第2部 第5話 最終セクション

 時間が経った。両手を怪我したドーヴァは、寝室でベッドの上に横たわっている。手にはもうダメージはない、神経が切られた感覚をまだ覚えているため、両手には包帯が巻かれている。過敏になっている感覚を押さえるためだ。そしてぼんやりとしている。


 側にはアインリッヒがいる。


 「あいつ等の剣を止めるのに、結構『気』を使ったから、疲れてるだけや。化け物の世話ってのは、大変なんや。あんたも、旦那の所へかえってええねんで」


 窓の外をのんびりと眺めながら、声は穏やかに、ただ平坦だった。ずば抜けた強さを、あえて悪態をつき、皮肉たっぷりに褒め称える、ドーヴァ。瞬間、わくわくした顔をする。


 ドーヴァには解っていた。なぜ彼女がそこにいるのか。考えれば当たり前の話だ。自ら母親だと名乗り出ている彼女なのだ。だが、あまりにも空白が多すぎるし、その一つ一つが大きすぎる。

 時間をつなげたいが、アインリッヒは饒舌な方ではないし、ドーヴァもお喋りだが、器用な生き方をしてきた人間ではない。それを伝える術はあまりに拙い。


 見知らぬ他人だったら、無意味に側に居られる事が鬱陶しく思える。確かに、彼女はドーヴァから見れば他人だ。そうしてもよいのだ。だが、アインリッヒには心があってそこにいる。

 また、無碍に追い払うことは、それは自分が彼女たちの存在に何かを感じ、ムキになっているのではないか?と考えると、結論としては、させたいようにさせればいいと、自答する。


 アインリッヒは、ベッドの側の椅子に、腰を掛け俯いている。聞き出したいことがなかなか聞き出せないで居たのだ。だが、何かがふと、彼女の背中を押す。それは、彼女の中の葛藤のバランスがその方向に崩れたからに他ならない。


 「ドーヴァ……、おまえは私の子だ、おまえはふつうの子だ……。だが、おまえは年を取らない……」


 意味はよく分かった。彼女の今の経緯はすでに聞いている。


 「私とユリカの額に埋め込まれた『夢幻の心臓』は、自然死を許さない、呪われた呪術だ。きっとこの後、永遠の生に苦しみ、時代の流れに苛まれ、嘆く日がくるだろう。おまえはどうして、そんな道を……選んだ」


 「強くなりたかったんや。ドライやルークみたいにな。生き急いでたかもな。あいつ等ぶっ倒して、賞金稼ぎ世界一……、単純な夢や。そのときルークが、俺の前に現れた。俺は当時売り出し中の賞金稼ぎ。生意気で生きもよかった……、手っ取り早く強くなって、ドライを倒して、一番になれる方法がある……。そういいよってなぁ」


 ドーヴァの口調は、どこまでものんびりとしている、本当に昔の楽しい思い出を語るような口調だ。悩みも迷いも何一つない、悟りを開いているような、穏やかな物腰だった。語ろうとしている内容は、禍々しい。


 逃げずに語るドーヴァの邪魔をしないように、アインリッヒは、窓の外に目を向けたままのドーヴァの頬に視線を向け、黙って彼の語りを聞く。


 「クロノアールの体細胞が人間の壁を打ち破ってくれる……てな、俺は当時でも強かった。やけど、それは下から見たら……の話で、特にドライなんかと比べると、色あせて見えた。俺は体も小さいし、腕力に長けてる訳でもないし、攻撃魔法が使えるわけでもない。オーディンとサブジェイみたやろ?」


