第2部 第5話 §2

 オーディンとサブジェイの戦いが、しばらく続くであろう気配がしている頃だった。

 別の方角では、黒いトレーニングウェアを着込んだドライが、準備運動をしている。ほとんどが戦闘用ジャケットと、ジーパン姿といった彼らしからぬ服装である。動きやすさだけを重視した格好だ。


 彼の目的は一つ、より鋭敏に空中を動き回れるようになることである。

 ぼんやりしながらも、何かを漠然と、考えていた。差詰めイメージトレーニングといったところだろうか?昨日の感覚を、じっくりと体の中で反芻してみる。


 屈伸をしながら、ふと上空を眺める。セインドール島の気候は、この時期でも少し肌寒い。運動をして汗をかくには、ほどよいのかもしれない。透き通った青空の中を、まがまがしい陰が雲を作っている。それらは、遙か上空だったり。形状が認識できるもであったり、様々である。


 この結界は彼らの意識には、触れられていないのだろう。こちらに何かを仕掛けてくる訳ではない。


 「さてと……」


 ドライは、屈伸の終わりに前屈気味に膝を押さえて、太ももの裏を軽くのばす。そして、再び姿勢をまっすぐにしたときだった。


 「のんびりしているのね……」


 少し冷ややかで、わざと壁を作り気味で、低くも高くもない感じの、落ち着いた女性の声が背後から聞こえる。その声は少しノアーに似ているので、ドライはそうだとおもったのだが、そうではないようだ。あきれた意味合いが、何となく含まれていそうな気がするのは、気のせいだろうか?もしノアーならば、ドライに対して親しみを持った柔らかい声で話しかけてくる。


 振り返れば、その声の主が誰なのかは、すぐに解ることだった。

 ブラニーである。白いワーキングシャツに、黒いショールを羽織り、また黒いパンタロン履いている。パンプスも履いているが、やはり黒だ。これは、彼女の色なのだろう。ルークも好んで黒を着る。色的に落ち着くのだろう。


 つややかな彼女の長い黒髪が、さらに雰囲気を作り上げている。才女と言う雰囲気がにじみ出ている。


 「ん?」


 どことなく面白くなさ気なドライの返事、横着に首だけを横に向け、視界ぎりぎりに彼女をおさめる。彼女は小脇にノートを抱えている。


 ブラニーだと解ると、ドライは興味がなくなった様子で、再び正面を向き、今度は肩の筋肉をほぐし始める。首を左右に傾けたり、両肩をまわしてみたりと、念の入っていることだ。


 「何かようか?」

 「用がなければ、わざわざ来ないわ」


 ブラニーは、ノートを草の絨毯の上に置き、ドライの背中に右の掌を当て、何かをつぶやく。すると、ドライは、首を動かすのも肩をまわすのも止める。それは紛れもなくシンプソンの得意分野である、回復魔法だ。攻撃魔法重視のブラニーに、意外な技である。もっとも、初歩のようだが。

 すーっと重さが引いていくのが、解るのである。


 「ルークが、あなたの訓練に付き合うようにと、いったわ」


 ドライは何も言わない。昨日も行ったとおりのことである。ただルークがブラニーを差し向けたのは、衝突が起こらないためであろう。女相手に、ドライが喧嘩を売るなど考えられないのは、誰もが承知の事実である。ブラニーなので、追い返してもよいが、ドライは先手を打たれてしまった。


 「回避運動のための凄まじい旋回と、普段ではあり得ない縦方向からの重力。人間の体はそれに適応して出来ているわけではないわ。首や肩に掛かる負担は、想像を絶する……違うかしら?」

 「まーな……」


 いかに筋肉の鎧を着ているドライでも、風圧でかかる首や肩への負担は相当なものであるようだ。

 数分間の事ではない。何時間もの事である。万能であるような、伝説の魔導師の子孫達でも、急激には対応しきれない事実は、いくつもある。


 「ルークの古代魔法は、せいぜいミドルクラス。質量もエネルギー値も、あまり参考にはならない。魔物達が放つエネルギーを想定した場合、おそらく私が放つエネルギー弾が、最も実戦に近いはず」


 尤もだと思うドライだった。憮然とした表情を浮かべながらも、はねのけることは出来ない。尤もブラニーを邪険に出来ないのは、彼女に悪意がないからであるに、他ならない。


 ブラニーが手を当てるのをやめる。治療の頃合いだろうと、ふんだのだろう。

 ドライは、彼女の正面を向き、視線を合わせる。穏やかな目をしているのが、互いによく解るのだった。だが、なれ合いをする間柄ではない。ブラニーは、すっと視線をはずし、先ほど彼の向いていた方向へと、足を進める。今度は背中合わせといった状態だ。


