第2部 第8話 §9

 シンプソンが部屋を出て、レイオニーも手帳を胸元に収め、立ち上がろうとしたときだった。。


 「レイオニー……よいな?功を焦るでないぞ。知識は、ひけらかすものではないのじゃから」


 バハムートは立ち上がることはなかったが、レイオニーの方を心配気に見つめるのだった。

 だが、これは納得しろと言う方が、無理なのである。生まれた知識を誇りの山に埋もれさせたい者など、どこにいようか?明日を追いかける若者達には、到底不可能である。バハムートでさえ、若い頃は自由の日々を謳歌していた。


 ただ、バハムートは、レイオニーがマリーのような末路を辿ってしまわないかが、心配なのである。彼はそれだけを案じている。

 レイオニーは嘘を隠せない。困った顔をしてしまっている。自分にブレーキを掛けながら、上手に力を使うことなど、大人だから出来る手段である。


 「後は、おまえさんが考える事じゃ……、時間が許す限りじっくり考えなさい。そして進がよい……」


 制限をつけておきながら、道の選択をレイオニーに決めさせる。バハムートは少し自分でも、逃げたように思えたが、レイオニーの困った表情に対して言葉を返せなかったのだ。


 だがレイオニーも、バハムートの最後の言葉で、釘付けになっていた空気から解放され、ここを動いてよいのだと、ほっとした気持ちになる。

 レイオニーが席を立ち、バハムートは再び人の気配がない、執務室に一人残ることになる。


 「儂は、いつからこんなに保守的になってしまったのかの……」


 ため息をついてしまうのだった。少し自分がいやになる。

 レイオニーはそれから、少し部屋にこもる。マリーの手帳をじっくり見るためだ。だが、手帳自体も風化が進んでおり、あまり乱暴に扱う訳にはいかないようだ。


 勉強机に向かって、最初のページからゆっくりと目を通して行く。

 そのとき、ノックもなく、扉が開かれる。

 心の準備のないレイオニーは、バハムートの言葉もあって、手帳を閉じて、隠すような仕草をしてしまうが、振り返って扉の方向を見ると、そこにはサブジェイがいた。


 「あー…………、死にそう……」


 しかし、足を引きずるようにして部屋に入ると、そう言って、ベッドの上に俯せにばったり倒れ込んでしまうのだった。水浴びをしているようで、汗のにおいもなく、すっきりした白いTシャツと、ジャージのズボン姿になっている。足は裸足にスリッパだ。


 ベッドに倒れ込むと、スリッパは、適当に脱ぎ散らかしてしまう。

 だが、声が出ている。それに、血なまぐささもない。

 そして、そのまま急に静かになってしまう。


 レイオニーは、サブジェイが寝てしまったのかと、彼にそっと近寄り、彼の顔をのぞき込んだ瞬間だった。


 サブジェイは、ベッドに埋めていた顔を横に向け、すっと瞼を開け、レイオニーを見て。ニッと笑みを浮かべる。彼の顔色は血の気が無くて、酷い顔色だったが、それでもその笑顔は、ここ数日にはなかったものだった。


 「ルークさんが、今日はここまでにしておこうって言ったんだぜ」

 「ん?」


 レイオニーには、その意味がわからないが、サブジェイが話しかけている。手帳を抱えたまま、ベッドの横に座り込み、サブジェイの顔をのぞき込んでみる。


 「今日やばかったんだよな。こんな調子だし。また、ザクってやられんじゃないかと、思ったのに……なんだろ……、すごく解るんだよ……感覚が鋭いっていうのかな……」


 サブジェイはまた目をつぶって、眠たそうにしてみる。そして、ベッドについた、レイオニーの手をきゅっと握ってみる。


 「嬉しそうだね……勝てなかったんでしょ?」

 「ん~~。けど、なんか嬉しいよ……。見えたから、今まで見えなかったものが……」


 サブジェイは、仰向けになり、ベッドの空間を半分レイオニーに空け渡す。それは同時に、自分の横に来てほしいという、サブジェイの願望でもある。

 そのとき、サブジェイはレイオニーが大事そうに抱えている、その手帳に気がつく。眠そうなサブジェイの目が、それを少し見つめる。


 サブジェイの視線に気がついたレイオニーは、片手で抱えていた手帳を持ち直し、彼女自身もその手帳を見る。


 「あ、これ……マリーさんの……、マリー=ヴェルヴェットが使っていた手帳だって」

 「へ?」


 レイオニーには、その手帳の重みが手に伝わっているが、サブジェイには解らない。レイオニーが、誰に憧れていたかは、知っているが。唐突に出てきたそれに対して、出てきたのは、それだけである。


