空港
増田朋美
空港
今日はよく晴れて良い天気になった。春らしい、花がよくさいて、木の葉も新緑色になってきた、良い季節なのであるが。その日、北海道で大きな地震があったようで、こちらの静岡は全く揺れを感じなかったのであるが、テレビのニュースではひっきりなしに地震のニュースばかりやっていた。由紀子は、どうせ遠く離れた北海道のことだし、自分が住んでいるところとは、全く関係のないことだと思って、その日も製鉄所に向かって車を走らせた。
「こんにちは。由紀子です。水穂さんはいらっしゃいますか?」
由紀子は、そう言って製鉄所の入り口の引き戸を開けるが、返事はなかった。
「あの、すみません。」
もう一度言っても返事はなかった。由紀子は、上がり框がない、製鉄所の玄関に靴を脱いで、勝手に上がりこんでしまった。ドアの閉まっている応接室の前を通りかかると、ジョチさんが、
「そうですか、分かりました。では、佐藤さんは無事だったわけですね。良かったです。妹さんが、お姉さんが、心配だとしきりに仰っておられました。ああ、そうですか。結構大きな地震でしたからね。ええ、引き続き、妹さんは、こちらでお預かりします。はい、分かりました。」
と言っているのが聞こえてきたが、由紀子には、別の音も聞こえてきた。水穂さんが、えらく咳き込んでいる声だ。由紀子は、急いで四畳半に、かけよって、ふすまをあけると、やっぱり水穂さんが、布団に寝たまま、咳き込んでいた。由紀子は、水穂さんのそばへ行って、大丈夫?くるしい?と声をかけたが、水穂さんは、答えない。由紀子は、枕元にあった水のみをむりやり水穂さんの口元につっこみ、中身を飲ませた。飲ませると、数分で咳は収まったが、薬には眠気を、もたらす成分があったようで、水穂さんはそのまま眠ってしまったのであった。
「ただいま戻りました。佐藤佳代さん、連れてきましたよ。もう、空きがないので入院は無理だそうですので、注射を、お願いして、一時間眠らせて頂いて帰ってきました。いやあ、偉い錯乱状態でしたねえ。」
いきなり玄関の引き戸が開いて、ブッチャーが入ってきた。由紀子は、ふすまを開けて見てみると、ブッチャーが、一人の女性を背中に背負って、やってきたのがみえた。それと同時に応接室のドアも開いて、
「おかえりなさい。お疲れさまでした。いま、佐藤さんの、ご実家に電話しましたら、お姉さんも、無事だったそうです。良かったですね。目が覚めたら伝えてあげましょうね。」
と、ジョチさんがそういっている。
「そうですか、それは良かった。たしかに大きな地震があったようですし、佳代さんが心配してしまうのも、無理はないですね。それが度を越してしまうのもどうかと思いますけど。」
「ええ、確かに、被害状況を伝えるのも大切なんでしょうが、まだ生存者がいることも伝えてほしいですね。とにかく、佐藤佳代さんのお姉さんは無事ですし、幸い北海道の北の方ですから、停電などもないようですよ。まあ、良かった。はやく佳代さんを寝かせてやってくださいね。」
「了解しました。」
ジョチさんとブッチャーは、そんな話をして、佳代さんを、居室へ連れて行った。たしかに佳代さんは、北海道の羽幌町とか言うところに実家があるようだけど、彼女のことより、水穂さんのことを心配してやってほしい、と由紀子は思った。
「まあ、でも良かったですね、理事長さん。ニュースで地震があったと報じられたときは、たしかにびっくりしましたけどね。俺たちは何も被害はありませんでしたが。」
「ええ、ああして、テレビでダイレクトに報じられてしまうと、精神障害のある方は不安になってしまっても仕方ありません。佳代さんのように、錯乱状態になってしまうのも、しかたないと思います。なにしろ、どこのチャンネルでも、番組を休止して、地震の話ばかりしていますから。それもたしかに大切だとは思うんですが、彼女のような人がいるのも考えてもらいたいものですね。」
ブッチャーとジョチさんがそういいあっているのを聞いて、由紀子は腹が立ってしまった。
「お二方とも地震の話ばかりして、水穂さんのことは、考えてくださらなかったのですか!」
由紀子は、思わず言った。
「ああ、そういえばそうでした。錯乱状態だった佳代さんのことばかりで、水穂さんのことは、すっかり。ごめんなさい。」
ジョチさんがそういうが、
「謝ってすむ問題じゃありませんよ!水穂さんももしかして私がこちらへ来なかったら、大変なことになっていたかもしれないじゃないですか!」