 と、ちらりと、アインリッヒの方を向くドーヴァだった。だが、すぐに視線をはずす。また窓の外だ。


 「ああ」と、頷くアインリッヒ。


 「あの通り、サブジェイのあの凄まじい切り込みを躱しきる反射神経、あれが上の次元や。俺も漸う追いついたのは10年前。20年前のあの大変動のあと、今のサブジェイみたいに、ドライとオーディンになんども、食って掛かって、負けてまた、向かって……と。まぁ、なんでクロノアールの細胞を体に取り込んだか?って言われると、血迷ったんやなぁ。形だけの強さばっかりに拘って、心の中は空っぽやった。強くなって一番になってそれからどうする?挑んできた連中を血みどろにして、なんて考える前に、ひょっこりセシルと出会った。まぁ、話すと長いけどな……。クロノアールとシルベスターの争いの中の出来事やった。偶然の出会いじゃなかったけど……。クロノアールの力で、迂った力を得た俺がシルベスターの子孫であるセシルに惚れた……。ふざけてる。でも、何一つ後悔してないわ。俺は、まよわへん。こいつ等ととことんやっていきたいねん。それに今は毎日が楽しい……。尤も、死なれへんようになるっての、ドライもルークも俺も誰も思いもよらんかったことやけどな」


 現実を逃避しているようで、全てを吸い込むようにして受け入れているドーヴァの言葉は、相変わらず静かだった。


 ドーヴァの感覚には、相も変わらず、アインリッヒ達との親子関係に共感する言葉は見られなかった。ドーヴァは彼等の存在を無視しているわけではない。彼にとっては、二人もあるがままの現実で、それ以上以下でもない。ドーヴァは何を口にすればいいのか、もう解っていた。意地を張っているわけではない。ただ彼自身にそれに対する思い入れがないのである。


 「なんちゅうてええんか、解らんけど。俺は楽しくやってる。それでええ。やから……」


 ドーヴァの言葉は、そこで一端とぎれる。


 「生んでくれて有り難うやで」


 窓の外を眺めたままのドーヴァの一言だった。彼の一言には、感謝ただそれだけの感情しかこもっていない。アインリッヒもそうだと解っているのだ。だが、目が霞み、体が震え目からこぼれるものを押さえきれない。


 「うう……うう……」


 両手で顔を伏せ俯き、懸命にこらえる。単純な言葉が欲しかった。それだけの想いが叶えられた喜びは押さえられない。


 「ちょ……、俺なんか、悪いこというたか?なぁ」


 女を泣かせたことに、意味もなく罪悪感を感じている。わたわたと、あわて出す。ベッドから起きあがり、彼女の両肩に、手を触れようとするが、腫れ物に触るみたいで、どうにも出来ない。


 「いや、いいんだ……おまえの言葉が……嬉しくて……、心のどこかで、憎まれているのではないかと……ずっとずっと、気がかりでならなかった!胸が、苦しかった……」


 そう言っているアインリッヒは、全く顔を上げようとしない。


 「はぁ……難儀やなぁ」


 たまらなく迷惑そうな、ドーヴァのため息。憂鬱さが露骨に出ている。だが、そんな彼が次に行った行為は、こうだった。


 寝そべっていたベッドの上で、アインリッヒに向かい、腰を掛け、泣いているアインリッヒの頭を、そっと右の肩口に抱き寄せ両腕で彼女の肩を包み込み、頬を彼女の頭に宛がう。


 「楽しゅうやっとる……いうてるのに、わからんやっちゃなぁ……」


 ドーヴァは、アインリッヒが納得の行くまで、そうしているのだった。

 絆、疑問、成長、交流、様々なものが彼等の間を行き来していた頃、この男は、なお飛び続ける。


 「凄い……凄いわ……」


 半ば悦に入っていたのは、ブラニーだった。彼女の攻めは容赦ない。まるで何かにとりつかれるようにして、ドライを攻める。目隠しをし感覚のテリトリーを、街を保護する結界内に、張り巡らせ、両手から、直径一メートル程度の青白いエネルギーの固まりを、ドライに向けて何十発と放ち続けるのだった。


 だが、ドライはそれを機敏に躱して飛び続ける。しかも紙一重の無駄のない動き出る。どれだけ隙間を詰めて狙っても、ドライはそれにたいして、次の攻撃をイメージして躱す。恐ろしい集中力だ。


 「テメェもな!」


 と、テリトリー内にいる二人は、感覚で言葉を交わす。ドライから見るとブラニーはまさに底なしである。どれだけのエネルギーを放ち続けるのであろうか?しかも、上空にとどまり、自分を感覚で捉え続けている。


