第6話

 ベッドから起きて机に着く。何の気なしに英語の教科書を開く。家で教科書を開くなんて何日ぶりのことだろう。一応予備校の夏期講習は行ってるけど、私は圧倒的に勉強時間が不足している。こうして気が向いた時にやらないと一生やらない可能性もあるから、これをいい機会だと思って勉強しよう。

 なのにスマホがメッセージを着信した。折角のタイミングでいったい何だ。

『美笑、今時間ある?』

 燈子からだった。燈子からの発信なんてレア中のレアだ。心してかかろう。

――大丈夫だよ。どうしたの?

『ちょっと参ってる。気持ちが落ち着かなくて気づいたら美笑にメッセしてた』

――燈子がそこまで混乱するなんて信じられない。

――で、何があったの?

 そこから返信が来るまで五分以上がかかった。

『父さんが車に引かれた』

――え?

 また時間が空く。

『まだICUにいる』

――それってヤバいやつじゃない!

『お母さんは動揺してまともに話も出来ない』

『勿論私と弟にも出来ることは無い。ただ母親の狼狽を宥めようと言葉をかけるだけ』

――それは、なんともヘビーだね……

 それだけ返すのが精いっぱいで、こっちもそれ以上言葉が出てこない。うちみたいに最初からいないなら喪失の苦しさは感じなくてすんでるけれど、長年共にいた人がいなくなる苦しみは如何ばかりか。確かペットが亡くなっても同じように心を患ってしまうこともあると聞いたことがある。

 沈黙が重たい。どちらも二の句が継げずにいる。それでもいつも世話になってるのだから、こういう時にお返しをしなくちゃという思いで、私は必死で声をかけた。

――まだ望みはあるんでしょ?

――医者とお父さんに全力で祈ろう。

――祈ることほど無意味なことは無いけどさ。

――私はここにいるからいつでも何でも話してよ。

『ありがとう』

――燈子、気をしっかり持ってね。

 そうして、会話は閉じられた。無意味だとわかっていても祈るしかない状況なんて、今まで陥ったことなかったから、果たしてあんな言葉で良かったのかと悩んでしまう。どこか他人事じゃなかったかとも。

 そんなこともあって、折角持ち上がったやる気もさっぱり失せてしまった。そして一つのことが頭をよぎった。


 私のパパはどうしていなくなったのだろう。


 幼稚園の時や小学校低学年の頃に何度かパパの存在を訪ねたことがあった気がするけれど、うやむやにされて終わっていた気がする。

 時計を見るとまだそれほど遅い時間ではなかったので、ママに改めて尋ねてみようと思った。部屋に入るとママはまだ荷物の整理をしていた。

「ママ、聞きたいことがあるんだけど」 

「どうしたの」

「あのさ、うちのパパはどこにいるの」

「どうしたの、いきなり」

「死に別れじゃあないよね」

「そこまで重たいものじゃないわよ。勿論別れるのは気の重いことだったけど」

「そっか。でも本当になんで別れたの」

 そこでママが一息ついた。

「もうこういう話もしなくちゃいけない年頃よね。パパ曰く、パパの心が折れちゃったって」

「心が折れた?」

「ママ、前からこんな感じで仕事を忙しくでも楽しく精力的に働いてたけど、パパは就職から先が上手くいかなくてね。二社三社と転職を繰り返すごとにどんどん心が追い詰められてて。元々繊細な人だったから。私には追い詰めるなんてそんな気持ちはまるで無かったし、なんだったら私が働くからパパはゆっくりと仕事を探せばいいよって言ったのだけど、それがまずかったのかな。とにかく私の働く姿がパパには辛くて見てられなかったみたい。自分はどうしてこんなにダメなんだろうって。それで私たちの間に溝が出来て、あなたが幼稚園に上がるタイミングで別れ話を切り出された。私は別れる気なんてこれっぽっちも考えてなかったし、パパの人生が壊れていくのを何とかしてあげたかったけど、私がやればやるほど彼の心は傷ついていったのね。それで、もう戻れないところまで来て、別れたの」

