第1部 第9話 §2
ドライは、オーディンと共に、ローズのそばまで寄ると、彼の腕をスッと払いのけ、微かに右目を開け、ベッドの端にしがみつき、自らの力だけで彼女に触れに行く。手がローズの頬に触れるまでは、すぐにでも起きあがるのではないか、目を覚ますのではないか、心の何処かでそう願っていたドライ。だが、その頬に手が触れた瞬間、彼はもう一度絶望する。
「ぐ、ぐぐっ……」
ドライは声を抑えて、顔をベッドに伏せた。誰が見ても泣いているのは解る。それでもなお、彼は涙を隠そうとしている。食いしばっている声が心に痛い。オーディンは、ローズのベッドの脇に立て掛けられている鞘に収められたレッドスナイパーを見つける。そしてそれをおもむろに取りに行く。そして、鞘のベルトを口にくわえ、剣を抜いた。中からは普段通りの紅い刀身が姿を現す。そして、矛先をドライの背中に突きつけた。
「ドライ。どうして欲しい?」
その声は酷く曇っていた。
「な!何を言っているのですオーディン!!馬鹿な真似は止めて下さい!」
すぐさまシンプソンがオーディンの腕に食らいつき、矛先をドライから明後日の方向へとそらせた。そしてセシルがドライに背中合わせに張り付き、オーディンの前にふさがった。
オーディンは何も言わない。シンプソンを払おうともしない。そのままの姿勢で立ちつくしている。
「ローズと同じ所で良いや……」
「解った」
ドライの言葉に反応し、オーディンの腕が再び動き出す。強く振り切って、シンプソンを壁に叩き付けた。そして的が逸れぬよう呼吸を止め、右を引き気味に構える。しかしドライの前には、セシルが座っている。
「待て下さい!オーディン!貴方は何をしようとしているのか、解っているのですか!!止めるんです!!」
シンプソンは、払いのけられたショックで、頭を酷く打ち立つことが出来ない。目を眩ませながら懸命に、腕と指先を伸ばす。
シンプソンとは裏腹にノアーは冷淡にオーディンの腕に自分の掌を掛ける。先ほどの熱い涙とは正反対だった。そしてドライの方を向く。
「ドライ。卑怯ですわね。逃げる気?」
「ああ……」
ドライは伏せたまま無気力な返事を返す。彼の返事を聞いたノアーは、今度はオーディンを見つめる。だが、オーディンは彼女に視線を合わせようとはしない。セシルの向こうのドライに視線を合わせ続けていた。
「これ以上、ドライに何を求める。同じシルベスターの子孫でありながら、彼だけに全てがのし掛かるのは、間違いではないのか?戦士としての翼をもがれ、愛する女も殺された。これから何を目的に生きる!ただ屍のように生きろと?!もう良いだろう。私には、彼の意志を止める権利はない」
「しかし!貴方に彼を殺す権利はないでしょう!!」
「では奴に自らの腹を切れと言えるのか!ドライならやりかねんのだ!だが、そんな残酷なことが出来るのか?忠義でも、犠牲でもない死を、自分で歩めと言うのか!!」
オーディンの言葉は身勝手な物だったが、ドライがそれを望んでいるのだ。周囲がどんなに正しいことを言ってたとしても、ドライの意志が覆らない限り、彼の生き方を否定したことになるのだ。誰にもその権利はない。
「はっ!情けない。俺が倒そうとしとったドライ=サヴァラスティアは、その程度の男やったんか!ローズ=ヴェルヴェットも哀れやなぁ」
最も一番後ろからドーヴァが腕組みをし、つま先をトントンとならしながら、無神経な大声で言う。
「……」
ドライは何も言わない。何を言われても腹が立たない。もはやどうでも良いのだ。全てが自分で頷けてしまう。こんな無反応なドライに、仕掛けたドーヴァの方がカッとなる。
「マリー=ヴェルヴェット!!」
一人の名前を出す。この名を聞いたことがあるのは、オーディンとシンプソン、そしてドライ本人だった。問題は、何故この名前を知っているのかであるが、ルークといたこと、黒の教団と接点のあることから、何ら不思議ではない。だが、何故この名前が出てきたのか、である。
