第3部 第4話 §10  サヴァラスティア家の書庫

 やがて朝が来る。

 最初に目が覚めたのはブラニーである。

 いるのは、ドライとローズの寝室であり、抱かれているのはドライの腕の中だ。素肌の温もりが、彼女を守っている。彼女がいるのは、ドライの左側で、背こうにはローズがいる。

 ここ数日。いや厳密にいって昨日今日の自分の行動は、常軌を逸していると、感じたブラニーである。別に恋愛感情があるわけではない。

 ローズの考えも、計り知れない。

 彼等は一つの時間を共有したことになる。馬鹿げていると思いつつ、後悔や嫌悪感は全くない。そして正直、ドライの胸中の居心地は、悪いものではない。

 ブラニーが、向こう側のローズをしばし見つめていると、ローズも目を覚ます。

 二人の変化に気が付いたのか、ドライは寝ぼけた意識の中で、両手の華をもう一度両腕に抱き直す。

 「此奴……いいでしょ?」

 ローズが、目覚めて最初に掛けたブラニーへの一言がそれだった。

 「謀ったわね?」

 ブラニーは、冷静に一言そういう。終わってしまった事実に対して何一つ後悔していない。

 「フィアが全部入れちゃったんだから、事故よ……事故……」

 「よく言うわ……最初、彼に味見をさせたのは、計画でしょ?」

 「アンタに食べさせたのも私が食べたのも、事故よ」

 ローズは、満足げな寝顔を作りながら、もう一度ドライの胸に顔を沈めるのだった。

 「まぁいいわ……」

 ブラニーはもう一度、ドライの胸に落ち着く。

 「さて……朝ご飯の準備しないとね……」

 ローズは、起きがけにドライにキスをする。

 「ん?」

 寝ぼけ眼だが、それでもドライは目を覚ます。どれだけ眠りに就いていても、キス一つで目を覚ます便利な男だ。

 「大丈夫?」

 悪戯な笑みを浮かべたローズが、一つだけ彼に尋ねるのだった。

 「頭がぼうっとするよ……」

 ドライは、先ほどまでローズを抱いていた腕を額にあてて、昨夜の興奮とは裏腹に、血の気の引いた頭部を暖めている。ドライ=サヴァラスティアという、人間離れしたスタミナを持つ男でも、効きすぎたクスリだったようだ。

 「もう一寸だけ、二人でゆっくりしててね……」

 ローズは、そういうと、素肌のまま、クローゼットを開き、下着類と衣類を取り出し、余韻も見せずに身につけ始める。

 「二人……??」

 ドライは、もう片腕に乗っている重みを確かめる。まだ視線はいかない。だが左手が探るその感触は、生々しく暖かい。

 恐る恐る視線をその方向に送ると、ほどよい脱力感を味わっているブラニーが、自分を見つつ、落ち着いている。

 「うわぁぁぁぁぁ!」

 ドライは、慌てて腕を外し、ブラニーとの距離を空けようとするが、体中が混乱していて、ベッドから転げ落ちてしまう。裸のままみっともない格好である。

 「まて!えっとだな……とだなぁ……」

 脂汗が流れ出る。苛烈を極めた戦闘ですら乱れない心拍が、異常に早くなり、動揺を隠せず、怖々とローズに視線を向ける。

 ドライが何より怖いのは、記憶に引っかからないことである。

 「ふふ……、いいわよ。二人でじっくり話しててよ」

 ローズはさらっとしている。ドライが彼女をおろそかにしなかった事実が一つだけあるのだ。着替え終わると、部屋を出て行く。この数日ローズの起床は誰よりも早い。

 「往生際が悪いわよ」

 ブラニーは、ラフにかかったシーツの中で、横向きになりドライを見つつ、右手で頬杖をついている。恐ろしく落ち着き払った目をしている。

 冷や汗をかいたドライが、ブラニーとローズの出て行ったドアを何度か見回すのだった。

 部屋を出たローズが、次に見たのは、昨日と同じくソファーで抱きあったまま眠りに就いているリバティーとイーサーである。

 二人の体勢は際どく、毛布のラインが二人の状況を物語っており、イーサーは完全にリバティーを組み敷いており、リバティーの右足は、イーサーの足に絡んでいる。そんなリバティーの顔は、何もかも終えたような、満足げな表情をしている。女性と少女両面を持つ神秘的な寝顔である。イーサーの働きっぷりが、それで十分に伺えるほどだ。