由紀子は怒りを込めていった。
「ええ、まあそうなんですけどね、今までのような状況だと、とても水穂さんのところまで手が回らなかったと思います。それはもう仕方ないことなんで、誰を責めても仕方ありませんよ。」
ジョチさんがとりあえず事実を言うと、
「それじゃあ水穂さんのことは、放置してもいい。そういうふうにお考えなんですか!」
由紀子は、すぐに言った。
「まあ、そういうことだったら、由紀子さんに来ていただいで、感謝の辞を述べたほうがいいのですかね。」
ジョチさんは、とりあえず由紀子にそういうのであるが、
「そういう問題じゃなくて、、、。」
由紀子は、じれったくなった。
「まあでもですね。僕達は、佐藤佳代さんのことで、手が一杯で、水穂さんのことは手が出ませんでした。それは、申し訳なかったかもしれません。もしかしたら、家政婦さんとか、女中さんのようなそういう人を雇うほうが、良かったかもしれませんね。佳代さんのような人は、これからまたこちらを利用することはあると思いますから。それに、地震は、いつでも起こります。ですが、女中さんを雇おうと思っても、大半の人は、水穂さんに音を上げてやめてしまいますから、長続きしないんです。」
「理事長さん、そんなこと、言わなくていいですから。」
由紀子は、涙ながらに言った。
「水穂さんが、出身地が悪いとか、汚い存在だからとか、そういうことで、水穂さんの事を放置しているのではありませんか?」
「少なくとも、そんなことはありません。それは、僕達は、しないように努力して行きたいと思います。」
ジョチさんはきっぱりと言った。
「でも、今の事を見た限りでは、そんな気持ちがあるようには見えませんでした。」
「由紀子さん。」
ブッチャーがそう呼びかけたが、由紀子はまだ怒りが収まらなかった。
「まあ、これからも、佐藤佳代さんは、ずっとここに滞在しているでしょうし、地震の報道は暫く続くでしょうし、お姉さんの安否確認で、彼女が狂乱することも無いとは言えないでしょう。まあ、それは仕方ないことです。もし、佐藤佳代さんが、人手を借りなければならないほど、錯乱状態が続くのであれば、水穂さんにまた、マークさんたちのところに行ってもらいましょう。そのほうが、彼も、安全性が確保できると思いますよ。」
えっ!と思われるところがあった。
「ちょっと待ってください。水穂さんを、ここから追い出してしまうなんて、」
「追い出すとか、そういう意味ではありません。ただ、水穂さんだって誰か人手を必要とするでしょうし、佐藤佳代さんも、人手が必要です。それに、二人をカバーするには人材が足りないこともまた事実。ならば、どちらか片方に、ここから出ていってもらうしか方法がありません。なので、水穂さんには、フランスへ行ってもらいます。そのほうが、こちらにいるよりも、適切な医療を受けることだってできますから、容態は安定してくれることになると思います。」
「なんて冷たい言い方、、、。」
由紀子は、呆然としてしまった。
「仕方ありませんよ。由紀子さん。今ここは、地震のことで、完全に飽和状態ですよ。だから、マークさんたちに世話になりましょうよ。マークさんたちは、責任持って、水穂さんの面倒を見ると言ってくれているんですから。」
ブッチャーが由紀子をなだめるように言った。
「ええ、由紀子さんが、あまりにも心配なようなら、須藤さん、ちょっと電話かけてもらってもいいですか?そして、もし、マークさんたちから承諾が得られたようでしたら、すぐにネットでエールフランス航空に問い合わせて、飛行機の手配をお願いします。」
ジョチさんは、こういうときには何でも手が早いのだ。なんでも合理的にパッパと決めてしまう。どうして、そんな力があるのだろう。そういう権力者というかそういう人は、いざと言うときはとても頼りになるのだが、なんだか由紀子は、嫌な気持ちになってしまうのであった。
「わかりました。じゃあ俺、すぐにマークさんたちのお宅へ電話してみますね。時差とか、そういうことは気にしないでいいとマークさんたちは、言っていましたからね。」
と、ブッチャーは、応接室に行った。多分、応接室の固定電話でマークさんの家にかけてしまうのだろう。それで交渉が成立したら、水穂さんは、由紀子の手の届かない外国に行ってしまうのだ。それは、マークさんたちに感謝しなければならないけど、由紀子は水穂さんと別れてしまうのは辛かった。