「ルークに足折られて、片足のないお前が、義足に頼ってまで戻ってきた鬼畜の世界。何のために戻ってきたんや。マリーのためやろ!!そのために五年、何をした?ローズ=ヴェルヴェットのためには、何もしてやらんのか!!彼奴は、何のために、誰のために、やばくなると解ってた旅を此処までしてきたんや!!そんでもて!お前なんか倒すために、時間費やしてきた俺はカスや!!しかしお前はもっとカスじゃ!!」
しかし、後ろから叫んだドーヴァの声はドライに届きはしない。未だ退かないセシルを見て、オーディンが剣を床に刺し、興奮で呼吸の乱れているドーヴァの肩にを、強めに掴んだ。
「ドーヴァ、クロノアールは、もはや人間が力を合わせた所で、勝てる相手では無いのだ。シルベスターを起こす手段が解らぬ以上、我々にはどうにもならん。ドライはもう、戦える身体ではないのだ」
「けど、俺はこんな死に際許せへんぞ!!どうせやったらクロノアールに突っ込んで玉砕せぇや!!まぁ、最もそんな根性あったら、今頃その身体引きずって、シルベスターを復活させる方法探し取るやろうけどな!!」
ドーヴァは、興奮するうちに前のめりになってドライに飛びかかろうとする。オーディンはドーヴァの熱い気持ちが解りながらも、腕でドライへの防戦を張る。
「よし、それやったら、俺がお前の最終目標になったる!!」
ドーヴァは、オーディンの腕を払い除け、ドライの前にふさがっているセシルの腕を強引に掴み、自分の方へ抱き寄せ、彼女を正面に向かせる。そして、剣を抜き、刃をセシルの喉元に寄せた。微かに腕が振るえている。
「ドーヴァさん!!止すんです!!馬鹿な真似は!!」
シンプソンが叫ぶ。
「黙ってい!!ドライ!こっち向け!!」
そんなドーヴァの額からは汗がどっと流れ出す。目の色も異常だ。異様にギラついている。
「オメェにゃセシルは、殺れねぇよ。ましてや俺なんかのために……な」
伏せていたドライの頭が持ち上がる。だが、ドーヴァの方を向く気配はない。その声はまるで夕凪のように、静かだった。そしてその言葉通りに、ドーヴァはそれ以上、セシルに刃を近づけることは出来なかった。
「良いわ、ドーヴァ、遠慮しないで……」
その時セシルが、刃を摘み、より自分の喉に押し当てた。震えているドーヴァの指先が剣も振るわせ、セシルの白い喉を僅かに切り、そこから血が滴る。
「セシル!止めろ!!」
ドライは血の臭いとセシルの気迫を感じ、今までセシルに見せたことのない、彼女を心底心配する兄の顔を見せる。ドライは振り返った瞬間、自らの体重を支えきれず這い蹲るようにして前に倒れ込む。何と哀れな姿だろう。泣いた瞼が赤く腫れている。彼はそんな自分をさらけ出していることを忘れていた。
「兄さん、お願い諦めないで……、姉さんもきっとそれを望んでいるから!」
セシルは目を閉じ歯を食いしばっていた。上半身は全く震えていないと言うのに、下半身は酷く痛みに恐怖している。それでもドライへの説得は続く。
「諦めないで!シルベスターを……」
「セシル、お前……、馬鹿野郎……」〈シルベスター!どうやったら起きてくれんだよ!目ぇ覚ませよ!!〉
ドライは、握り拳を作り、床を叩く。その音は、普段の彼の力より数倍強く感じられた。死ねなくなった苦痛を、未だ目覚めないシルベスターにぶつけた。
「呼んだな!シュランディア!!」
その声は、全員に聞こえる。外からではなく心の内からだった。空間が激しく渦巻き、そして何も纏わぬシルベスターがその渦の中心に出現する。と、同時にバハムートが、息を切らせながら部屋の中に飛び込んでくる。
「大変じゃ!シルベスターが、消え……」
彼は再びシルベスターの姿を確認すると、言葉が詰まって、何も言えなくなってしまった。
