第2部 第5話 §4
ドーヴァとアインリッヒがその場を去ろうとしたその時だった。上空で風を切る音とともに、一つの固まりが彼らの上空を猛烈なスピードで飛んでゆく。それはドライだった。その異音に、三人は、それぞれに気が付き、上空を見上げる。だが、安定した様子で飛んでいるのではない。錐揉みながら、高度を下げつつ飛んでいるのである。いや、落ちていくといった方が、表現的には正しいのかもしれない。
そして、その後方をブラニーが手を伸ばしながら、追尾している。何事かの事故らしいことは、一目瞭然である。
「オヤジ?」
いろいろな意味で、普段見られないドライの姿に、サブジェイがその目を疑っている。
「らしい……行ってみる」
と、オーディンがそそくさと走り出そうとするが、思い出したように振り返り、一言言う。
「サブジェイ!今日は危なかった。負けるかと思ったぞ!」
それが、本音なのだろう。オーディンが胸に支えさせていた一言を、漏らしていく。サブジェイの気持ちは、半分だけ晴れる。親指を立てて、拳を突き出し、力強くサブジェイに向けるのに答え、サブジェイも、び!っと同じ仕草をする。
オーディンは、大地を蹴ると同時に高速飛行に入る。だが、おそらく落下していくドライには追いつけそうにないだろうことは、勘で分かる。
サブジェイは、再び俯くことになる。そして、なんとなしにため息がちなのだ。当たり前と言えば、当たり前なのだが……。
「ボウズ、すごかったぜ、惜しかったな」
と、ザインが、和らいだ笑顔を作り、慰めも込めて、サブジェイの右肩をぽんぽんと叩くが、サブジェイはそれを嫌い、ザインの手を手の甲で払いのけてしまう。
「あんた剣士だろ?わかってねーんじゃねぇ?」
と、きっと睨む表情は、ちょっとした不良少年といった表情だろうか。そういう表情は、すごみのあるドライというより、人と一線を引くために、睨んだ炉機のローズによく似ていた。キっとした表情だった。
ザインは、目をぱちくりとさせ、返答に困る。
「その僅かってのが、縮めらんねーんだよ。とっさにあんな事するなんて……」
サブジェイの言いたいことが、解らないこともないザインだった。彼らが、お互いを殺すつもりで、剣を向けあうとは、到底思えない。だとすれば、最後の一撃は必ず寸止めになるはずだ。あるいは、躱すことの出来る状態に追いつめるように、技を放つはずだ。だが、今回は、ドーヴァが止めに入っていなければ、オーディンの剣は、間違いなくサブジェイに刺さっていた。
理由は二つある。サブジェイが予測していたオーディンの間合いではなかったこと。もう一つは、オーディンがそれだけ、必死だったということ。
だからこそ、そこまでオーディンに力を尽くさせた、サブジェイが凄いと褒めているのだが、サブジェイはそれが解っていない。
だが、確かに、それに対して、満足してはいけないのだ。ザインはもう少し、この少年を悩ませることにした。
「悪かった。つぎ、頑張れよ」
ザインは、もう一度サブジェイの肩をぽんと叩き、その場を去ることにした。アインリッヒを追うためだ。
「ん」
ふてくされ気味のサブジェイの返事。視線はすでに、ザインから離れていて、何かを考え持って、正面の空気を眺めているのだった。
さて、落下していったドライはというと、薄く輝く結界のぎりぎりに立つ民家に激突し、天井に大穴を開けさせ、その中で、埃だらけになっていた。
「全く!何度言ったら解るの?回避運動の時に上げた速度を、下げること!馬鹿じゃないの!?」
埃まみれになっているドライが、頭を押さえながら、座り込んでいる。ブラニーはそんなドライの側で、しなやかに体を少し傾けながら、腕組みをして立っている。右手にはノートとペンが持たれている。
ドライの頭上に、ブラニーの容赦ない叱咤が飛ぶ。思わず肩をすくめ、首を縮めてしまうドライだった。
「幸い空き家だったから、よかったものの……」
とブラニーがため息がちに、その一言を言う。昔の彼女からは、考えられない一言だった。
それにしても、ドライの怪我のことなどどうでもいいようだ。尤も、ドライは怪我らしいものは、何一つしていない。体中が、白く煤けてしまっているだけだ。頭をしきりに左右に振り回し、埃を落としている。
「はいはい、解りました。センセーっと」
確かに、ドライの表現が当てはまっていた。理数系の教師と、理論が理解できないで補修をさせられている生徒行った構図に近いだろ。
ドライは、膝を押さえながら、体が重そうにゆっくりと立ち上がる。ドライの仕草は、心理状況をよく表していて、解りやすい。
「そこにすわって」
