第2部 第1話 §5

 シードは、夕刻、いつものようにジャスティンのために、自宅で勉学の準備をしている。


 其処へ彼女がやってくるのだ。


 「今晩は!」

 「やぁ。済みませんね。夕べはどうも疲れていたみたいで……、今日はダイジョウブですから」

 「良いんです。その前に、夕食作りますね」


 ジャスティンは、妙にそわそわしている。キスは彼女だけの、秘密なのだ。


 「別に気を使わなくても……、食事なら自分で取れますから」


 と、言っているものの、自分自身の料理は、彼女のを見てしまうと、食べる気を無くしてしまう。


 「あ痛!」


 少しそわそわしていたジャスティンは、その勢いで、指を切ってしまう。何だか良くあるシチュエーションになってきた。


 「ダイジョウブですか?」

 「一寸切っただけだから」


 ジャスティンは、平気な顔をして、自分のドジさ加減に笑っている。深いわけでもないが、決して浅くない傷だ。一瞬、魔法で対処しようとしたシードだが、次の瞬間には、彼女の指を口に含んでいた。


 「あ!」


 吃驚したのはジャスティンだった。昨日のキスの件がある。彼は知らない。同時にシードは思う。ドライの冷やかしの言葉だけが頭をよぎる。


 〈ひょっとしたら、そうなのかも……〉


 その瞬間、針で脳幹を貫いたような電撃が、身体中に走る。血と本能のみで感じる、妙な身体の迸り。まるで百億年に一度の恋を見つけたかのように、身体中の血が騒ぎ出すシードだった。強ばったシードの顔。昨日の彼の寝顔とは対照的で、ジャスティンは、恐怖すら感じる。


 「キスの経験は?」


 シードの率直な質問。


 「あるわ」

 「いつ頃?」

 「昨日」

 「誰と?」

 「貴方と……」


 今度は、ジャスティンが我を失う。全てが何でも良い。血が全てを決めた。二人に一つの結論を与えたのは、それから一時間も経たない後だ。ベッドの上で欲望の全てをかなえたシードは、ジャスティンと身を交えたままの体勢で、彼女を強く抱きしめた。


 「ゴメン。僕は最低だ。自制できなかった」

 「うんん。私も変だった。身体中が急に熱くなっちゃったの。そしたら……、して欲しいって……、こうしてるのも、イヤじゃないワ」


 軽く首を横に振り、彼の頭を抱え込み、自分の胸の中へ引き込んだ。シードの耳にトクントクンと、一定に早い彼女の鼓動が聞こえる。どうしてなのか理解できないまま、彼女を欲した自分への言い訳を考え始める。それが自分達の体内に流れる、血のためであり、シルベスターとクロノアールの子孫達が、互いに引き合う宿命にあり、濃い血を残すための本能的な反応であることは、知る由もない。それが、敵対なのか、仲間なのか、生涯共にする相手なのかは、時と場合による。一つだけ言えることは、クロノアールとシルベスターの争いが無くなった以上、彼らの間に敵対関係はない。そして、ベッドの上において、仲間意識もない。


 シードが懇々と悩んでいるときだった。玄関が激しく叩かれる。扉を壊しそうな勢いだ。シードは、当然出迎えに行こうとするのだが。


 「離れては、ダメ……」


 愛おしく、潤んだ瞳をシードに向け、彼の腰を抱くジャスティン。二人の繋がりをより深くするため、膝を立て、彼の足に自らの足を絡める。


 「ダメだよ。それに何だか様子が変だ」


 通常なら呼び鈴で済ませる話である。それを激しいドアのノックで、何かを伝えたがっている。


 「シードさん!居ないんですか!!」

 「はぁい!今出ます!」


 仕方が無くジャスティンから離れたシードにも、彼女に包まれていた余韻が残っている。軽くズボンだけを履き、出迎える。戸を開くと、其処にはドライの部下と思える一人の男が、酷く息を乱し、今や遅しと、彼を待ち望んでいた。


 「どうしたんです?」

 「隊長が!隊長が!!部下を庇って!」


 彼は酷く混乱している。


 「落ち着いて!!」

 「シンプソン様が、懸命に治療しているのですが、怪我が酷くて!!兎に角一刻を争います!!早くセガレイの家に!!」

 「解りました」


 シードは返事をしたものの、とても信じられなかった。確かに怪我をすることはあるが、己の命に関わる怪我をしたことのないドライだ。しかもシンプソン一人で賄いきれないほどの怪我である。死ぬ寸前と言っても過言ではない状況を、覚悟しなければならない。


 話し声は、寝室にも十分届いていた。ジャスティンは既に着替え、彼の上着を手にしている。


 「私も行く!きっと何か出来る!」

 「急ぎましょう!」


 言葉と同時にジャスティンを抱きかかえ、全力で駆けるシード。まるで疾風だ。人間離れしたその速さに、ジャスティンは声を出すことが出来ない。超人的な父に勝るとも劣らない。