 が、今度はドライが、ブラニーの背中をおうように、振り向くのであった。


 「本当なら、極力直線の方が望ましいのだけど……」


 とブラニーが口を開き始める。


 「うん?」


 低い声で、何を言い出すのかと、不可解だと言いたげな表情を浮かべながら、首を少し右にかしげ上目遣い気味に、ブラニーの背を見る。


 「半径数キロに亘って広がるこの結界内では、あまりの望めそうはないわね」

 「ああ……」


 彼女の言いたいことを理解すると、ドライは再び空を眺める。


 「取り敢えず、時計回りでいいわ、始めましょう」


 さらりとしたブラニーの言葉。彼女も空を眺めている。結界は薄いベール上になっている。近寄ればその境界線が解るのだが、遠くだと霞んで景色と同化している。


 命令口調が少し面白くないが、いちいち文句を言っていても埒があかない。それにルークほど腹の立つ思いはしない。それは、ルークに対して甘えがあるからだろう。確かにブラニーとは直情的なしがらみは少ない。


 ドライは何も言わず、上空にゆっくりと立ち上る。風船が空に導かれて、上っていくように静かなものだ。

 ブラニーも、彼の背中をおうように、静かに飛び始める。


 「本番では、徐々にスピードを吊り上げるなんて、甘いことは出来ないから、そのつもりでいって」

 「解ってるよ」


 ブラニーの指示は的確だ。もっとも、解っていることも含まれているのだが、罵声をするのではなく、言葉できちんと説明するところが、ルークとは大違いである。


 「10分間……限界点を目指して。手は出さないから」

 「了解!」


 淡々とした説明のブラニーに対して、ドライはため息がちな返事である。やる気がないのではない。楽しくないだけだ。


 ある程度上空に昇ったところで、ドライは、一気にスピードを出す。ブラニーはあっという間に、おいて行かれるが、別にそれはたいしたことではない。ドライが小さな点になり、地面に対して平行に飛び始めるの目を細めて、確認する。遠くに行けば、自然に動きが視界に収まるようになるが、それでも見失いそうだ。ブラには、黒いタイを取り出し、目隠しをする。


 視界ではなく感覚で、ドライを捉えるためだ。これは、遠視という能力だが、尤も鮮明な映像を得る力を持っているのがシンプソンである。続いてブラニー、ノアーといった順序であろう。ブラニーの中に、自然とこの情景が再現される。しかもそれだけではない、このフィールド全体が彼女の感覚とリンクしている。


 ドライも、何気にその感覚にとらえられたことが解る。それはある意味、自分をとらえるための結界だ。

 と、そのことに気を取られているわけにはいかない。限界点までスピードを上げる。それは、意識を失うほどのスピードのことだ。


 速度を上げると、当然のことだが、進行方向とは逆に重力がかかる。脳内の血液の流量は極端に減り、意識を混濁させる。彼らのレベルになると、体内の重力感覚が麻痺しても、瞬間なら感性で判断できる。自分のイメージだけで処理しきれるのである。だが、それが長時間続くと、そうは行かない。それに予想以上に寒い。昨日はルークとの悶着で、熱くなっていたので、気を取られることがなかったが、冷静である今は、感じなくてもいい感覚まで、知ってしまう。


 「まった!」


 ドライは、目標の10分も経たないうちに、上空で速度を落とし、そう叫ぶ。当然ブラニーもそれを捉える。

 彼女が、目隠しをはずす頃には、ドライが目の前に現れていたが、自分の両腕を抱き、歯をガタガタと振るわせている。


 ブラニーは、震えているドライの手を取り、細い指で握ってみると、氷のように冷たくなっている。昨日は剣を持つためのグローブもしていたし、ジャケットも着ていたおかげもあるだろう。今はトレーニングスーツだけだ。生地の隙間から、大量の風が入り込んだことだろう。


 「確かに、速度を上げるためには、少しでも身軽にしないといけないという気持ちは分からないでもないけど、気負いすぎね……」


 そういうと、ブラニーは、感傷に浸ることもなく、触れていたドライの手を離す。


 ドライは一度姿を消す。防寒着に着替えるためだ。ブラニーはしばし、地面の上で、立ちつくして待つことになる。そして次に現れたときには、まるで超高度に挑む戦闘機乗りのような、完全防備で現れる。額にかけていた、黒縁の角張ったゴーグルが、なおそう思わせるのだった。色合いは、あまりパッとしないグリーン系統にまとめられている。手袋も少し厚手のものを着用している。色はブラウンだ。よほど寒かったのだろうと、ブラニーは、少しクスクスと笑ってしまう。


 「さぁ。始めましょうか」

 「おう」


 先ほどとは違い、どことなく言葉尻が軽いドライだった。

 ドライはいきなりトップスピードで、上空に飛び上がり、先ほどと同じ方向で、空を回り始める。


 ブラニーは、再び目隠しをして、ドライと同じように上空に舞い上がる。

 それから、ドライの心に呼びかける。これは、伝心と呼ばれる術だ。


 「いい?今が限界だと思わないで、もっと早く飛べることをイメージして。もちろん魔法に対する防御にも気を配っておいて」

 「言われなくてもやってるよ」


 ちょっと五月蠅いと言い足そうな、ドライの声。もちろんブラニーに届いている。

 ドライとブラニーは、始終そんなやりとりをしながら、着実にドライが的確に飛べるように、ハードルを乗り越えてゆくのだった。

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