第1部 第2話 §2  帝国の英雄 Ⅱ

 だが、オーディンは、ふと、感情に任せきりになっている自分に気が付く。彼女の肩を強く引き離した。


 「ニーネ、私は、私は……、君を愛せるほど、立派な男じゃない……、私は……」


 その声は今にもこの場から飛び降りてしまいそうなほど切羽詰まっている。


 「お顔のことを、気になさっているの?名誉の傷ですよ。誰も、貴方を罵る者など……」


 ニーネはオーディン以上に彼を庇い、懸命に首を横に振り、自らを否定するオーディンを否定する。


 「これはただの卑怯傷だ。だが、私にはお似合いだな。ククク」


 オーディンが卑屈に笑う。こんな悲しい彼は、大魔導戦争で出来上がってしまったものだ。彼の英雄の下には、あまりにも悲しい出来事がある。ニーネは、それを知っている。オーディンが、自らの恥を忍んで、打ち明けたのだ。彼女を愛するが故にである。だが、彼女と数人を除いては、その事を知る由もない。


 「そんな、笑い方は止して下さい、さぁ、お疲れになったのでしょう?お部屋へ……」


 ニーネは強引にオーディンの腕を引っ張り、自分の泊まる寝室へと大胆に連れて行く。距離はあった。しかし芯の強いニーネが、振り向き微笑む度に、オーディンの足は、彼女に誘われるまま、無意識に進んでしまう。


 剣の鍛錬に明け暮れたオーディンの逞しい手は、すらりとした上品なニーネの手に触れられているだけだというのに、その手を振り切ることが出来ない。


 そしてオーケストラの残響音が鳴り響く廊下を行き、彼女の部屋に入る。


 二人っきりだ。


 外界から遮断された部屋は、パーティーの続く城内から、隔離された別の世界のようだった。そう、ニーネとの二人きりの世界だ。


 「この歳になって、まだ、誰も私を迎えに来てはくれません。私には、心に決めた人がいます。周りの方々は皆、結婚してしまいましたわ」


 オーディンの方を向き、ニコリと笑う。そんな風に、ニーネに微笑まれるとオーディンは胸がいっぱいになり、心臓が押しつぶされそうになってしまう。呼吸が出来なくなり言葉が出なくなってしまうのだ。


 「責任……取って下さいね」


 そう言うと、彼女は、オーディンの顔に、そっと手を触れる。オーディンは、震えた。感情が迸りそうになる。自分を嫌悪する心とは、裏腹に、腕は彼女を抱き始める。ニーネの方は、少しぴくりとする。


 「あ!」


 だが、覚悟は出来ているようだ。ニーネは、オーディンの仮面を取る。下からは、醜く焦げ色に、焼けただれた、彼の半面が浮かび上がる。瞳だけが青く浮き出ている。


 「クス、酷いお顔」


 それから、彼のその顔を、撫でる。自分の方に抱き寄せ、頬摺りすらする。オーディンは、触られると酷く心が痛む。


 彼自身は、無秩序に凹凸のあるその顔を嫌った。だが、彼女の手が、傷を優しく撫でて行く。これは、彼にとって、どれだけ心が安らいだだろうか。自分を知った上で、これほどまで慕ってくれる女性は、そういない。いや、皆無と言っても良いだろう。逃げなかったのは彼女だけだ。彼の素顔を知った女性は、悉く怯え逃げ去った。ニーネは、その事すら知っている。だからこそ余計に、彼女を汚したくなかった。


 「止めてくれ!どうして私に構う!いい男なら他にもいる!!」


 「あう!」


 ニーネをベッドの上に突き倒し、そのまま激しくドアを開け広げ、オーディンは足早に去ってしまう。マントの下から予備の仮面を取り出し、再び顔を覆う。このまま奥歯を砕き折ってしまいたいくらいに、オーディンは自分を嫌悪した。今更自分にどんな権利があるというのだと、何度も心の中で、杭を打ち込むように、自らを言い聞かせる。


