのである。

 壁に侍ったりと鮮血が張り付き、地面に倒れたニコラスは、ぐったりとしている。

 「ダメだ!呼吸がない!心停止してる!」

 エイルは目の前の状況に真っ白になる。何が起こったのか全く理解できていない。

 彼は、ニコラスを跳ね返そうと、剣で払っただけでなのである。無意識に行った必死の判断。それは力の生後もされないものだったのである。

 聞こえるのは、スタッフのあわただしい声と、絶叫に変わった観客の声である。

 「違う。そんなつもりじゃなかった。違う!」

 エイルは、混乱し始める。手から離れた剣は、石畳の上に転げ落ち、冷たい金属音を立てる。そして、その手は震え始めはじめた。

 「エイル!」

 動揺の隠せないエイルの肩をグラントがつかみ、正気を持つように、声をかけが、エイルにはそれが届かない。

 「俺はただ、跳ね返そうとしただけなんだ!」

 エイルは、賢明にグラントに向かって訴える。自分を信じてくれるように、友に懇願している。

 「解ってる!落ちつけって!」

 グラントは、ただエイルの両肩をがっちりと掴んで、彼が混乱した行動を起こさないように、その場に止めていることが、精一杯だった。

 「ああ……」

 エイルの膝が崩れる。体中の震えが止まらない。

 当たり前である。彼は攻防一体の一撃の直後、ニコラスの体中の骨が砕ける音を聞いたのである。

 天使の涙という、救命のアミュレットを持ってしても、彼の一撃を吸収しきれなかったのである。自分自身にどれほど凄まじい力を秘めているのか、無意識の一撃で彼は知ることになる。体中が混乱し始めている。

 「どいてください!!」

 シンプソンが、姿を現す。彼は密かにこの会場に姿を現していたのである。

 そして、彼以上に救命の術を心得ている人間は他に存在しない。

 そして、その側にはルークがいる。が、ルークは直ぐにエイルとグラントに気が付き、武舞台にゆっくりと上り、歩調を乱さず二人の側に寄る。

 「そいつを、連れて帰れ。勝利は勝利だいいな」

 グラントにそう言って。審判に視線を送る。

 「しょ、勝者、エイル=フォールマン!」

 審判が漸く、勝者宣言をする。本来、勝者宣言をするまで、セコンドがリングに上がれば、失格である。だが、緊急事態である。それに、ジャッジを怠ったのは、審判である。

 ルークは、それを冷静に処理する。生命の危機が目の前で起こっているというのに、彼は眉一つ動かさない。

 「まぁ、お前はこの大会、何かしでかすとは、思っていたがな……」

 低い声で、ルークはエイルにそういう。だが、エイルにそのゆとりはない。耳に残る骨の砕ける音。力を存分に放出した両腕の感覚。それらがいつまでも残っているのだ。

 「シンプソン……」

 ルークは、再びシンプソンの方を見て、ニコラスの容態を確認するがシンプソンは険しい表情で首を左右に振る。だが、苦難を示す表情はしていない。処置は難しいが十分可能性があるという意味だ。ルークはそれをよく理解している。

 エイルの試合直後空は暗転し始め、雨が静かに落ち始め、やがて肌をぬらすほどの量となり、人々を家路に帰す。

 試合は、急遽、準決勝第一試合で、中断され試合は順延されることになる。

 異例の出来事である。翌日の朝に第二試合が行われ、その後、市民枠の決勝、自由枠の決勝が行われる事になる。グラントは、震えの止まらないエイルの肩を抱きかかえ、急いで選手入退場口へと走るのであった。

 雨が降りしきる中、シンプソンは、その場での治療に専念する。そして、ルークは、雨に濡れつつ、それを待ち続けるのであった。

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