第3部 第9話 §16 振り返らずに

 他人のそら似など、いくらでもあるのだ。気にするものではない。彼女が近しい声の持ち主なのだ。そう割り切ることにした。

 「暁です」

 「は?」

 「そう呼ばれています。暁と」

 彼女の名前らしい。だが、主体的な表現ではなかった。ドライはそれに気がつくまで、わずかに時間を要した。やはり思考回路が雑念に奪われているようだ。

 「ドライだ。まぁ、さっきも詰め所でいったが、ドライ=サヴァラスティアだ」

 ドライは、気軽に差し伸べたが、彼女は少々不慣れな様子で握手というものに、躊躇いを感じながら、そっと手を差し伸べ、柔らかく手を握り替えした。

 ドライは、小さくシェイクハンドをする。細い彼女の手は、ドライが握り返すと、それだけで壊れそうに思えた。それに、社交的な意味であり、親愛の情はない。

 そのまま数分無言のままの時間が過ぎる。バスはまだ来ない。周囲に人の気配もない。


 バスは一時間に一本という単位だ。次のバスが来るまでには、まだもう少し暇をつぶす必要がある。

 「聞かないんですね……」

 間の開いた時間を嫌ったのか、彼女は主語のないその言葉だけを、ドライに投げかける。

 「あ?」

 意味ありげで目的の見えないその言葉に対して、ドライは怪訝そうにそういう。彼女声が気になっているドライは、少々別のところに神経を使っている。だが、彼女の周囲の空気からは、ドライに対する感情的な物は、何もにじみ出ていないように思えた。他人のそら似。ドライ自身もそう考えることにしたはずだった。

 「私の覆面のこと」

 「見せられない事情があんだろ?それに、女に対して無理矢理どうこうってのは、俺の趣味じゃねぇし……」

 少し無関心な表情さえ伺えるドライの返しに、もっともな意見と、彼の主義を感じた彼女は、言葉を返さず、クスリと笑う。

 「瞳の色見せてくれる?」

 彼女は覆面こそしているがきれいなブルーの瞳が印象的だった。その瞳の奥は探求心に鋭く輝いている。その瞳は今のレイオニーに非常に近いものがあった。

 「あ~?」

 それは、過去にも言われたことがある。彼の愛すべきひとから、幾度と無く出された言葉でもある。今更そう言われるとは思っても見なかったドライだ。

 「俺の眼は見せ物じゃねーんだよ。勘弁してくれ……」

 ドライは、逃げ腰気味な口調で、困った顔をして、明後日の方向を向く。

 なじんだ街だと思い、サングラスを直ぐに取り出せるところに用意していなかったのが失敗だ。

 困った顔のドライは、照れているような感じも受ける。

 断った彼の言葉には、決して邪気が泣く、刺もなかった。

 「ごめんなさい、とても素敵な紅だから、つい胸の奥がくすぐられたの、気に障ったなら、謝るわ」

 謝罪の言葉だろうが、表情は覆面のために、余りよく解らず、しかし全く悪びれる様子は見られなかった。そこには素直な自分の気持ちをストレートに表現した彼女がいるだけだった。

 妙な女だ。それが、今のドライの心境だった。ただ、懐かしさを感じた。まるで忘れ形見を見つけたような気がしたのだ。

 やがて、バスが来る。

 始発のバスであるため、乗客は誰もいないが、重く大きな荷物を両手に持ったドライは、さぞ迷惑な客だったに違いない。後部の扉から、どうにか乗り込んだドライを、バスの運転手がミラー越しに冷たい視線で見る。

 そんな二人が行く先は、今度こそ間違いなく、街の中心。の、はずだった。

 だが、到着した先は……。

 「空港じゃねぇか……」

 降り立ったドライが漏らしたのは、その一言だった。

 まさかこれほどまでにして、乗り物に対する方向感覚が悪いとは、彼自身も思っていなかったに違いない。

 「クスクス……」

 覆面の女性は、懸命に笑いをこらえている。だが、こらえきれずに息が漏れている。

 「人のこと言えねぇだろうが……」

 少しだけ、ドスのきいたドライの声だった。それは完全に気恥ずかしさから来ているものであり、彼女個人に圧力をかける物ではなかった。ただ、歯ぎしりをしている。

 自分のドジさ加減に腹が立っている。

 「ごめんなさい。でも、おかしくて」

 まるで新鮮な空気を吸ったような、すがすがしい声で、笑いを堪えながら一応の謝罪を入れているが、やはり悪びれた様子はなかった。

 「ち……」

 ドライが、どうしようもなく舌打ちをしたときだった。彼女の笑いが急に止まる。

 「ご免なさい、お迎えが来ちゃった」

 残念そうな声色。まるで夢の一時から、現実に引き戻されてしまったような、そんな切なさが感じられた。だが、その意味は、ドライにも直ぐに理解できた。

 殺気ではなかったために、直ぐに気づけずにいたが、その気配は確実に彼女に向けられたものだった。

 「振り向かずに。何もなかったように、そのまま、ね」

 寂しげだだった。

 その存在は、確実に彼女を拘束する何かの手の者だった。それは、ドライへの気遣いであると同時に、彼女自身の切なる願いに思えた。

 ドライは動けずにいた。不思議に、動くことが、全ての不幸を招き入れるような、胸を焼くいやな予感を引き起こさせたのである。

 「奥さん、幸せな人ね」

 それが彼女が、ドライに向けた一言だった。

 ドライを置いた彼女は、十数メートル先で待っている黒服達に、足早に向かう。そして彼らの前に立ち止まる。

 「暁様、勝手な行動は……」

 「私は、探求者。かごの鳥ではいられないの……、それよりクスリ持ってる?お財布ごとどこかに落としてしまったわ……」

 黒服達を連れて行く、暁は、ドライといた時とは違い、冷めたクールさを持っていた。

 「失礼ですが、あの男は?」

 「通りすがりに、道を尋ねただけ」

 全く無関係だ、それを強調するかのように、突き放すような冷たさの伺える声で、暁は言う。

 黒服の男達からは、ドライの瞳の色が確認できる位置ではなかった。

 ドライの容姿は、身長を除き、サブジェイと酷似している。文章のみで得られる特徴だけで、二人を認識すると、恐らく誰もが錯覚を起こすだろう。

 ドライは、彼女たちの気配が消えるまで、そこを動けずにいた。先ほどの一言が、まるで彼を金縛りにしているようだった。

 幸い彼らに後ろ姿しか見られていないドライだった。それと同時に彼らの存在を肉眼で確認することが出来なかったドライ。昔なら考えられないことだ。

 気に入らない相手は、胸ぐらをつかみ、つり上げ、圧力をかける。

 それが出来ずにいた。それは、彼の人格が穏和になったからではない。それはドライ自身にもよくわかっていることだった。

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