第2部 第8話 §8

 二人は、再びバハムートの待つ、シンプソンの家に戻ってくる。

 そして、そこはリビングだ。


 ルークの姿はない。早ければもう戻ってきている頃だ。それは、サブジェイがまだギブアップしていないことを意味する。昨日からのサブジェイの状態なら、決着は早くつくだろうと思っていたが、ブラニーの予想は外れた。


 「さ、老師のところへ行ってらっしゃい。私は少し疲れたから……」

 「うん」


 レイオニーは、小走りにその部屋を出て行き、バハムートのいるはずの執務室へと向かう。

 二人の出した「YES」の意味が、それでわかるのだ。

 レイオニーが、扉をノックしようとしたときだった。


 「おお、もう帰ったのか……」


 反対側の通路から、バハムートがやってくる。彼も今し方、研究所から、戻ってきたところである。

 二人は、小さなテーブルを挟んで、ソファーに腰を掛ける。バハムートは、咳払いを一つ入れ、空気に一つの区切りを入れる。


 「二人から、何か聞けたかの?」

 

 レイオニーは、首を横に振る。自分の望んでいた成果は望めなかった事を伝える。

 

 「……でも、二人とも、イエスっていったわ。おじいちゃん、どういうこと?」

 バハムートは、レイオニーのその答えを待っていたかのように、ローブの懐から、一冊の分厚い小さな手帳を、取り出し、レイオニーの前に置く。


 「この手帳は? 」


 古ぼけたその手帳の表紙は、その殆どの文字が、かすれて読めなくなっている。だが、バハムートは、ある部分を指さし、その部分をレイオニーに注目させる。


 「マ……リー……ヴェエル……ヴェット。マリー=ヴェルヴェット!!これは!!」

 「そうじゃ、この手帳は、マリーの手帳じゃ。この中には、彼女の書き記した全てがある。じゃが煩雑で手荒なその内容を一つにまとめることは、容易でない。マリーの頭の中では、一つだったかもしれんが……。まぁ飛空船に関する部分は、すでにまとまっておる。儂のファイルにな」


 だが、レイオニーは首を横に振る。


 「自分の力で、これを解読してみせるわ」


 レイオニーは、その手帳を手にしようとする。

 だが、その前にバハムートが、手帳に手を置く。


 「待つのじゃ、人より優れた力を得ると言うことは、決して幸運に繋がるとは、限らないのじゃ。マリー=ヴェルヴェットは、名声と裏腹にその命を狙われた。恥ずかしいことじゃが、そんな一面もある世界じゃ、結果的にその命を殺めたのは、ルークやもしれぬが……、それでもその道を行くかの?」


 久しく穏やかなバハムートの瞳が、レイオニーの意志を鋭く観察する、探求者の目に戻っている。

 レイオニーは、ブラニーが言っていたを思い出す。バハムートもまた同じ事をレイオニーに告げているのだ。


 「小さい頃からの夢だもん……。負けたくない……」


 バハムートは、なかなか手帳から手を放すことが出来ないでいる。それはレイオニーに新しい扉を開かせると同時に、世界にも新たな扉を開かせることに繋がるからである。

 彼女が手にするか、手にしないか。たったそれだけのことで、世界の流れが変わって行くのである。一度はそのつもりだった。バハムートの躊躇いが取れない。


 「ご老体……」


 と、扉の前から聞こえるその声はシンプソンだった。

 今は、レイオニーとの大事な対話の時間だが、バハムートは、シンプソンを避けるわけには行かない。


 しばらく街を離れていた穴埋めをしなければならないし、ドライ達がいなくなった警備隊の補強もしなければいけない。そんな最中、態々部屋に訪ねてきたのだ。彼も重要な用事があるに違いないというのに。