 魔力で自分を置き換えると、おそらくあんな感じなのであろうと、ドライは妙な想像してしまう。


 「仕上げよ!」


 と、ブラニーが叫ぶと、彼女は更に二回りくらい大きなエネルギー弾を、恐ろしい早さで打ち出してくる。料も倍以上だ。速度も先ほどの比ではない。音速など遙かに超えている。無論ドライの飛行速度も音速を超えている。


 限界速度のテストらしい。ドライはこれを躱しきった後でも、当たり前のように飛行できる状態でいなければならない。ブラニーはそれまで、責め立てるつもりだ。だが急激な速度変化は禁物である。見極めて飛ばなければならない。旋回下降上昇、減速加速。あらゆる手段を使いなをそれらを最小限の幅で済ませる。


 ある時、とたんに攻撃がやむ。光弾のまぶしさにさらされていたドライの周囲に、透明な空間が広がり、遠くに薄青い空が広がっている。


 そのうえ、釈迦の掌の上で転がされているような圧迫感も視線も何も感じることが出来ない。


 今まで、執拗に責め立てたブラニーが、やけにあっさりと、切り上げたものだと思ったドライだが、妙な胸騒ぎを感じる。先ほどまで、彼女の居たと思われる方角に向かい、最高速で飛ぶ。


 次の瞬間、ブラニーの姿が見えると同時に、彼女は意味ありげにふっと笑い、次の瞬間浮力を失い、ふらりと落ち始め、ついには完全に引力に引きつけられてゆく。


 「うお!マジかよ!!」


 ドライは、すぐに下降するブラニーに追いつき、彼女の腕をつかみ、重力から救い出す。


 「少し、調子に乗りすぎたわね……、限界まで魔力を使った事なんて、なかったから」


 と、とんでもないことを言い出すブラニーだ。だが、ドライは尤もだと思う。どの事態に置いて、一般的先頭に置いても、あれほどの力がいるのだろうか?と、自問自答してみる。シルベスターとクロノアールと自分たちの戦い以外、無用である。ドライが剣を振るうのとは違い、瞬殺出来る彼女の魔力である。三発放てば、大半が死滅し、残りは離散して逃げるだろう。


 ドライは、ブラニーを腕に抱え直す。女を腕に抱えていると言うこともあって、ゆっくりとしたスピードで、飛ぶことにした。相手が相手なら、このままデートと洒落込みたいところだが、ブラニーはどうも苦手だ。ノートで顔をはり倒された感覚がじんわりと思い出される。ブラニーの細い腰をすっぽりと抱き包んでしまうたくましい腕だ。ブラニーから見れば、対象外のことだが、何気にぽつんと可笑しげにつぶやく。


 「なるほどね……、この腕なら一度くらい抱かれてみたいと、ノアーが思うのも不思議じゃないわね」


 と、興味深げに撫でてみる。ローズもザックリととんでもないことを口にする女だが、彼女も負けず劣らずのようだ。


 「くだらねぇこと、言ってると落っことすぞ……」


 ドライは面白くなさそうな顔をする。姉は妹のことをよくご存じのようである。だが、ドライのこの一言が、ブラニーに思わぬ一言を言わせてしまう結果になる。


 「そうね。頭の悪い男の特訓に付き合った馬鹿な女が、落ちて死ぬっていうのも、まんざら悪いセッティングじゃないかもしれないわね」

 クールに発している言葉だが、寂しげなトーンだった。


 「何がいいてぇんだ?」

 「忘れたわけではないでしょう?私は貴方の両親を殺した女なのよ。ローズがむき出しにした憎しみは、貴方にもあるはずよ……」


 そう言われてしまえばそうだった。だが、ドライには両親の記憶はすでに、掠れたものになっている。それよりかは、セシルへの想いととらえた方が、強いのかもしれない。


 「ばかばかしい……。帰るぜ」


 ドライの本音だった。これ以上なにを掻き乱すというのだろう。身も心もボロボロになって行くだけだ。ローズの痛々しさが、胸にズキリと響く。人は一度壊れてしまうと、より強い衝動で他を壊し、それの苦しみを消し去ろうとする事がある。人が傷み崩れることで、虚しい瞬間的な悦を得ようとする事もある。痛みを受けたものは、必ずその痛みをそれ以上にしてその相手に与えようと考える。最後には死が待っている。


