第1部 第9話 生きる事 死ぬこと
第1部 第9話 §1
暗雲の中、宙を彷徨う陸地と共に、一つの大型旅客船も行き先を決めることなく彷徨っていた。
「ご老人……」
シンプソンが龍の上から船へと降り立ち、重々しい声で彼の存在を確かめる。シンプソンは目で言う。「統べたがもう手遅れだ」と。シンプソンが後ろを向き、ノアーと視線を交わす。ノアーは、コクリと頷き、ボロボロになったオーディン、そして息絶えたローズ、シルベスターの入った水槽などをドラゴンに降ろさせる。
「さぁ、貴方も……」
ノアーがセシルに手を差し延べた。しかしセシルは、涙を流した瞳に憎しみを溢れさせ、下唇をかみしめ、その手を乱雑に払いのけた。面識のない彼女に、辛く当たられたノアーは、叩かれた手を痛そうに胸元で揉み、吃驚気味に目を開いて、セシルを眺めた。
「貴方からはクロノアールの匂いがプンプンするわ!!」
あまりにも激しいセシルの声は、ノアーを退かせた。閉ざされたセシルの心に戸惑わずにはいられなかった。そして、彼女の言うことは尤もなのだ。
「ご免なさい……」
ノアーは、訳もなく謝る。ただクロノアールの子孫と言うだけで、過剰なほどの罪悪感に煽られた。
「セシル、そう言う判断は正しくないですよ」
「ご免なさい!でも!でも!!あぁぁぁ!」
今はシンプソンの胸で泣くしかなかった。
「あ……、う……、シンプ……ソン、ドラ……イを、助けなくては」
オーディンが一時的に意識を取り戻し、血の気のない身体を強引に動かそうとする。
「安心して下さい。ドライさんは、先にノアーが運んでくれましたから……、さぁ、貴方も……」
セシルを、胸に抱きながら、しゃがみ込み、オーディン手を握る。シンプソンのその手からは、治癒の魔法が放たれた。シンプソンの顔を見たオーディンは、それを信じることにし、気を休めることにする。
バハムートは、あまりにも壮絶な彼等に、口を開くことが出来なかった。
「爺さん!ドライの治療は、命の別状のない程度まで出来たで」
ドーヴァが船内から、甲板へと出てくる。かなり疲れた様子だ。しかし、目の当たりにした光景に、お喋りが止まってしまう。オーディンとローズが、転がっているのだ。あまりの無惨な姿に彼の目には二人とも死んだように映った。しかしオーディンの方は、シンプソンの治療を受けているのが解る。それで何とか死んではいないことを認識した。
彼は、足音を消すようにして、彼等の側に近寄る。その時、足で何かを蹴飛ばす。
「なんや?これはドライの剣やな、後でもっていったろ、にしても、こっちはショック間違いなしやな」
胸板をすっかり抉られているローズの死体を眺め、げんなりする。それを更に増幅したのは、彼女が目を開いたまま死んでいることだった。
「ドーヴァさん、セシルを頼みます」
「ああ……」
シンプソンは、セシルをドーヴァに預けると同時に、本格的にオーディンの治療に当たり始めた。ブラニーに可成りの気を渡したため、思うように意識が集中できない。眉間に苛立ちを表しながら、懸命に、彼が存命出来るよう願った。オーディンなら持ちこたえてくれる、そう信じるしかない。
「クルー達に、皆を運ばせよう……」
バハムートが、足を引きずるようにして、船内に戻る。
考古を追求している彼は、偉大なる昔に明日を夢見ていた。そして今、その事実の一端を目の前にしているのだ。しかし、それがこの光景なのだ。先ほど語りかけてきたシンプソンの目が瞳の奥に焼き付いて離れない。
「あ……、うん……」
それから数時間後、ドライはドーヴァの治療が功を奏して、思うより早く目を覚ますことが出来る。
体中が痛い。僅かでも動かそうとすると、指先がつってしまいそうだ。自分がどうなったのか、あれから一体何が起こったのかを確かめるため、その目で確認しようとするが、反射的に両目で物を見ようとするため、激痛が走り、右目を開けることが出来ない。
「お目覚めになったのね……」
女の声がする。
「ローズ……?、いや……違うノアーだな」
「ええ……」