 なぜ、そんなものが、彼女の手にあるのか?しかるべき場所にあるのが、普通だろうと考えるのが、一般的なものである。不可思議な出来事に、サブジェイは納得がいかない様子で、首を傾げて、それを見つめている。

 レイオニーは、今日一日のその手帳を手にする経緯を、サブジェイに話すのだった。


 サブジェイは、ムスッとふて腐れてしまう。目を閉じてそっぽを向いてしまうのだ。それだけ重大な出来事を彼女一人で起こしてしまったのである。出来れば、自分も側にいて、見守りたかったものだと、彼の顔にありありと表れている。


 「ごめーん!でも、サブジェイずっと、訓練で、いっぱいいっぱいだったし……」


 レイオニーは両手をあわせて、少しこびるようにして、サブジェイの機嫌を伺うが、サブジェイは、子供じみて拗ねている。

 だが、言葉を無くしてしまったレイオニーの様子が、気になり、サブジェイはちらりと、片目を開けて、レイオニーの様子をうかがうが、彼女は困った笑みを浮かべたままだった。


 サブジェイは顔を不満そうにさせながらも、レイオニーの手を引いて、ベッドの上へ引き寄せる。


 「それがあれば、この前言ってたやつ……、出来るんだろ?」

 「うん。あれよりもっとすごいの、造れるよ。ううん、造ってみせる」

 「そか……」


 サブジェイは完全に自分の方へとレイオニーを引き寄せている。そして、慣れ始めた彼女の愛し方を、示そうととしたときだった。


 「でもね!」


 レイオニーの声が大きくなる。別にサブジェイを拒んでいるわけではない。ただ、どうしても言っておかなくてはならいのだ。バハムートや、ブラニーが言っていた、マリーの末路。


 レイオニーの唇を奪おうとしていたサブジェイが、ウットリさせたさせた視線を少しだけ、彼女の不安を見つめる視線へと変わる。そして同時に、いつまでも待ち続けてくれそうな、優しい瞳に変わっている。少しだけ男も上げたということだ。待つ余裕が出来ている。


 レイオニーの目は訴えるものへと変わっている。急な不安に揺れているのだ。


 「すごく危険なことなんだって。この手帳を持っていることや、世界一の学者になろうとすることって……、みんなこれを欲しがってるから……」


 サブジェイはレイオニーの震える声が愛おしくなる。彼女の夢を語る時の瞳は、輝きに満ちていた。何も知らない無邪気さの中に、遠い夢をいつか叶えようとする、そんな純粋さと好奇心に満ちている目だ。そんな風に思えるようになったのは、ほんの数年間からだ。そしてそんな彼女が今、その大きな一歩を踏み出そうとしている。危険だといわれ、尚それを手にしたということの意味を知りながら。


 先日の戦いがある。人の力ではあり得ない戦い。サブジェイはふと、その戦いの中心にレイオニーがいることを想像してしまうのだった。


 「サブジェイ……いいよね」


 レイオニーの瞳が潤み始める。怯えながらサブジェイを信じるレイオニーの瞳。手帳を胸に納めながら、彼女はサブジェイの腕の中に身を託している。彼女も最悪の状況をふと、脳裏に過ぎらせたのだろう。


 「ずっと…………守ってくれるよね?」


 それは、以前から二人の間に交わされていた言葉だった。どんなことがあってもサブジェイはレイオニーを守るのだということ。卒業した後、世界を歩こうと話したときから、ずっと決めていた。


 だが、それはそう簡単な事ではないのだと、新しい経験が教えてくれた。だからこそ、次のサブジェイの言葉は限りなく優しく、強くたくましかった。


 「俺が……ずっと守ってやる……ずっと」


 二人は、唇を重ねる。

 そのとき、扉をノックする音が、二人の耳に響く。


 「二人とも、ご飯ですよ」


 ブラニーの声に似ているが、声の節々がおっとりとして柔らかい。ノアーの声である。

 ノアーはそれほど気の利かない女ではない。二人が室内にいると知ってたなら、声は掛けないはずだ。


 残念だ。高ぶった二人の気持ちが、しらけてしまう。

 世話になっている以上、無視するわけにも行かず、ベッドから起きあがり、扉の前で待っているノアーに顔を見せることにする。


 ノアーは何も言わない。ただ、少し困った様子で、にこりと笑ってごまかしているようだったが――。


 リビングに訪れると、その理由がわかる。


 「したいことは、済ませることを済ませてからにしなさい」


 と、ブラニーのさらりとした冷たい言葉が全てを物語る。大人達の手を煩わせるなと言いたいのだ。別に怒っている様子などはない。倫理的に堅物なのではない。ただ、自分たちの行動を完全に見越されているのだった。


 二人の楽しみは、少しの時間お預けになった。

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