そしてシルベスターがゆっくりと目を開ける。
「ドライ=サヴァラスティアは、シュランディアにあってシュランディアに非ず。そして、心で叫ばぬ者の声は、声に非ず。我呼び起こす者、我が直系であり、我信じる者なり……」
シルベスターは、地に足を着けると、真っ白な法衣を身に纏い、目を見開く。その瞳は銀に輝き、床に這っているドライを見据える。それからオーディン、シンプソン、セシル、最後にローズを眺めた。あまりにも怪しく輝く銀の瞳は、その思考を読ませなかった。何を考えているのか、一同は不安に陥る。もしクロノアールと、同様であったことを想定してしまったのだ。
「セシル、もう良いのではないかな?」
そして、まず自ら喉元を切ろうとしている剣を柔らかく退ける。そして、血の滴る喉元に手を宛う。するとどうだろう、セシルの傷がいとも簡単に癒える。そして今度はオーディンの頭部に触れる。その直後オーディンの腕が、突き出すように再生した。だが、それだけではない、彼の顔に焼き付いて離れない醜い傷跡まで奇麗に取れてしまった。あまりの出来事に皆何も言えない。
オーディンの治療を終えたシルベスターは、次にドライの方へとしゃがみ込む、そしてオーディンと同じく彼の頭部に手を当てた。そして数秒立ち、彼はドライの頭部に巻かれてある包帯を、消滅させた。
ドライは急に開けた自分の視界に驚いた。失われた左目も、顔の傷も全くなくなっている。当然それだけではない、ボロボロだった身体は、以前のように軽やかさが戻る。そして義足は、生身の足へと戻る。
彼は静かに立ち上がる。面と向かったシルベスターに言う言葉は何もなかった。ただ驚いて、眉を険しくし、目を丸くしているだけだ。
シルベスターは、ドライを修復した時点で、少し疲れを見せる。目覚めてすぐに力を疲れているせいだろう。しかし彼は休む様子もなく今度はローズに近づき、彼女の額に手を触れる。
「随分と手ひどい目にあったものだな」
シルベスターは、少し険しい顔をした。それからチラリとドライの方を見て、そしてふっと笑みをこぼす。険しく自分を観察しているドライを、おかしく思ったのだろうか。そして、ローズから手を離し、自分の立っていた場所をドライに開け渡した。その時だった。
「う……、うん」
ローズが寝苦しそうに声を出し、彼女の青白かった顔が、健康な艶のある色へと戻る。
「まさか!おいローズ!生きてんなら目ぇ覚ませ!!」
ドライは、ローズのベッドの側にしゃがみ込み、右手で彼女の頬を何度も遠慮なく叩く。
「う……ん?」
あまりの痛さに、不機嫌な様子でうっすらと目を開ける。焦点のあっていないぼんやりと視界に、必死になっているドライの顔が目に入る。
「ハハハ!マジかよ!!ハハハ!!」
何もかもが上手く回り始めたことが信じられずに、ドライは笑顔を引きつらせながら、ローズを強引にベッドから抱き起こし、抱きしめて高々と上げる。シーツを着ていない彼女は、生まれたままの姿だ。シルベスターを除いた男共が、顔を赤くして、目をそらす。
「アホが……」
抱え上げたローズをそのまま抱きしめるドライ。彼女の胸の谷間に顔が埋まる。そこから確かに生きている人間の証が聞こえた。
一方のローズは、自分の状況すら把握できていない。別に裸でいることに気が付いていないわけではないが、意識が途絶えてから次の瞬間に、全く見慣れぬ景色で、挙げ句の果てにこの状況だ、キョトンとした顔をして、ドライの頭に手を置く。
「ドライ、どうしたの?」
「針千本飲ましてやっからな!」
「?」
ドライの声は、非常に穏やかだった。これ以上幸せなことはない、目一杯ローズを抱きしめている両腕だというのに、安堵のあまり震えて、指先には全く力が入らない。
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