第2部 第4話 §4
しーん……とした間が、数秒続く。
「もう一発いる?」
と、ローズが地面におりながら、声をかけると同時に、アインリッヒが、もう一樽担ぎ、振りかぶろうとする。そんなアインの後ろには、いつの間にか、騒ぎに駆けつけた全員がいる。もちろんイメージトレーニングをしていた面々も、である。シンプソンも、ジュリオも例外ではない。
「わ!まった!」
そう言ったのはザインである。これ以上喧嘩の巻き添えは勘弁願いたい。右手の手のひらを目一杯前につきだし、ぶんぶんと振る。と、アインは、樽を軽々と、トン……と、地面におく。
こうなると、しらけたのはルークだった。苛立ちも興ざめに変わる。
「けっ!」
面白くなさそうに、つばを吐き捨て、すくっと立ち上がり、浸水したブーツをグチョグチョと格好悪く音を立て、水で滴ってしまった自慢のドレッドヘアのかき分けながら、ローズの横をすぎようとする。
「まった。話が終わってない!」
逃げないように、ルークの腕を鷲づかみにして、完全にルークの行動を封じてしまう。
突っぱねてふりほどけるほど柔な女でないのは、承知済みである。らしくない自分を、ブラニーもじっと見ている。逃げ出せなくなってしまった。
ルークが逃げ出さないことを認識したローズは、ルークの腕を解放し、水浸しになって、座り込んでいる男共の真ん中に立つ。そして、情けない男共の、顔を順々に鑑定してゆく。なにがどうなのか……である。ドーヴァとサブジェイを見るときは、視線を交わすが、オーディンとザインはさらりと流してみる、彼らがザインと喧嘩する理由は、何となく希薄であり、混然とした喧嘩には、なりづらいことは、勘でわかる。オーディンが喧嘩の中心になることは、まずあり得ない。彼らもローズとにらみ合いをするほど、ばつの悪いことはしていない。
が、ドライは違う……。ローズと視線が合うと、わざと疲れ切ったような雰囲気で俯いてしまった。
「……んだよ」
それでも執拗に、ドライを睨むローズに対して、彼の口から出た言葉は、それだった。
「なに、むくれてんのよ」
珍しく冷たい声だ。誰から見ても冷ややかに感じられる。いつも、ラブでホットな二人には見られないほど、よそよそしく、冷めたやりとり。微動だにしない、視線も交わさない。ローズの視線は睨む様子から、一転無機質に分析を始める、冷淡な視線に変わっていた。ドライには、鋭く痛いものだ。
「うっせーよ」
「うるさくない……、ちゃんといいな!あんたでしょ?原因は!」
「だまってろ!っつってんだろ!!」
上から静かに、ドライを地面に縛り付けながら、声でさらに、彼の逃げ道を一つ一つ塞いでいくように、ローズが明確な口調で、ドライをしかる。ドライは、処理しきれないイライラを地面に吐きつける。ローズに向かって言わないのは、それが、どこか筋違いであるということを彼が一番よくわかっているからだ。それに、ドライには、ローズに対して邪気を向けることなど出来ないのだ。それが、どんな理由であろうと……である。
今、ドライは、力ずくで苛立ちをぶつける相手はいない。誰を殴り倒しても後味がわるいのである。唯一のルークでさえ、もう相手にしてくれないだろう。
今度は、しゃがみ込み、ドライの顔を両手で柔らかく持ち上げ、優しく視線を合わせる。
「ホラ、いってみな。ん?」
自分でイライラを増幅させておきながら、今度はそれをふんわりと和らげるローズだった。見つめられたドライは、刹那ほども視線をはずすことが出来ない。不安と動揺、愛しさと切なさが、ドライの中でぐるぐる回る。それが解るのは、当然ローズだけだ。オーディンは、ドライの理解者だが、彼の本質を理解できるのは、ローズだけなのだ。言葉ではなく、瞳がすべてを語る。
「葛藤」
それ一言ですべてが片づけられるのだ。ただ、自分の感情の抑制がひどく不得手なドライである。彼の理性が不明確に、彼をひどく苦しめるときがあるのだ。
そこには、ローズとドライが共通する想いがあり、ドライとルークが築き上げてきた、小さな感情があった。すべてが唯一の存在であり、今の彼には、選びようもないことだった。だが、失ったモノもある。そして、忘れ得ない記憶と感情。ローズにはよくわかっていた。セシルを慰め、マリーの問題で、ローズをなだめた彼もまた、その憎悪を抱き、なおかつ、別の感情も抱いている。
「そっか……」
ローズは一度だけ、ぎゅっとドライを抱きしめた。
周囲から見れば、それは単なる、二人の自己完結にしか思えない。
だが、ドライはそれですべてが、緩やかに溶けていった。ほっとしたのだ……。力が抜け、閉じられたドライの瞼。その目尻の流れ、眉毛の流れが、誰にも穏やかに見える。どうして、もみ合いになったのかが、解らなくなってしまうほどだった。
トントン……と、ドライの背中をあやすように二度ほど叩き、もう一度きゅっと抱きしめ、そして、ドライから離れると、ゆっくりと立ち上がり、静かにアインリッヒの方を見る。
「剣をかしてくれる?」
と、殺気も覇気も戦意も持たないような表情で、左手をすっと、差し出すローズ。何をする気なのだろう?と、全員が、彼女の動向に目を見張る。