 ママはふっと息を吐いた。

「やっぱりこの話は辛いわ。もう十何年も経ってるのに」

「今はパパと連絡とれたりしないの」

「出来ないわ。どこで何してるのかさっぱり。別に連絡を絶つ必要なんてないのに。そばにいれば娘の成長を見せるくらい私はなんてこともないし、何ならまた一からやり直してもいいと私は思ってる」

 私はそこで閃いた。

「パラレルワールドでパパの行き先を探せないかな」

「探してどうするの」

「パパの役に立ってくる」

「別世界で役に立ってもこっちの世界には何の影響もないのだから意味ないでしょ」

「そうだけど。そうだけど、とにかくパパに会いたいの」

「美笑……」

「あのね、友達のお父さんが車に引かれてICUに入ってるんだって。もう会えなくなるかもしれないって泣いてた。まだ私にチャンスがあるのなら私もパパに会いたい」

「なんでこっちの世界で探さないの?」

「私、お金ないし。それに夏期講習休ませてはくれないでしょ」

「いつもサボりたがってた人が珍しいこと言うわね」

「そんなことはいいの。とにかくこっちの世界で探すのは難しいでしょ。探偵に頼んだら時間もお金もどのくらいかかるかわからないし」

「探偵って大げさね。パラレルワールドでだって条件は一緒よ……ん?」

 急にママが額に手を当てて小声でぶつぶつ呟き出した」

「スパコンを使ってDNAサーチをかければ。それでもかなり時間はかかるかも……」

「何? どうなの? 出来るの?」

 ママが私の顔を見た。

「あくまで仮定の話だけど、可能性は0じゃないと思う。パラレルワールドにいる全人類を虱潰しにDNAサーチしていくの。その中でパパのDNAと一致するものがあれば見つけられるわ。そしてそれを元にこっちでもパパを探すの」

「そんなこと出来るの?」

「やったことは無いけど多分出来ると思う。DNAサーチは前に作ったものがあるからそれを今回用に仕様変更して使えるわ。願わくば国内にいてくれればいいけど」

「ところでパパのDNAなんてどこに在るの?」

「あ……」

 瞬間、沈黙が私たちの間に横たわり、そして私はがっくりと項垂れた。

「なかなか物事は上手くいかないものね」

 そう言ってママが私の肩に手を置いた。完全に手詰まりだ。

「とりあえず私は旅行に行くわ。向こうで何か思いついたらすぐ連絡するから」

「うん」

 盛り上がっていた気分が深い谷底にズドーンと落ちた。動機はどうあれこうしてきっかけを作らない限りパパに会うことはないだろう。本当にもう会えないんだろうか。

 翌日、ママは旅立ち、私は連絡を待ちながら夏期講習に通った。元々の頭の作りのせいかそれともパパのことが気になっていたからなのか、講義の内容はやはりちっとも頭に入ってこなかった。