 ドライの頭の中で、瞬間的にそれが回った。

 二人が城にたどり着こうとしたとき、室内でイメージトレーニングをしていたジャスティンが目を開ける。


 同じように目を開けたセシルとノアーがこくりと頷く。

 シンプソンは、やれやれ……と、言った様子で、ふっと息を吐く。


 彼等はジャスティンを中心に、半径一メートルの円を三等分して座る。正面がシンプソンだった。


 「途中ドーヴァが治療に来て、思うより疲れてしまいました……。ティータイムにしますか……と……」


 シンプソンが、全員の顔をちらりと、伺ってゆく。


 「ん……レモンティーに、ドーナツでもあれば良いのだけど」


 と今度はノアーが、ジャスティンとセシルに視線で問うと、二人とも特に思い立つものがないようで、自分に確かめるように、小刻みに二、三度頷いてみる。


 胡座をかいでいたシンプソンが、すっと立ち上がり、ズボンの膝元を整えるようにして、二度ほど払い。穏やかな挨拶をして、手を振ってそこを後にする。少しの間仲良くして待っていてくれといった意味合いだった。


 「姉さんの娘だけあって、飲み込みが早いわね……、実戦を意識して訓練したから、多分大丈夫ね」


 とノアーが、ふっと目尻を下げながら、右方向からジャスティンに声を掛ける。


 セシルは何も言わない。別にジャスティンが嫌いなわけではない。むしろ好きな方だろう。熱心で懸命で、純情で、ずるさがない。なぜ彼女がブラニーの子どもなのだろうと、頭の中で何度もリフレインする。


 ドライもローズも彼女の悲しむ顔を見たくないから。だから、ルーク達への殺意も揺らいでしまったのだろうと、セシルは思う。


 「大丈夫。実戦じゃ私が、カバーしてあげるわ。今日は終わりにしましょう」


 セシルが立ち上がると、ジャスティンは一礼をするが、一つピンと緊張感のあるセシルに対して、彼女は言葉を自由に解き放つことが出来ない。セシルの顔は穏やかさを作って見せてはいるが、絶えず何かを考えている。ドライとローズ、父。そして、ドライの妹であるセシル。過去に何かがあったことは確かだが、正しいことは伝えられていない。母の妹であるブラニーと、セシルの距離感は、決して遠くない。言葉を交わさないが、二人の間には緊張の壁がない。ジャスティンはそれを聞くことが出来ない。


 「あ、私ちょっと、お手洗いに行ってきます」


 と、今度はジャスティンが席を外す。

 お手洗いといっても、ホテルのように、何もかもが、そろっているような部屋だ。ジャスティンは、一つの扉を開け、洗面質を通り、その向こう側にある手洗い場へとはいる。


 エチケットのために、互いの音は通らなくなっている。


 「セシル……」


 と、切ない声を出し、ノアーが少し瞳を潤ませ気味に、セシルを見つめる。両手を胸元で、不安そうにきゅっと握りしめているのだ。


 「大丈夫。貴方の姪だもの。悲しみに沈めるような思いはさせないわ、姉さんが、復讐とは、どれだけ悲痛な思いをするのか、教えてくれたから」


 と、セシルが目を閉じると同時に、自分の心を静めながら、そう口にする。

 セイルの背中側で、扉の開閉の音がする。それは洗面所の方で、ジャスティンが戻ってきたことを意味する。

 二人はそのことについて語るのをやめた。


 「セシルさんて、沢山の魔法を知っているのね。母も沢山の魔法を知ってるけど、攻撃面だけじゃなくて、攻撃補助や、防御魔法なんかも……、私の師匠になってもらおうかなぁ」


 ジャスティンはにこにこしながら、向かい合っているブラニーとノアーと正三角形を作るような感覚の位置に座る。これは、セシルとの接点を持とうと彼女が思いながら話してきたことは、容易に解ることだった。彼女はセシルを知ろうとしているのだろう。