ブラニーは、埃だらけになっている、木製の椅子を指さす。具合よくテーブルもあり、椅子ももう一脚横にある。もともと、リビングのようだ。
ドライは、ぶすっと文句を言いそうな顔のまま、ブラニーに従う。
言い方にとげはあっても、心理的な不快感がないため、反論できないのだ。窘めたり見下したり……、そういうたぐいの感情が感じられないと、反抗もしにくいものだ。
二人が並んで、席に着く。ブラニーはドライの右側に座った。
「いい?攻撃に対して、下方に回避するのは容易いけれど、連続した攻撃に対して、併せて下方への回避を行うと、速度が増して、最終的にはコントロールが困難になるわ。そこへ、旋回運動回転運動を体に加えてゆくと、重力感覚の麻痺、視覚障害なども起こるし、当然、高速飛行によって、脳内の血流量の著しい低下も起こるわ。つまり限界点に達してから意識を維持できる時間内に、速度を落とし体勢を整えなければならないの。貴方が気絶したのは、いずれも限界点を遙かに超えたスピードで飛行したからに他ならないわ。また急激な減速もさけるべきね。血管が切れるわよ。今より反応速度を上げて、極力左右に躱し、上方向に逃れる練習を重ね、下方への回避はバリエーションの一つにすることね」
と、熱弁して、図解をしながら、教えてくれるブラニーなのだが。
「……にしてもよぉ、おめぇ……絵がへたくそだな……」
ドライは、別のことに意識を集中していたらしい。
と、よけいなドライの一言に、ブラニーは、すぐさまノートを右手ですくい上げるようにして、ドライの顔面に叩き着けた。
「て!」
ドライの悲鳴が一瞬聞こえ、顔面からノートがはがれ落ちる。叩き付けられたノートの勢いは顔拓が取れてしまいそうなほどだった。
「本当に信じられない男!」
ブラニーは怒りながらも、真っ赤な顔をしている。立ち上がって、ドライの旋毛から大声を吹き込んでいる。ドライはまたもや、肩をすくめる羽目になる。
ブラニーは落ちたノートから、図解のページをちぎり取り、丸めて彼方へ放ってしまう。
「どうして、ルークが貴方みたいな男に一目おいているのかが解らないわ!」
ドライは、まだ怒鳴っているブラニーの表情をおそるおそる、目を開け、視界に入れる。それにしてもたいした胆力である。同じ姉妹でも、ノアーからこういう勢いのある姿は見たことがない。
妹の方が上品だ!なんていおうと思ったが、今度はペンで手の甲あたりを 刺されてしまいそうだ。
と、今度はブラニーはペンをドライに向かって、突き出す。ご立腹の表情だが、何かを言いたそうだ。何となくピンとくるドライだった。
ドライは、ペンを取り、ノートを抱え込むようにして、ブラニーに背を向け、何度かチラチラ彼女を見てはペンを走らせる。完成まで秘密というわけだ。
「ん」
振り返りざまのドライはいやにクールな視線だった。
「う……」
ブラニーから漏れる一言だった。怒っている自分を凛々しいデフォルメにして、渡したドライだった。しかもより美人に――だ。確かに、図解という観点からは、話がそれてしまっているが、貶しようがないのである。
ブラニーはノートの上から、ドライに何度か視線を送ると、ドライはこらえてはいるが、にやにやしている。先ほどの不自然なクールさは、この前兆だったのだろう。
「信じられないわ……、貴方みたいな大ざっぱでガサツさの固まりみたいな男が……なんでこんな……」
とブツブツ負け惜しみを言っているブラニーだった。
ドライと居ると、精神的に負かされてしまう人間が多い。オーディンもそうだった。別に優位さを奪われたわけではないが、時々こんな楔を心に打ち込まれ、堅くなっていた殻を破られてしまうのだ。
別にドライが意識しているわけでもないし、どちらかといえば感情的に不完全なものはドライの方が多いのであるが、反論できなくなってしまう。
尤も、ドライへの訓練や、ブラニーの発言に対して間違っていることなど、何一つないのだ。許してしまいたくなる一面が、彼にはある。
ブラニーはノートを閉じる。
「さ、訓練を再開するわよ」
と話をそらせ気味に、本道へと戻る。
「あいよ。センセー」
と、そのときオーディンは、その空き家の前にまできていたのだが、ドライに別状がないこと、ブラニーの怒声、微妙に顔を出すタイミングをなくしたことから、熱気が冷めた様子で、うなじあたりを軽く掻きながら、やれやれ……と言い足そうに、その場を後にする。
ドライとブラニーは再び、訓練に戻るのだった。
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