 テーブルの上には、飲みかけのワインに、食べかけの酒菜。そして、例のハーブが残っている。

 「君たちには、まだ刺激が強すぎるわよ……」

 ローズは、ハーブだけを取る。そしてイーサーの頭をぐりぐりと撫でると、脱力しきったイーサーがどうにか目を覚ます。

 「ん……」

 イーサーは、完全に思考回路が止まっている。ローズの顔が入っても殆ど認識しきれないでいる。

 「あ……そか……おれ……」

 今日は完全に観念してしまっているようだ。この結果は夕べから予測していたことだった。冷やかされることも既に覚悟していた。ただ、それを思い出しただけだ。

 「ほら……部屋にいきな」

 ローズはもう一度、イーサーの頭を撫でる。

 「ん……」

 イーサーは、殆ど何も考えずに、起きあがり、毛布ごとリバティーを抱きかかえて、二階に向かって歩いて行く

 「どしたの……」

 「ん~……」

 リバティーもイーサーもまだ夢心地だ。夢見心地になっているのは、明らかに副作用である。極端にリラックスした状態にある心身と、促されるままに動く身体。

 イーサーの脳裏にあるのは、部屋に行くという単純な思考だけだ。

 「生で食べると、ああなるわけか……」

 ローズは、ぼそりと呟く。ドライの思考が止まっていたのも恐らく最初に生で食べたせいだ。

 この日のサヴァラスティア家は、大まかにアンニュイな状態の人間がふらふらと彷徨う状態になる。その中で漸く通常の生活リズムを取り戻しつつあるドライと、ブラニーがサヴァラスティア家にある、書庫に足を踏み入れられていた。

 ドライは、窓際のベンチチェストに腰を掛け、柄になく分厚い蔵書に目を通している。それは学者が資料として目尾を通すような、複雑で難解な文書の綴られた書物だ。少々ドライ=サヴァラスティアの人格が、壊れてしまったようだ。尤もそれも数時間のことであろう。

 「んだ?帰るのか?」

 ドライは濃いコーヒーをすすりつつ、ローズ管轄の書棚を物色するブラニーをチラリと見る。

 「ええ……、あの子とも少し話が出来たし、アップルパイも頂いたわ。夕べの貴も……良かったわよ」

 臆せず本気とも冗談とも取れる淡々とした言いぶりは、ブラニーである。

 「いうなよ……」

 ドライは照れつつ、少しだけコーヒーを吹き出しそうになる。

 「『それは私にとって最悪の出来事だった。失ったのは十六歳の秋口に差し掛かった紅葉の美しい季節だ。奪われたのは愛する人のではなく、野卑な数人の男共の手によって……である。全てが冷静に理解できた頃には、引き裂かれるような痛みと、ボロ布にされた衣服を引きずり、辱めを受けた躰を曝しながら、誰もいない家路にたどり着いたときだった……』衝撃的な書き出しね……」

 ブラニーは一冊の本の書き出しを読む。それから、ページを軽く捲る。

 ローズの嗜好であるが、赤裸々な文章綴られた書物が多い。ただ、殆どが笑って済ませることの出来る、三流小説であるが、この行き過ぎた書き出しは、少々残酷なものがある。ドライは、少々興ざめになりながら、手元の書物に目を通しつつコーヒーを飲む。

 「『私の全てを知り、尚その全てを受け入れてくれ愛しい人との悦びに満ちた幾千夜の物語をこの一冊に収める……』」

 強調された一文が、前後の文章と間を空けられて、書かれている。

 「著者……ガーディッシュ=ローゼスティング……」

 ブラニーが背表紙を見つつ、ほんの作者を読み上げる。

 ドライは、飲みかけたコーヒーを吹き出す。危うく大切な書物をシミにしてしまう寸前だったが、幸いにして、汚れたのは、ズボンと床とチェストだけに留まる。

 「そ!それだけは、やめとけ!駄作だ!他のにしろよ!」

 ドライが慌ててブラニーの読んでいた書物を奪い上げ、適当な棚に押し込める。それから、望みもしない本を、数冊取り出して、ブラニーに押しつける。

 ドライが慌てふためく。ここ数日としては、それほど珍しくもない。今朝の出来事もそうだし、昨日の風呂上がりの時もそうである。そして彼が慌てるために必要な要素があるとすれば、それは一つしかない。

 ブラニーはそれをきちんと学習している。

 しかし、そんなドライの表情は人間味のある良い表情だ。笑って誤魔化している馬鹿な男の顔がある。また、そうしていられるのは、間違いなくローズという存在のおかげである。

 「ふふ……いいわ……でも嗜好を奪う代償にはそれなりの代償がいるのよ?おわかり?」

 ブラニーの笑みは、明らかに上位に経った強みを持つ者の不敵な笑みであった。不確定要素の多いそのドライの弱みを、がっちりと掴んでいる。

 「な……なんだってんだよ……」

 どんな無茶な事を言われるのかと、戦々恐々であ。

 「それは、考えておくわ……ゆっくりとね」

 ブラニーは、押しつけられた本を両手に抱えて、書庫を後にする。

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