 誰かが後ろから追ってくる。ニーネではないのは確かだ。


 「オーディン!!どうした!」


 いったん立ち止まり、最小限に振り返るオーディン。


 「セルフィーか……、いや、何でもない」


 オーディンの足は止まる。何処へ行けばよいのかも解らず、迷ってしまった子供の足取りのように……。しかしオーディンは、直ぐに歩き出す。そう、歩くしかないのだ。


 「ニーネが……、泣いていたぞ、戸を開けたままで。可哀想に……、何故あの優しいお前が、彼女だけに、辛く当たる!!」


 セルフィーが、オーディンに歩調を合わせ、横に並び歩く。


 「私は、皆を全滅させてしまった張本人だ。英雄などではない!!」


 苛立ったオーディンが、苦悩し、それを言葉に滲ませる。


 「しっ!大声を立てるな、あれはお前が奴に、魅了の魔法を掛けられたせいだ。それに、あの、嵐のような魔法をお前一人で防げたのか?それこそ驕りだ!」


 セルフィーは声を慎みながらも、オーディンの少し前方に回り込むようにして、小さめに両腕を広げ、正気でなさそうなオーディンの、その言葉を否定する。


 「そうだ、私が、モタモタしていなければ……」


 オーディンは、さらに小急ぎに足を進める。何からも逃げられないのだが、歩く様がまるで過去の事実から逃げるようだった。


 「バカを言うな、お前が仕掛ける前に、すでに、皆殺されていたじゃないか」


 セルフィーはいつもそういって、オーディンを納得させようとしていたのだ。


 「それを見て、腰を抜かし絶望した私と、立ち向かったお前、どちらが英雄に相応しい」


 そのまま慌ただしく、誰も居ない客室に、二人ともなだれ込む。セルフィーは鍵を掛けて、部外者を入れないようにした。扉も厚く、会話を、他に聞かれることはまず無い。


 「だが、ケリを付けたのはお前だ。あの時、お前が、楯になってくれたからこそ、私は、生きてられた」


 「それも、この銘刀、ハート・ザ・ブルーがあればこそだ。あの時比奴が魔力を吸収してくれていなければ……、どうなっていたことか」


 「お前は……、そう言う男だ。自分の命に代えても、親友である私を、護ろうとしてくれた」


 「そのお前の親友は、その後何をした。剣を捨て、相手に怯え、命と引き替えに、忠誠まで誓おうとした。もしお前があの時、私の肩を掴んでくれていなかったら、このオーディンは……、今頃……。あの時奴の手が、この顔に触れたとき、神の導きに思えた。自分は助かるなどと、思い込んだ。その傷は、今も癒えぬ」


 その頃には、二人とも、ソファーに腰を掛け、少し落ちついた様子を見せる。オーディンは、「自分は臆病者だ」と、今でも心にそう叫び続けている。遠征に出掛けて、帰ってきたのはわずか二名、オーディン=ブライトンと、その親友、セルフィー=バスタニアだけだ。互いにもう三〇男だ。セルフィーは、結婚もし、子どもも、五歳の息子と、三歳の娘がいる。彼の妻は、彼が自慢ばかりするほどの、美人で良くできた妻だ。だが、ニーネには劣る。


 「良いか、オーディン、お前は間違いなく英雄だ。お前が居たからこそ、皆纏まった。信用のおける男だからこそ、皆若かったお前に全てを託した。お前でなければ、アレは出来なかった。お前の父上ですら、適わぬ敵だったのだぞ。もう少し、自分に優しくなれ!」


 セルフィーは、オーディンにとって、実に心強い友だった。時が経っても、二人の関係は変わらない。オーディンと対照に、彼の名前は、無名に近いほどだった。それでも彼は僻むことはない。友人オーディンを、褒め称えた。


 「そうだな……、いつもお前はそう言う。堂々めぐりだ。そろそろ、自分を変えよう」


 何時までも悔やんでいては、セルフィーに申し訳ないと思ったオーディンは、強制的に自分の心を切り替えようとした。


 「そうとも!!」


 兎に角強引でもいい、それで彼が前を向けるなら、其れでよいと、セルフィーは思った。セルフィーは極端なほどに大げさで明るい声を出し、オーディンの方を力強く叩く。


 一息ついたオーディンは、スクリと立ち上がる。


 「何処へ行くのだ?!」と、セルフィー。


 「ニーネに、謝ってくる」


 照れくさそうに、そそくさと、部屋から、出て行く。


 「全く……」


 世話が焼けると、言わんばかりに、ため息を付く。やり場のない両手の平を宙に浮かし、参って首を左右に振った。


 オーディンは、あまりにも潔癖すぎるのである。悪に対しても、自分に対しても、そして使命感があまりにも強すぎる。偉大な父の影響を受けたのだ。その半面、他人には、心暖かく優しい。特にニーネには、異常なまでだ。故に、彼女を突き放したのだが、気がかりになって、いても立ってもいられなかった。一層自分に幻滅してくれれば、どれだけ救われるだろうか。


 だがニーネは決してオーディンの、そんな表面上の感情だけを捉えようとはせず、透き通った静かな湖面に、僅かな波紋を広げつつ、蟠りなくその心に触れてくるのだ。


 彼女の部屋にまで来ると、ノックをする。


 「ど、どうぞ」


 少し慌てた声で、中から彼女の声がする。


 オーディンは、気兼ね無くドアを押し開ける。が、そこには、目を赤く染めて、瞳を潤ませたニーネが待っていた。どうやら、戸を引き開けようとしたところだったようだ。一寸吃驚して、二、三歩退く。


 それから、オーディンに涙を見せまいとして、懸命に顔を背けた。その涙の様子から、オーディンに突き押されたことが、よほどショックだったらしい事が解る。オーディンは、自分の心ない行為だとして、深く心を痛めた。


 「す、済まない。ゴメン……」


 だが、なんと言って良いか解らない。取り敢えず戸を閉めて、二人っきりになる事を試みた。だが、何とも気まずい。よって、行動で示すことにした。彼女の肩を、自分の方へと引き寄せ、彼女の顔を、ぐいっと自分の方を向かせ、強くねじ込むように、キスをした。


 「うん……」


 その瞬間、ニーネは、放心状態となる。あのオーディンが、何の前触れもなく自分を抱きしめ、愛おしく迫ってくるのだ。それから、彼は、何度も頬摺りをしてくる。二人の頬が熱く重なる。オーディンの腕は彼女の腰へと回る。そして、彼女の頬に、しきりにキスで、挨拶をする。


 「嬉しい……」


 オーディンが、漸く自らの心の壁を一歩乗り越えたことが何より嬉しいニーネだった。


 「ゴメンよ。痛かったろう。怪我は無いかい?」


 「はい……」


 落ち着いた穏やかなニーネの返事が、オーディンの胸中で静かに響いた。


 オーディンは、そのまま彼女を、ベッドの上にまで運ぶ。今度は突き飛ばしたりはしない。仮面を取り、そのまま下に捨てた。二人は、そのままもつれ合って行く。


 オーディンの急な行動に、躊躇いと恥じらいが隠せないニーネ。しかし二人は、抱き合って行く。

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