 「よいぞ……」


 バハムートは、シンプソンに入室を許す。


 「やぁ」


 シンプソンは、疲れも見せない様子で、レイオニーに涼しい笑顔を見せてくれる。


 「ブラニーが、あなたの助力に……と言われてきたのですが?」


 と、シンプソンはそのために来たようだが、内容までは把握できていないようだ。ブラニーは元々、切れ者の女である。不安の侭に、バハムートが全てを動かす事が出来るかを、案じたのであろう。それはレイオニーへの助力をしていることを表す。しかし、実にタイミングのよい間合いだ。硬直していた流れが再び動き始める。


 「う……うむ」


 バハムートの視線は、再びマリーの手帳に行く。そして、シンプソンもその手帳に視線を移す。

 マリーの手帳がなぜ、そこに出ているのか。シンプソンは暫くそのことを考えつつ、レイオニーの横に座る。


 「シンプソン……この手帳をこの子に託そうと思うのじゃが……」

 シンプソンは、その言葉で何となくバハムートの言葉が歯切れの悪い理由を知る。

 「ご老体……、私や貴方……が、いつまでも流れを作っているわけではありません。この手帳の行く先も、そろそろ決めなくてはいけない時期が来ただけのことではありませんか?どれだけ振り返っても、残って行く道はただ一つ。貴方が止めたとしても……彼女に渡したとしても……」


 シンプソンは、バハムートの手を、そっと手帳の上から離す。


 「未来は、彼らの手で……」


 シンプソンに離されてしまったバハムートの手は、宙で行き場を無くしてしまう。そしてシンプソンが、丁寧にその手帳を両手で持ち上げて、レイオニーの手元へと送るのだった。


 「より高く……より可能性のある場所へ……ね」

 シンプソンはウィンクをして、レイオニーににこりと微笑む。シンプソンがほっとした空気を作る。普段は頼りなげに見えることの方が多いシンプソンだが、実に不思議だった。


 それは、ドライやドーヴァやローズががハチャメチャであったり、オーディンがそれに巻き込まれて、爆発したりと、一人では制しきれない空気があるからだろう。


 だが、シンプソンはこの二十年、帰る場所を無くした子孫達に、その場所を作った男なのである。小さな孤児院から始まり、今はこの街の市長をこなしているのだ。


 立ち上がったシンプソンが、不思議に大きな存在に見える瞬間だった。


 「さてと……いい気分転換になりましたね。議員達が五月蠅くて」


 とシンプソンは、苦笑いを浮かべる。


 「こういうとき、ドライがいれば、一言で静まっちゃうんですけどねぇ。どうも、そう言うのは苦手で……」


 「ふぉふぉふぉ……、おまえさんは真剣に怒ってしまうからいかんのじゃ」


 バハムートは、それでも何処かにゆとりを持っていそうなシンプソンを茶化すようにして笑う。


 「あはは、ドライは面倒くさいときには、机をたたき割っちゃいますからね。あれやってみましょうか?ガタガタうるせぇぞ!ですか?」


 シンプソンは拳を真下にたたき落とすアクションを、軽やかに取ってみせる。軽くストレスを発散しているようだ。


 「税金の無駄遣いじゃのぉ」

 「大丈夫ですよ。ちゃんとお給料から引いているんですから」

 「ふぉふぉ……貴奴、翌日には、いつも不機嫌ヅラじゃったの」

 「あははは。そりゃ、ローズがね……解るでしょ?」


 バハムートとシンプソンは、ドライがローズに拳骨を食らわされて、大きい身体を縮めている姿を想像すると、おかしくて腹を抱えてしまう。


 「かなり笑っちゃいましたね。今の話、ドライには、内緒ですよ?」


 シンプソンは、いつでも柔らかい雰囲気でこうして微笑んでいる。ウィンクをしてみせ、口元に人差し指を立て、背をかがめ、座っているレイオニーに、口外厳禁と頼み込んでいる


 「さてと、机をたたき割って、黙らせてきますか」


 シンプソンは、両手の平を軽くはたいた後、両腕を組んで凝り固まった背筋をのばしつつ、そこを後にするのだった。

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