「ああ……」
と、アインリッヒが、虚をつかれた様子で、少しあわただしく、腰に納めていた、ローズの愛刀をはずし、鞘ごと彼女に渡すのだった。彼女は、最悪の場合それで喧嘩を止めるつもりだったらしいことは、長いつきあいの連中には、何気にぴんとくる。鞘でぶっ叩くのだろう。考えただけでも血の気が引く。
冗談じゃない……と思ったドーヴァの額から、大粒の汗が一滴流れる。
アインリッヒから剣を受け取ったローズは、そのまま無造作に、すらりと鞘から剣を抜き、左手に剣を持ち、鞘を地面の重力に任せ、放る。
ローズは、ルークに視線を合わせると、剣を逆手に持ち、正面を向き、右足を前にして、少し地面を踏みしめ、自慢の愛刀をピュピュン!と、八の字に振り回し、高い快音をたてる。ロングソードとは思えない非常識な快音にびっくりしたのは、ザインである。
〈なんて女だ……〉
無論腕力なら、アインリッヒの方が勝っているだろうが、極限まで高められたその速度は、その比ではない。
ローズは、剣を順手に持ち直すが、特に構える様子はない。
ずぶ濡れになっているルークは、その意味を理解しようとはしなかった。また、理解しがたい。過去の経歴から、その実力差は、明確だからである。ルークには、魔法をかき消す、ローズにとって、不利な能力がある。彼の脳裏には否定の答えしか返ってこない。まして、ローズは身重である。ばかげた行動である……が。
「白黒……ちゃんと、つけなきゃね。」
不敵な笑みを浮かべる。けだるく剣をたれ下げたまま、迷うことなく歩みをルークの方に進める。歩みにも意志が感じられないような、ふらふらとしたモノがある。
ローズは、戦士である。ルークにはその行動の意味がわかる。そして、ドライ達がローズの歩みを、抑止できないでいるのも、彼らがそれぞれプライドをもち、彼女のプライドを理解しているからである。
ギャップ。
一言で言えば、そうなるだろう。その拡散しきった意識と裏腹に、彼女はある一つのことしか考えていないのだ。動作や思考に意識が反映されないほどに、集中しきっているのだ。静かな空気が、ピンと張りつめる。それは、間合いを詰めてくるローズとともに、実感として、ルークに伝わってくる。
凄み。
感覚を言葉で表すとそうなる。彼の体重が無意識に微妙に踵にかかる。
「ローズ……」
ドライが漸く声をかける。そう、皆の沈黙が、彼女のすべてである。意識できないまま、言葉を封じられていたのである。ドライの一言が、全員を違和感のない金縛りから解き放つ。にわかに緊張していた体の筋肉がほぐれると、体に軽さが戻ると同時に、彼女の状態を知っている全員が、同じ行動をとろうとする。が、
「けじめ……つけるだけ……大丈夫」
うふ……と、そんな感じの穏やかな笑みを浮かべながら、髪をふわりとなびかせ、背後の彼らに振り替える。手を伸ばしているドライの口が、空気を含んだ状態で開いている。こんなローズは初めてだ、優しさと厳しさと覚悟が穏やさに包まれている。
「ばかばかしい……」
と、ルークが、興味を持てない様子で、対決を挑んできたローズを無視するように、背中を見せかけたその瞬間。想像を絶する切っ先の音がする。先ほどの音よりもさらに高周波だ。ほとんど音にならないようで、耳に痛く残る。圧力で鼓膜が変になりそうだ。
異常な音に振り向いたルークが目にしたのは、先ほどとは全く違い、鋭く瞳をぎらつかせ、厳しく睨みつけ、立っているローズだった。ローズの目の前の空気は、細い一筋の糸になり、切り裂かれ白くたなびき、揺らめき、静かに漂い徐々に風に散らされ始めている。彼女の目の前の大地は、ざっくりと細く亀裂が入っている。
事実は一つ、ローズのなぎ払った超音速の切っ先が、それを生み出したのだ。
ルークには、なぜそこまで、今、この勝負に、彼女が拘らなければならないのかが解らなかった。
だが、ルークは気がつく、振り返りざまには、すでに、腰の剣に手をかけ、剣を引き抜こうとしていたことに。真っ黒な刀身が、少しだけ、鞘の中から、その本性を現す。柄を握った手のひらに、じわりと汗が滲んでいるのがわかる。そして、その手は剣を放せずにいる。ローズに向き直した時には、どうしようもなく、剣をゆっくりと確実に引き抜いていたのだった。鞘から離れるときにこすれる、冷たい金属音が響き、日光にさらされた黒光りの刀身に縮小された太陽の分身が、そこに映り込む。
「ローズ?」
ノアーが心配げに声を漏らす。
「1分……1分だけだから」
この言葉が、ルークのプライドに火をつける。ルークをにらみつけたブルーの瞳は自信に満ちあふれ、開かれた口元から放たれたその言葉は気高く、明確で、物怖じせず。漲る気迫は、厚い壁となっている。勝利を収める気でいる。
「上等だ……」
ルークの声が震えた。武者震いである。体の芯がうずき、それを止められない。だが、ルークはそれを興奮だと認識しきれないでいた。
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