 実家に着いたシードは、玄関先で彼女をおろすと、一気に中へ駆け込む。入り口からお構いなしに、夥しい血痕が続いている。恐らく夜に紛れて、様子が解らない外も、同じ光景が続いているだろう。


 「いやぁ!ドライ!!ドライ!」

 「落ち着くんや!俺等ではどうにもならん!!」


 部屋の前では、気が狂ったように叫び散らすローズと、彼女を羽交い締めにして、漸く制止しているドーヴァが居る。シードとジャスティンは、血の続いている部屋に駆け込む。その後ろから続くように、サブジェイがやってくる。


 「シード!早く!!」


 部屋に入ったシードにすぐ援助を求めるシンプソン。


 「解りました!!」


 惨たらしいドライを目の前に、ジャスティンは吐き気をもよおす。砕けた骨が露出し、ちぎれた内蔵が飛び出し、しかも肉の焼けた異臭が立ちこめている。死にかけの金魚のように、口をパクパクとさせ、半開きになり虚ろになった目が、別の世界を見ている。


 〈赤い目……〉


 ジャスティンは、胃の中のものを出しながらも、その特徴的な目だけを捕らえる。


 「オヤジー!!」


 サブジェイが、力のないドライの手を握りながら、喉が裂けるほどの大声で叫ぶ。すると、死にかけのドライの意識が、突然に戻る。ゆっくりと、息子を見るドライ。


 「よぉ。馬鹿息子……」


 明確だが、生気も力もないドライの声だった。


 「馬鹿オヤジ!俺はまだあんたを越えてねぇんだよ!!」

 「大丈夫……、俺は死に馴れてる。それよか……、ローズの奴がよぉ……、大泣き……するんだよ。やかましいって……、いっといてくれ」


 ドライらしさに、シンプソンも大声を出し、泣き出したくなる。しかし、彼の絶命が決まったわけではない。泣くのは、全ての手を尽くし、最悪の結果を見てからでも遅くはない。


 〈赤い目、レッドアイ。この男が父さんを狙ってる?そんな……、もしそうなら、このまま殺してしまった方が……〉


 「レッドアイ」


 キーワードのようなその一言を口にするジャスティン。ドライは反射的に彼女を見る。レッドアイとは、ドライの賞金稼ぎであったときの通称だ。彼と遭遇し、その瞳に睨まれた者が、初めてそう言う。赤い目の狼が、一般に知られていた、彼の通称である。彼の反応を確かめたジャスティンは、確信をする。


 「そら……みみ、かな?」

 「訳のわかんねぇコト言ってんじゃねぇよ!オヤジ、しっかりしろって!」


 声をかけ続けるサブジェイ。


 「ドライィ……、ドライぃ」


 鳴き声になったローズが、落ち着きを取り戻したのか、そう言いながら、ドライの頭の近くに座り込む。なんと愛おしそうな声だろうか。何故捨てられたのか理解できず、飼い主をこよなく求め続ける子犬のような声だ。サブジェイは、握っていた手を、ローズに渡す。


 その時、極限まで力を使ったシンプソンが、意識を失いフラリと倒れる。


 「父さん!」


 皆がこうして、ドライの生を望んでいる中、ジャスティンだけが、その逆を望んでいた。しかし、ローズの横顔を見ると、これ程辛いことはない。


 「ダメだ!僕だけじゃ治療と延命を同時には出来ない!」

 「私が接吻で、ドライの命を繋ぐわ」ローズが言う。

 「ダメです!そんなことをすれば、ドライさんの命を繋いでいる貴方に、治癒魔法の過剰な負荷が掛かります!二人とも死にます!」


 栄養と水を与えすぎた植物の結末は、誰もが知っていることだろう。


 「シード!!」


 その時、ジャスティンが、シードの背中にしがみつく。


 「ジャスティン!」

 「シンクロするわ。私の魔力を使って」


 ジャスティンの魔力は、膨大なキャパシティーを誇るブラニーに、匹敵するものがあった。彼女はそちらの血を強く継いでいる。しかも、二人の血は非常に近い波長を持っている。理由は二人の母方の関係にある。ブラニーとノアーが、姉妹であるためだ。ほぼ百パーセント受け渡すことが出来る。


 シンプソンが予めの手順を踏んでいたため、この後、どうにかドライの傷を治すことが出来る。しかし、魔力を使い果たした三人は、死んだように眠るのだった。


 オーディンは、以後処理を疎かにするわけにも行かず、辛いながらも街の外にいた。レイオニーとニーネは、ドライを見かね、別室で待機していた。

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