ドライは、ノアーの声をもう一度聞くと、自分が気を失うまでの状況を思い出す。最もあの時も周囲の音しか聞くことが出来ていない。その時も彼女の声がした。それ以上の記憶はない。
「ルーク……奴は……」
ドライは、痛みを堪えながら起きあがろうとする。しかし、先ほどまで体中の骨が砕けていた男がすぐに動ける訳はなかった。今の自分の状態を冷静に捉えることにし、痛みを和らげるため、深呼吸をした。融通の利かない身体に苛立ちを覚る。
「お静かに……、あの男は、大司教と共にどこかへ……」
「ローズ、ローズは何処だ……、セシルは!大体此処は何処だ」
聴覚にしか頼ることが出来ない状態で、ドライは声を絞り出すようにして、次々とノアーに現状を聞く。吐き出す息と共に顔を歪める、痛々しい姿だった。
「安心して、此処は安全な場所です、少女の方は、疲れていて、他の部屋で休んでいます。ローズは……、彼女は、深手を負っていて……、安静にしています」
うそをつく声が微妙に震える。ノアーには、ローズが死んだことを言えなかった。それにシンプソンに口止めをされていたのである。「今ドライから気力を奪ってしまってはいけない、生きる目的が無くては、すぐさま死に至ってしまうかも解らない」と。
「そっか……」
少し安心した様子で枕に頭を沈めるドライ。彼の落ち着いた様子を見ると、かえって罪悪感を覚えてしまうノアーだった。
「で、メガネ君とオーディンは?」
「シンプソン様は、オーディンさんの治療で疲れきって今は別室で……」
シンプソンがオーディンの治療を終えて眠っているということは、彼も無事だという事だ。ドライはそう解釈して、もう一度大きく息を吐く。
「シルベスターは、どうなった?彼処にまだいるのか?」
「シルベスターも、この船に運び込んであります。だから貴方は、ゆっくりと休んで下さい」
ノアーの手が、ドライの右頬を撫でる。しなやかな指先が異常に研ぎ澄まされた感覚が、その感触をより鮮明にさせた。ノアーとこれほど接近したのは、初めてだ。ローズが側にいない今、妙な安心感を与えてくれる。そのひょっとした瞬間、彼女の指先がドライの唇に触れた。人肌の温もりが、不安がっている自分を気づかせる。
「メガネ君に、怒られんぞ」
甘え気味になっている自分を切り離すように、ボソリとノアーの方から手を引かせるように、仕向けるドライ。ローズに対する済まないという気持ちも、含まれていた。
「クス……、あの方はそんなに心の狭い人ではありませんわ」
ドライには、彼女の声しか聞けない。それはまるで小馬鹿にしたような、ツンとした口調だが、実際は、あまりにも不遇なドライに、懸命に涙を抑えていたのだった。
もうこれ以上いては、悟られてしまいそうなノアーは、ドライの側から立ち、部屋を出て行くことにする。
彼女が扉を閉めると同時に、雷鳴が聞こえ、雨が激しく窓を叩く音がした。
〈五月蠅くて、寝れやしねぇな〉
ドライは、寝たくとも寝れない不安な心境を雨のせいにして、それに心を紛らすことにした。
部屋を出たノアー、涙が一伝い頬を流れる。そんな彼女を仮面を外したオーディンが苦痛そうに左肩を押さえ、待ちかまえていた。
「ドライは……?」
「起きています。しかし……彼は、元には戻れないわ」
ノアーは、自分を責めた。セシルに言われた言葉を、相当に気にしているようだ。だが、オーディンは、こんな彼女を見て、逆に嬉しく感じた。それは彼女が理想ではなく、人としての心の痛みを取り戻した証拠だからだ。
「ドライは、私が見る。君は、シンプソンの側についてやれ、相当疲れている」
それ以上に傷を負っているオーディンが、心底友人の心配をしている。そっとドライの部屋に入って行く。そんな彼等の関係に、ノアーは、くわわろうとしている。彼女は、その暖かみを胸の中に受け止めるのだった。
「よぉ、オーディンか」
オーディンがドライの部屋に入り、近づくと同時に、ドライが目を瞑ったまま、蚊の鳴くような声で彼の名を呼ぶ。
「良く解ったな」
「ああ、お節介の仮面野郎の足音は、聞き慣れてるからな」
ドライは何時も通りのように、口元をニヤッとさせる。
「ふ、なるほど」