 「そうねぇ。でも平和な時代には、それほど必要なものは、ないとは思わない?花嫁修業の方が良いと思うけど?」


 と、セシルは随分真面目に答えてしまう。投げかけられた質問に対して、分け隔てなく真面目に考えるセシルだった。


 「え……、うふふふ。そうかなぁ……」


 ジャスティンは、恥ずかしそうに顔を赤らめながら、セシルを上目遣いに眺めながら、本当にそうなのか?と言いたげに、更に返答を待っている。

 セシルが真面目なのに対して、ノアーは、ジャスティンのはにかみが、容易に想像できた。


 「ついでに、料理も教えて差し上げては?」


 ノアーは小可笑しげに、軽く握った右手の内側で口元を隠しながら、真面目なセシルの顔を静かに見守っている。


 「だめよ、わたし未だに、姉さんに『オオマケで八十点!』て、言われるものぉ。料理なら姉さんの方がいいわ」

 「でも、ローズは、すぐ手が出るわよ?結構大ざっぱだし……」

 「そうよねぇ……、でもおいしいの……なんでだろ……」


 セシルとノアーが共通の疑問を抱いている姿が、ジャスティンには不思議に可笑しかった。ここにローズがいれば、この二人が酷く絡まれる姿を、不意に想像してしまう。確かにローズには、何事に対してもきめ細やかというより、大ざっぱでボリュームといった感じだ。


 「料理」というより「飯!」といったほうが、なんとなくしっくりいく。

 「あぁ、でも料理というのなら、ニーネの方が……」


 と、またもやノアーが思い出す。


 「ニーネさんは凄いわ。手書きレシピ見せてもらったことあるけど、物理のノート見てるみたいだったもん」


 セシルは、半ば苦笑い気味に、ニーネに料理を教えてもらったときのことを思い出す。ニーネは穏やかな人柄だが、全てにおて穏やかという訳ではない。手抜かりがないといった方が、確かだろうか。


 と、学ぶと言うところから、いつの間にか話がそれて、そんな話になっていたが、ジャスティンは、「へぇー」と感心しながら、集中力が口元に及ばず、少し開き気味になって、それを聞き入っている。


 「ニーネさんて……、オーディンさんの奥さんですよね?」


 と、ドライ達の街に移ってからおそらくほとんど会話をしたことのない人物に対しての、再確認のため、ジャスティンが、二人に公平に一つの声で聞く。


 「うん。静かで控えめな人だけど、ちゃんとみんなのこと見てる人よ。姉さんが一目置いてるし」


 セシルの声は、静かなトーンだったがニーネという人物が、どういう人なのか、彼女の頷きながらの説明が、説得力を持たせていた。それに併せて、ノアーも頷いている。


 「おやおや、話が弾んでますね……おじゃまになりませんか?」

 と、シンプソンが仲のよい彼女らの会話にご機嫌そうに、室内に戻ってくる。片手には、四人分の紅茶セットと、ドーナツが入っている。ドーナツといっても、まっすぐなスティック状の揚げ菓子パンに香ばしいシナモンの振られた単純なお菓子だ。揚げパンはひねりが加えられていて、即席でないことをかろうじて主張している。表面は、きつね色に程よくこんがりと、あがっている。室内持ち込まれると、紅茶とドーナツの香りが、絶妙に絡み合い、胃腸の欲求を刺激する。


 ノアーが少し、移動し、シンプソンがセシルとノアーの間に入り、全員の中央の絨毯の上に、トレイをすっと置く。本当にラフなスタイルのおやつタイムだ。


 シンプソンが加わり、話は和やかに軽やかに流れてゆく。

 セシルは、いつの間にか蟠りなく、ジャスティンと話していることに気が付く。彼女と話していると、ブラニーへのこだわりが、徐々に薄れてゆくのが解る。許せるわけではないが、指先にまで迸る怒りは、静かに胸の奥へと沈められてゆくのが、解る。


 セシルの胸の中で、止まっていた時間の一つが、砂時計の砂のように、さらさらと流れゆくのであった。

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