 そうして一週間が過ぎた頃、ママが気ぜわしく家の中に駆けこんできた。予定は一か月だったはずだから随分と急いで帰ってきたことになる。

「美笑、パパのDNA、何とかなるかも」

 いきなりのことに驚いた私は「あ」とか「う」とかしか言葉が出なかった。そんな私の両肩をママは掴んで揺さぶった。

「私とあなたのDNAを使えばいいのよ」

 なんですぐに思いつかなかったのかなあとママはくるくる回りながら叫んだ。勿論私には何がどうなのか全くわからないまま一人取り残されている。

「美笑のDNAは私とパパのものを合わせて作られてるから、美笑のDNAとママのDNAを比較すればパパのDNAが浮かび上がってくるわ」

 きっとこれで上手くいくはずとママがガッツポーズをする。私はやっぱり「あ」とか「う」とかしか言葉が出なかった。

「善は急げ、さあ、研究所に行くわよ」

 そしてママは自室に荷物を置きに行った。私は呆然としたままで椅子に座っていたが、とりあえずノロノロと立ち上がり荷物を取りに行った。

 研究所はいつものごとく人もまばらで涼しい場所だった。その中を気温を1度ずつ上げるような勢いでママと私が歩いて行く。

 ママは永遠ラボの扉を開けると挨拶もそこそこに、入口の近くにいたメンバーを呼んでDNA検査をさせた。

「先生、これで何を調べるんですか?」

「人探しよ」

「娘さんと母親のDNAからわかるのは……父親ですか」

「そうそう」

 そんなやり取りをしながら研究員は機器を操作し、パパのDNAを作り上げた。そのデータの入ったメモリを取ると、美笑こっちよと言いながらママは部屋を後にする。私は遅れないようについていく。

 ラボⅠから少し離れたところにあるラボⅡと書かれたプレートがついている部屋に入る。ドアが開いた瞬間寒いと感じるくらいの風が吹いた。中はドアに近い方に十畳ほどのスペースがあり、その中央には細長い立方体の機器が、その横に耳鼻科などで見る処置台型座椅子が接着されている。頭部には全周を覆うようなかたちのリングが備え付けられている。他にも様々な計器が取り付けられている。その装置がある場所の奥には何台もの大きなPCが林立していた。何台あるかはすぐには計算できない。

 私がPCに見とれている間にママはラボの人と一緒に透明な立方体の機器にコの字型のバーを備え付けていた。ママが直方体の側面にあるポケットからタブレットを取り出し、何らかの操作をしたのだろう、コの字型のバーが箱の端から端まで移動した。その後ママは二言三言、一緒に来た人と会話をしてから箱についているコンソールを叩いた。すると箱の中に日本地図が現れた。

「さあパパを探すわよ」

「どうやって?」

「これでDNAスキャニングをしていくの」

「スキャニングって何?」

「データを読み取るの。MRIって知らない? 病院で使われてる装置。人体の中身をコマ送りの輪切りにする形で写真を取るのよ」

「へ、へえ……」

 MRIなんて使ったことがないからそのスキャニングというものがどんなものかイマイチ掴めない。視線を落とすと、箱にはある程度まで拡大された日本地図が浮かんでいる。

「こっちの椅子は何に使うの?」

「それはここから別次元、この箱の中に移動するためのものよ」

 そう言いながらママはタブレットを所定の位置に戻し、コンソールにいろんなデータを表示させて指でサッサとデータを選り分けていく。そして一息つくとコンソールから離れた。

「美笑、ラボⅠに戻るわよ」

「え、まだこっちは何もしてないんじゃないの」

「今スキャナーが向こうの日本中の人間をスキャンしてる。パパのDNAが見つかるまでこっちは小休止よ」

「小休止で済めば良いですけどね」

 一緒にラボⅡに来てた人が言った。日本の人口が一億二千万ちょいだとすると確かに膨大な時間がかかりそうだ。でも家の中にいる人までどうやってスキャンするのだろう。やっぱりここは私には高度過ぎる場所だ。


 話が進んだのはそれからひと月過ぎた頃だった。夏休みも終わり、日々も通常運転を航行していた。いつもの帰宅時間より早く帰ってきたママが、私の顔を見るなり「ラボに行くから支度して」と言ってきた。この一か月今か今かと待ち遠しくて堪らなかった日がついにやってきたという。私もパーッと着替えて鍵をかける手ももどかしく研究所に向かった。

 スキャニングで出たパパの居場所はここからは全く遠い**県だった。何でそんなところにいたのか、そこで何をしているのか。試しにママがこの世界にダイブして確認したところによるとどうやら職探しをしているらしいということだった。

