第2部 第4話 §5

 天下無双……。ルークにはその時代があった。しかしそれは、ルークを脅かす存在が皆無であったことを意味し、彼はそれまで、負けを知らない。ドライと戦えばどうなるかは解らないが、引き分ける計算は可能である。


 オーディンと戦ったとしても、ドーヴァと戦ったとしても、おそらくそれは、計算できるのだ。ローズは過去に一度倒した相手である。そのローズに対して、今のルークは計算が立たない。


 今ルークの脳裏には、彼女が身重だという認識が完全に抜けてしまっている。彼女の外見的な変化は、目立ったモノではないのだから、当然なのかもしれない。


 二人の間に、冷ややかで、落ち着いた空気が流れる。夕凪のような、静まりだったが、誰もが緊迫感に息を呑む。ドライですら、やめろと言えない。自分のためにも彼女のためにも、これは止めるべきでないことを、直感で感じ取っているのであろう。


 ローズは、ゆっくりと、剣を逆手に持ちなおし、右足を前に、少し広く前後に開いたスタンスをとり、腰をゆっくりとおろすのだった。左肩が、軽くゆっくりと、前に出る。ロングソードを使うための構えとしては、変則的で異様だ。まるで短刀を扱うようなスタイルである。レフティーである希少な剣士であるから、なおさら違和感がある。


 それを見たルークも、切っ先をまっすぐローズに向け、すこし右半身になり、瞬時に前後左右に身を動かせるように、軽めに腰を落とし、彼女との間合いを作りつつ、彼女の次の行動を伺う。


 次の瞬間それは始まる。


 先ほどのゆったりとした動作とは、正反対に、ローズは、一気に身を沈めると同時に、逆手にもった剣を大地に突き刺し、それと併せて、大地を蹴り、低い姿勢でルークに詰め寄る。


 それは、予想を遙かに超えるスピードだった。ルークは、ステップで正面に向き、柄を両手で持ち、防御の態勢に入ろうとする。


 ルークの間合いに入ったローズは、下方から、剣をなぎ払う。音速の切っ先である。それが、ルークの右のこめかみを捉えようとする瞬間、彼は顔面間近で、剣を立て、それを防御する。力では当然ルークに分がある。しかし、ローズの放った音速の波動は、止めることが出来ない、激しくぶつかる金属音とともに、ルークの鼓膜に直撃するのだった。


 瞬間的にルークの五感が狂う。かき消された聴覚に、次のローズの攻撃を捉えることが出来るはずがなかった。


 力一杯ルークの剣にたたきつけた自分の剣を、今度は柔らかく持ったまま矛先をルークの眼前を通過させる、と同時に、回し蹴りである。ローズの右足がルークの剣の後ろ側から回り込み、彼のこめかみにその足の裏がヒットした。


 ローズは、深い蹴りを入れずに、素早く足を引き戻した。深く入れすぎれば、ルークは反射的に、しかも確実に彼女の足を切り落としにかかるからである。

 ルークの視覚と、平衡感覚は再度狂わされる。だが、感が狂いきった訳ではない、本能的にローズの位置を察知し、次の行動に移ろうとした。


 だが、その瞬間である。


 ローズは戻した足を、今度はまっすぐに蹴り上げるのだった。彼女は完全に背面を向けたままの状態で、ルークと戦闘をしている。

 ローズの感覚はとぎすまされ、背中を向けたままの彼女の右足の裏は、ものの見事にルークの持っている剣の柄の底辺をすくい上げる。


 ローズの連続攻撃は、ルークに攻撃の隙を与えない見事なものだったが、それは彼に確実なダメージを与えるものではない。

 二人を知り尽くしているドライ達は息を飲むしかなかったが、ザインの視点は違った。これを確実に巧みだと感じたのだ。ルークの実力は定かではない。だが、いくつか解ることがある。


 音速の剣を放つには、微妙に溜めがいること、人間の肉を切り裂く瞬間その刃は確実に速度を落とすこと。そして、ルークは肩当てのついたマントを羽織っている。正面の突きで、彼の心臓をぶち抜くことぐらいが、唯一の方法だろうが、一流の剣士である。死の間際でさえ、引き分けるすべを知っている。正面からの勝利、それはたやすいことではない。


 柄を蹴られたルークの右腕は、頭上にまで跳ね上がり、その横腹が隙だらけになる。

 ローズの右足も伸びきっている。頭を地面すれすれにまで体を曲げたそんなローズが、下方からルークを見上げる。疾風のように動き回る彼女の赤い髪が、美しく風の動きに流され、舞っている。


 剣を放すことはなかったが、右手を大きく跳ね上げられたルークは、左手で魔法を放つために、掌中を赤く輝かせる。

 これは、ローズと彼の共通事項である。二人は魔法剣士だ。通常での剣術の接近戦では、ルークが遥かに長けていることを、述べておこう。


 ルークが魔法を放つまでのコンマ何秒の間、ローズは体勢を立て直し逆手に握ったままの剣を面を、ルークの手のひら付近に突き出す。このとき彼女はまだ、背中を向けたままである。


 赤く輝くレッドスナイパーの刀身は、魔法をはじき返すのだ。瞬間ルークの手がひける。この至近距離で魔法を放てば、確実に彼の手が吹き飛ぶのだ。


 ルークは掌中の魔法を生かすことが出来ず、ローズの左頬すれすれにそれを放つことになる。

 彼女は目の前を瞬間的に通り過ぎるその光線にすら、瞬きをしない。


 ルークの迷いを期に、ローズは少し間合いを取るようにして正面をむき直し、剣を順手に持ち直し両手で握り、縦真一文字に剣を振り下ろす。だが、これですらコンマ秒の速度である。