「私、、、。」
由紀子は涙をこぼして泣き始めた。
「仕方ありませんよ。水穂さんだって、体の不自由なところがあるんです。そして、誰かの力を借りないと生きていけないこともまた事実ではありますよね。それなら、誰かの力を借りましょう。昔だったら、国内で賄えたかもしれませんが、水穂さんの場合、それができないことも事実です。そして、昔と大きな違いは、今は海外の人にも力を借りられるということです。」
「理事長さんそんな理屈はいいんです。私が思うことは、そういうことではありません。私は、そういうことではなくて、水穂さんが、」
そういう由紀子を、ジョチさんは、少しため息をついて、
「それは、確かに寂しいでしょうけど、水穂さんにできるだけ長く生きてもらうためには、日本から出ていってもらうしか、方法が無いですよ。よく言うじゃありませんか。彼のような人は、例えば救急搬送を依頼しても、病院をたらい回しにされて、どこにも受け入れてもらうところは、全く無いのも、また事実ですよ。そうなったら、由紀子さんも嫌でしょうし、僕も嫌ですよ。だから、これが一番いい方法なんです。」
と、由紀子を励ますように言った。由紀子はせめて、水穂さんが、銘仙の着物を着て生活しなければならない身分でなかったら、もっと色々なことができただろうになと思って、本当に悔しい気持ちだった。水穂さんは、どうしてこうなってしまうのだろう。
「そうですね。ごめんなさい。確かに、水穂さんが、差別されてきたのは、私もよくわかりますし、海外には、そういうことが無いっていうのも、私はわかりますよ。」
とりあえず意思とは全然違うことを言って置いた。ジョチさんは、わかりましたと言って、応接室へ戻っていった。その後、ブッチャーやジョチさんがどうなってしまったか、は、由紀子は全く覚えていない。もう、細かいことは忘れてしまって、由紀子は覚えていることは、水穂さんと永遠の別れになってしまう、という気持ちだけであった。
由紀子は、トボトボと車を動かして自宅に帰った。なんだか、食事をする気にもなれず、家の中で机に座ってぼんやりしているしかできなかった。
不意に、由紀子の自宅のインターフォンがなった。由紀子は、宅配便でも来たのかなと思って、玄関先に向かった。そして、玄関のドアをガチャりと開けると、
「由紀子!」
と明るい顔して、高校時代の同級生である秋野美奈子さんという女性がそこにいた。
「どうしたの?なんでまたこんなところに。」
「いやあねえ、由紀子、JRやめて、田舎電車に就職したって言うから、それとなく様子を見に来たのよ。」
と、秋野さんは明るく言った。
「田舎電車って、私が勤めているのは岳南鉄道。少なくとも久留里線よりは、田舎では無いと思うわよ。」
と、由紀子は思わずいうと、
「へえ、久留里線か。確かに客もほとんどいない電車だもんねえ。そんなところよりかは、こっちは、田舎じゃないかもね。ちょっと上がらせてよ。ここで追っ払うのも嫌でしょう?」
と、秋野さんは言った。由紀子は、仕方ないわねと言って、彼女を、部屋の中へ入れた。
「へえ、これが由紀子の部屋か。まだ結婚してないから、持ち物も少ないわね。結婚するとさ、いろんなものが増えて、いらないものでも、捨てられないものがいっぱいある。」
秋野さんはにこやかに笑った。
「あら、でも、名前は秋野美奈子さんですよね?結婚して、もしかして、名字が変わったの?私全然知らなかった。」
由紀子が急いでいうと、
「ええ。まあ一回したんだけど、子供を産んで、すぐ諦めた。男なんてろくなもんじゃないわよ。間違っても、手伝ってくれるとか、そういうことは期待しないほうがいいわね。由紀子が正解よ。一人でいるのが一番。もう、ホント、結婚なんて、太るだけの男に、うるさいだけの子供、ホント最悪よ。だからどうして、こんな事になったんだろって。正しく、こんなはずじゃなかったのに、そのとおりよ。」
秋野さんは、大きなため息を着いた。
「由紀子は誰か思い人とか、そういう人はいるの?それはどんな人?」
秋野さんに言われて、由紀子は、水穂さんのことを口にしようか迷った。
「まあ、いるにはいるんだけど、でも、口に出して言うのは、ちょっとなって気がする。」
「へえ。誰か妻子持ちなの?」
秋野さんに言われて、由紀子は、困ってしまった。