 数回のダイブである程度の行動範囲やその行動の所要時間などが確認されたので、それに従ってこちらも行動をしていくことになった。

「で、ここからはあなたがパパを助けてあげて。あ、あっちの世界では私とパパは結婚してないから、あなたも二人の子としては出てこないから。もしかしたら別の場所で私が誰かと結婚しているかもしれないけど、そこで生まれた美笑とあなたは厳密にはDNAの違いがある他人よ。だからよしんば出会っても二人が対消滅することは無いから安心して」

「あの、最後の方は何を言ってるのかさっぱり解らないんだけど」

「ざっくり言えば美笑は安心してパパを勇気づけてあげてこいってこと」

 ママに言われて「よしっ」と気合を入れて、勧められるままに透明なボックスの横に設置された座席型器具に座らされる。器具はまるで歯医者にある座椅子にそっくりだった。頭にはいくつかのセンサーを取り付けられ、サングラスをかけられた。

「あなたのDNAを使ってあっちの世界に疑似人体を形成する。ただあくまで身体だけが出来るのであって、脳はここにいるあなたの物を使い、思ったことを身体にフィードバックさせてあっちの世界で行動することになる。わかった?」

「何となく」

「向こうの身体が見ているものはサングラスに表示されるから気にしなくても平気よ」

 それじゃ試しに動かしてみよう、と言われてママが座席の横にあるコンソールを操作した。サングラスに表示されたのはどこかのワンルームアパートの一室だった。どこだろう。ただ少なくとも現実の世界から違う場所に来ていることを考えるとダイブには成功したらしい。意識をして手を握ったり開いたり屈伸してみたりしてみた。意識して脳を動かすということにまだ慣れないが、練習あるのみだろう。ゆっくり大きく身体を動かし続けた。そこで何かおかしいと気付いた。どこか肌寒い。もう一度自分の身体を見た。

≪私、裸だ……≫

 ゾッとした。隠れる場所を探して部屋を見回すとクローゼットがあったので、急いで中に入って身をかがめた。

≪ママ、これどうなってるの? 私何も着てないんだけど≫

 声を潜めて言う。すると天の声のように脳内にママの声がした。

――DNAから作れるのは人体だけだからねえ。ごめん言い忘れてたわ。でも大丈夫よ。部屋の隅に着替え一式を入れた段ボールがあるでしょ。

 言われてクローゼットから顔を出すと確かに段ボールがあった。急いで箱を開け着替える。ただ洋服に関してはどこのものかわからない高校のブレザーの制服が一つあるだけだった。

――長期間の滞在じゃないんだから着替えは要らないでしょ。

 まあ何かあったら財布の中のカード使って買いなさい。暗証番号は@@@@だから。

 私は一先ず着替えられたところで落ち着いたので部屋の中央にどっかりと座り込んだ。部屋の中には本当に何もない。段ボールのあったところを見ると多分この制服の高校のものらしい鞄があったけれど中身は入ってない。高校名を聞かれた時には何と言えばいいのだろう。いつ聞かれるのかは謎だけど。

――そこはパパのいる冬輪市から快速電車で八つ目の別戸市ってところ。

 脳内にママの声が響く。

≪え、私が考えてることって全部ママ達には筒抜けなの?≫

――そうよ。変なこと考えてたら即強制終了するからね。

≪それは勘弁してよ。私はパパを救うんだから≫

――頑張って。

 それからママと翌日以降のことについて打ち合わせた。さあ、後は決行あるのみ。



 今日も一日のタスクを終える。サングラスを外してママに尋ねた。

「昼間の磁気嵐?って結局何だったの? パパはこっちの異常に気づかなかったみたいで助かったけど、次にまた同じことが起こったらどう対処すればいいのか対応に困る」

「ばれたらばれたで知らないとすっとぼけるくらいかしら。磁気嵐って台風みたいなものだからどういう進路をとるのか半ば運任せみたいなところもあるのよ」

 だから生まれたら常時観測して対応していくだけなのよ、そうママは言った。まだまだこれからの領域の話なので、私には対処法として”すっとぼける”という技術だけが用意された。

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