 ローズの剣技自体には、それほどの重量はない。準備不足でもルークがそれを受け止めることは、十分に可能だ。ルークは両手を剣に添え、頭上で剣を寝かせ、確実にそれを受け止める。

 退いて躱すことも可能だが、初手の高速剣が、布石となっていた。彼は退けないのだ。


 ローズの動きを止めたルークの反撃の瞬間だと思われた。

 正面に対峙したローズの剣を跳ね上げ、彼女の胸中のガードをゼロにし、真上から叩ききる事が出来るのだ。


 しかし、ローズの剣を跳ね上げた瞬間、その跳ね上げが、予想以上に軽い。

 当たり前だ。ローズは、抵抗せずに剣をそのままルークの剣圧に任せて手放してしまったのだ。


 力を入れたルークの腕は大きく右に振れ、その頭上はがら空きになってしまう。その瞬間ローズの右足は、高々と上空にあがり、その踵がルークの脳天に直撃する。筋力のバネを限界にまで使い切った渾身の一撃だった。


 ルークの五感は三度にわたり狂わされる。この一撃は、前回の二撃とは違い、深く洗練されている。

 ある意味これは剣技に長けたルークらしからぬミスだった。ローズが剣を捨てることを、思いもしなかった。


 ローズは右足の着地とともに、左足を引き、右前に構え、左の脇腹付近で、バレーボールを持つほどの距離で、両手のひらを向かい合わせ、瞬時に、青白い球体のエネルギーを発生させ、溜を作ることなく、一気にルークの眼前に突き出した。


 だが、その刹那。


 彼女の右方向から、第三者の手が伸び、その両手をルークの頭部10センチ上に向けさせ、それを阻止する。ローズが魔法を放つと同時に、彼女の両腕をつかんだ主とともに、ローズは数メートル、後退する。放たれたエネルギー体は、轟音を立て、遙か彼方に飛んでゆく。地面と彼女の靴裏の摩擦で、美しい芝がはげ、黒土がむき出しになる。


 ローズの両腕をつかんだのは、ドライだった。目を丸く驚かせ、冷や汗を隠しきれない。その視線はルークに注がれている。

 ドライの両腕は、しびれている。それほどの威力だ。ローズの手のひらからは、空気が焼ける特有のにおいがする。無臭だが無臭でないような……熱のにおいである。


 轟音が、彼方にかすれて消えたその時、まるで戦いの勝敗を下すかのように、はじき飛ばされたローズのレッドスナイパーが、二人の中間位置の地面にザン!と、地面に突き刺さる。大地に突き刺さるその音は、重々しかった。まるで、その戦いの意味を告げ、皆の記憶の奥に何かを刻み込むように、耳の奥に残る。

 魔法を放ったローズの息は荒い、瞳孔が開き、神経が高揚し、自分を抑制しきれないでいる。


 ルークは、膝をつき、かろうじて、意識を失うのを免れた


 「巫山戯るな…………」


 そんな言葉が、苦痛とともに食いしばった歯の奥から漏れる。


 「戦いの最中に、剣士が剣を捨てるだと!?」


 これは、ルークの自負だ。この戦いは、賞金稼ぎとしての仕事でも、混沌の戦闘でもない。互いのプライドと、生き様をかけた戦闘だ。ローズから仕掛けた戦闘であり、少なくとも、彼には、そう思えたのだ。もやもやとくすぶり、処理しきれない感情を、声に出してぶちまけるルーク。


 がば!と、立ち上がり、早足でローズに詰め寄ろうとする。


 「やめいや!ルーク!!」


 割って入ったのはドーヴァだった。ルークより、一回り小さなドーヴァが体一杯で、正面からしがみつき、彼の進行を止める。

 まだ、頭の芯にしびれが残るルークは、100%の行動が出来ない。ぎりぎりで食い下がるドーヴァをふりほどけない。さらにイライラが募る。


 精神をコントロール仕切れないローズは、ドライに押さえられたまま、震えている。心身共に極度の興奮状態にある。ルークの言葉は、耳に届いているが、言葉として何かが浮かんでくることはなかった。


 震えてはいるが、ローズの体から、緊張が取れる。ドライは、それを感じると彼女の両腕を解放した。


 飽和状態だった。


 ほっとする訳でもない、文句がある訳でもない。ただ、一つ彼女の中で、何かが終わったことだけは確かだった。

 ローズは剣を残したまま、全員に背中を向けて、立ち去ろうとする。ルークを挑発した彼女が、彼の負けをひけらかすことは、なかったのだ。


 「くそ!巫山戯やがって!!プライドがねぇのか、てめぇには!!言い出しっぺだろ!」


 矛盾だらけである。彼女は身重である。ハンディ戦で負けたようなものだ。仕掛けたのはローズだが、彼女の状態をルークは十分知っていたはずである。


 だが、ローズの剣はルークを捉えるために使われいないのは、確かなのだ。牽制、防御、フェイク。それのみである。ルークが望んだ戦いではなかったのだ。彼が望んだのは、音速で地面を裂いたその気迫を持ったローズなのである。確実に入ったのは、脳天への蹴り一撃である。すべてがそれへの布石。そのために、自分と生死をともに生き抜いた剣を、いとも簡単に両手から放したのだ。

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