オーディンは、そこに相変わらずのように感じるドライの口振りに、彼らしいと言いたげに気障っぽく息を漏らした。そして、ドライの側に置いてある椅子に腰を掛けた。人のなま暖かさを感じた。そこには、先ほどまでノアーが座っていたのだ。
「腕……、もうダメなのか?」
ドライが心底オーディンの心配をしているのが、より低く慎重な声色で解る。
「ああ……、しかし貴公よりは、ましだ」
自分の左肩を押さえ、無くなったモノをすっぱりと諦めるように、冷静に微笑んだ。
「オーディン、マジでローズの奴、生きてんのか」
このドライの質問は、オーディンの心臓を抉った。その傷口はローズのそれよりも心理的に遥かに深い物があった。何も言えない。肩の痛みすら忘れてしまいそうだった。
「ああ……」
声を硬直させ、懸命に嘘を吐き出す。
「やっぱそうか……」
ドライの瞳からすうっと涙が流れた。マリーが死んだときには、この感情がただの苛立ちにしか感じることが出来なかったが、今は悲しいのが自分でも良く解った。
「ノアーの奴、手ぇ震えてやがった。下手な芝居してよ。ははは……」
「ドライ……」
一瞬、静かになりすぎたドライに妙に恐怖を感じるオーディンだった。
「チクショー!!約束破りやがって!あの馬鹿!!クソッタレがぁ!!馬鹿野郎!詐欺師!ペテン女!!!」
今まで虫の息のような声とは裏腹に、部屋全体を破壊しそうな大声を張り上げる。その振動で、体中の痛みが一気に膨れ上がった。それはドライの心の痛みでもあった。
「感じねぇんだよ!彼奴の存在を……、どんなに小さくたって、彼奴の気配は何時も分かるんだよ!」
ドライは今出せる全ての力を込めて暴れ出す。しかしその動きは微々たるモノだった。虚しくシーツが揺れるにすぎない。
「ドライ、済まない。私が身を挺していれば……」
オーディンは、頭を下げた。厳しく自分を責めた。結果的に仲間を守れなかったのだ。悪夢である。暫く忘れていた左顔面のうずきが蘇ってくる。
「いや、オメェは悪くねぇ、最低なのは俺だ。あんときしっかりシルベスターさえ、起こせていれば……、彼奴は死なずに済んだ。その腕も……」
オーディンはこの時点で、ドライらしい反面を見たと同時に、彼らしくない冷静な反面を見た。彼も自分を責めているが、一叫びした後、声を沈めてオーディンに慰めの言葉を掛けている。その言葉には、思いやりが感じられた。
「ローズ、ここにいるのか?」
「ああ、シンプソンの話では、彼女の遺体も運んでいるらしい。会うか?」
「頼む……」
ドライは、オーディンに振るわせながら指を伸ばし腕を差し出す。そしてオーディンは、ドライの背に右腕を回し、そのまま腕一本で、彼を抱え上げた。そして互いに肩を貸し合い、二人は自分たちの足で、ゆっくりとドアの側まで歩く。
ドライが腕を上げ、手探りでドアノブを回そうとするが、そこまでの力が入らない。すると、向こうの方からすうっと、引いた。そして、そこにはノアーが立っている。セシルもシンプソンも、ドーヴァもだ。皆ドライの激しい声で、駆けつけたのだ。それぞれに疲れた顔をしているが、ドライには知らせたくなかった事実をそれぞれ彼に語る。
しかし、ドライは、その誰からも視線を逸らした。だが、微かに開けた目を一度だけセシルに目をあわせる。
「セシル。オメェは、お袋によく似てる。済まねぇ、兄貴らしいこと、何一つしてやれなかったな」
何故過去形なのか。オーディンにはドライの言っている真意が良く解った。かつて自分がヨハネスブルグから異境の地へ飛ばされた時、彼もその感情を抱いたからだ。あの無気力な瞬間は、今でも覚えている。
それにセシルにも一つ解ったことがある。別に何でもない言葉だが、ドライが、自分と母の顔を重ね合わせる事が出来たのは、彼が記憶と取り戻しているからに、他ならない。
一つの部屋の戸を開け、中に入る。部屋は真っ暗だったが、シンプソンが直にランプに火を灯してくれた。ベッドの上には、血の気の引いたローズの遺体が横たわっている。目は静かに閉じられていた。
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