「はあ、秘密の恋か、いいなあ、由紀子、そういうことができるんなんて恵まれてるよ。あたしなんてさ、子供がいるから、なんでも、その子に合わせなきゃならないし。その子に、いくら頑張れって言っても、着いてこないし。まあ、着いてこないことはしょうがないのかもしれないけど、うちの子は、それが特にひどいわ。」
と、秋野さんが言う。由紀子は、それに、ちょっと耳を疑った。
「どういう事?なにか障害のようなものでもあるの?車椅子に乗っているとか?」
由紀子が聞くと、
「ええ。まあ、そういう感じかなあ。まあ、今のことは、忘れてちょうだいね。由紀子にいくら言っても無駄であることはわかってるんだけどさあ。とにかく無性に、その子から離れたくなっちゃうこともあるのよ。それでこうして時々放浪のたびに出て、子供から離れることで、安心をもたらすこともあるの。あたしは、そうすることで安定を保っているのよ。まあ、仕方ないわね。こうして、行けるだけでも幸せだと思わなきゃ。障害児の母親なんてね、一人ぼっちよ。本当に一人ぼっち。誰からも相手にしてもらえない。でもさ、家の子が、ここにいるのに頼るのはあたししかいないから、絶対死なずに生きてやるとは思うけどね。」
秋野さんは、酔っ払った人のように言った。
「まあ、うちの子にはさ、あたししかいないから、きっとうちの子が大きくなっても私しかいないから、私がいなくちゃどうしようもない。私は、これからも誰も頼れずに生きてくしか無い。誰か、他人に頼れる人がいるってホント幸せよ。だって、私を見ればわかるでしょ。旦那にも、年寄にも逃げられちゃって、家の息子は私しか、いないんだから。」
「そうなのね。」
と由紀子は、秋野さんの発言を聞いて、そう言った。
「だから、由紀子も頼れる人がいれば、どんどん頼ったほうがいいわよ。頼れる人は、たとえ仕事であっても、相手に向き合おうとしてくれるんだから。それは、ちゃんと感謝していれば、なにも悪いことじゃないから。」
「そうなんですか。」
秋野さんに言われて、由紀子は、自分のしていることがまずかったのではないかと思った。
「それで、由紀子の想い人はどんな人なの?詳しく聞かせてよ。」
秋野さんは、それを聞くのが唯一の楽しみのようだった。それを聞いて、何になるのだろうかと、由紀子は思ったが、秋野さんは、にこにこしてそれを聞いている。それと同時に、秋野さんのスマートフォンがなった。
「もしもし、秋野です。ああ、組長さん。いつもお世話になります。」
ここで言う組長とは、暴力団とか、そういうところの組長ではない。ただ、近所付き合いで何々組とか、そういう組織があるのだ。由紀子には、電話の内容は次のように聞こえた。
「あの、秋野さんすぐに戻ってきてください!お宅のお子さんが、お母さんはどこと言って、近所中をうろついていて、困ってるんです!今、うちにいますけど、何でも壊してしまうので、なんとかなりませんか!」
「ああわかりました。すぐ帰りますから、あと一時間だけ待ってください。すぐ、新幹線で帰ります。」
その秋野さんの口調で、彼女が、他人が皆敵であるという言葉を言った理由がわかったような気がした。
「じゃあ、すみません。すぐに戻りますので。」
と、秋野さんは電話を切った。
「じゃあ、由紀子ありがと。溜まっていたものを話せたから、もうこれで帰るわ。さっきも言ったけど、誰か頼れる人がいるって幸せなことよね。それは、ちゃんと祝福してやってちょうだいね。」
急いで椅子から立ち上がり、秋野さんは、由紀子のマンションを出ていった。
「誰か頼れる人がいるのは幸せか、、、。」
由紀子は、なんだか辛かったけど、もう一度それを考え直した。水穂さんには、マークさんがいてくれる。確か妹さんもいてくれるのだと聞いたことがある。その二人に任せれば、確かに、水穂さんは、海外でゆっくり生活することができる。そうなれば確かに、体のことだって、安定してくれる。それでは、水穂さんにとっては確かにいいことなのかもしれない。でも、由紀子はちょっと寂しいという気持ちがあった。それは、自分がなんとかするしかなかった。
「空港まで見送ろう。」
由紀子は、小さな声で自分に言い聞かせた。
「それだけが私にできることだわ。」
空港 増田朋美 @masubuchi4996
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